## 第4話:オーディション、残酷な選別
六月。音楽室の窓から見える紫陽花が雨に濡れ、鮮やかな色彩を放つ季節。
北宇治高校吹奏楽部にとって、この時期は一年で最も残酷で、最も熱い一日――コンクールメンバーを決める「オーディション」の季節だった。
「……はぁ。やっぱり、この空気は慣れないね」
放課後、音楽室へと続く廊下で、私は自分のユーフォニアムのケースを握りしめた。
周囲には、緊張で顔をこわばらせた部員たちが、壁に向かって必死に音出しをしている。
昨年、一年生ながらメンバーに選ばれた私でさえ、この独特の「選別」の空気には胃が痛くなる。
「久美子ちゃん、大丈夫? 顔色が少し青いよ」
隣で、響くんがいつもの穏やかな笑顔で声をかけてきた。
彼は、これから「選別」が行われるとは思えないほど、ゆったりとした佇まいでホルンを抱えている。
「……響くんは、緊張しないの? ソロコン全国1位なんだし、落ちるわけないって分かってても」
「うーん。緊張っていうよりは、少し『苦しい』かな」
響くんは、少し困ったように眉を下げた。
「僕がこの部活で吹く一音は、誰かの一枠を奪う一音でもあるでしょ。……シュヴェフィルでは『実力が全て』だったから、そんなこと考えもしなかった。でも、北宇治のみんなと一緒に練習してると……どうしても、仲間の顔が浮かんじゃうんだ」
響くんの言葉は、この部の「優しさ」と「残酷さ」を同時に言い当てていた。
彼は、圧倒的な実力者であるがゆえに、自分が誰かを蹴落とす存在であることを誰よりも自覚していた。
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### 1. 響くんの「プロの基準」
オーディションは、滝先生と外部講師の橋本先生、新山先生の前で一人ずつ演奏する形式で行われた。
音楽室の重い扉が開くたびに、絶望した顔で出てくる者、安堵で涙を流す者が入れ替わる。
「……次。ホルン、如月くん。入ってください」
滝先生の淡々とした声が廊下に響く。
響くんが立ち上がり、軽く一礼して部屋に入っていった。
扉の向こうから漏れ聞こえてきたのは――。
**――完璧な、静寂を支配する一音だった。**
それは、コンクールの課題曲の冒頭。
たった数小節のフレーズの中に、朝露のような透明感と、夕焼けのような深みが同居していた。
廊下で待機していた部員たちが、一斉に動きを止めた。
特に、響くんと同じ二年生、そして三年生のホルンパートの先輩たちの顔から、血の気が引いていくのがわかった。
「(……次元が違う)」
それはもはや「上手い」という言葉では片付けられない。
響くんの音は、聴く者に「これが正解だ」と強制的に納得させてしまう、圧倒的な説得力を持っていた。
プロの現場で、大人たちと肩を並べて吹いてきた彼が、無意識に引き上げた「合格ライン」。
それが、北宇治の高校生たちにとって、どれほど高く、残酷な壁であるかを、その一音が残酷に証明していた。
数分後、部屋から出てきた響くんは、いつもの困り顔で頭をかいていた。
「……あはは。滝先生、すごく厳しい目をしてた。僕、何か間違えちゃったかな」
けれど、彼の後に続いたホルンパートの先輩は、楽器を抱えたまま、その場に泣き崩れてしまった。
響くんの完璧な演奏を聴いた直後に、自分の「不完全な音」をさらけ出さなければならない苦痛。
響くんは、駆け寄ることもできず、ただ悲しげにその背中を見つめていた。
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### 2. 選別された「55人」
翌日の結果発表。全員が椅子に座り、水を打ったような静寂の中、滝先生の口から一人ずつ、その役割と共に名前が告げられる。
「……では、発表します」
滝先生が手元の名簿に視線を落とした。
隣に座る響くんの指先が、膝の上で微かに動くのが見えた。彼はシュヴェフィルのオーディションもソロコンの予選も何度も経験してきたはずなのに、その横顔には、これまでに見たことのないような切実な色が浮かんでいた。
滝先生の声が、冷徹なまでに響き渡る。
木管パートから始まり、低音パート。私の名前が「ユーフォニアム、黄前さん」と呼ばれた時、心臓が跳ね上がった。隣で奏ちゃんや夏紀先輩の名も呼ばれる。けれど、喜ぶ余裕なんてない。まだ、呼ばれていない先輩たちがそこにいるから。
そして、ホルンパートの番が来た。
「……ホルン。1st、如月くん」
一番に呼ばれたその名に、部員たちの間に声にならない溜息が漏れた。当然の結果だ。オーディションであの圧倒的な「プロの基準」を見せつけられて、彼を外す理由などどこにもない。
「……はい」
響くんは短く答え、深く一礼した。いつもの困り眉ではない。一人の表現者として、その席の重みを受け止める、峻烈な表情だった。
続いて、2ndに3年生の先輩の名前が呼ばれる。3rdに2年生、4thに1年生……。
それは同時に、呼ばれなかった部員たちの夏が終わることを意味していた。響くんと同じ2年生の仲間や、ずっと努力してきた3年生の先輩が、次々とその輪から外れていく。
「……以上です。選ばれた55名は、北宇治の代表としての自覚を持ってください」
滝先生が手帳を閉じると、音楽室のあちこちから、こらえきれない嗚咽が漏れ出した。
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### 3. 「劇薬」の孤独と責任
ミーティングが終わった後。
楽器を片付ける喧騒の中で、響くんは一人、自分の譜面台の前に立ち尽くしていた。
彼の1stの譜面は、他の誰よりも高い技術と、バンド全体を牽引する強靭な意志を要求される。
「……如月くん」
声をかけたのは、2ndに選ばれた3年生の先輩だった。
彼女の目は赤く腫れていたけれど、その手はしっかりと響くんの肩に置かれた。
「……あなたの1st、凄かった。……私、あなたの隣で吹けるのを誇りに思う。だから、遠慮しないで。あなたの思う最高の音を鳴らして。私が、全力で支えるから」
「……先輩」
響くんの瞳が、微かに潤んだ。
彼は、自分が選ばれたことで誰かが涙を流したことを知っている。けれど、その誰かが自分に「最高の音を」と託してくれた。
シュヴェフィルという「個の競合」の世界では決して味わうことのなかった、この泥臭くて、温かくて、残酷な「絆」。
「……はい。精一杯、吹かせていただきます」
響くんは、もう一度深く、今度は一人の部員として頭を下げた。
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### 4. 滝先生の「宿題」
帰り際、響くんは滝先生に呼び止められた。
「如月くん。あなたの演奏は完璧でした。……しかし、今のままでは『北宇治の音』にはなりません」
滝先生の眼鏡の奥の瞳が、鋭く彼を射抜く。
「1stというポジションは、単に難しいフレーズを吹く席ではありません。後ろに続くメンバー、そしてバンド全体を、あなたの音色という『色』で染め上げる責任があります。……あなたは、彼らの呼吸を感じていますか?」
「……呼吸、ですか」
「ええ。オーケストラの首席とは違う、吹奏楽の1stとしての在り方。それを、この夏で見つけてください。……期待していますよ」
滝先生が去った後、響くんは宇治川の夕暮れを見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……久美子ちゃん。僕、なんだかすごく、重いものを預かっちゃった気がするよ」
「……それが、北宇治の1stだよ、響くん」
私は、自分のユーフォのケースを握り直した。
「でも、響くんは一人じゃないよ。……2ndの先輩も、3rdの同級生も、4thの1年生も。みんな、響くんの音を信じて、後ろをついていくんだから」
響くんは、夕焼けに照らされた黄金のホルンケースをぎゅっと抱きしめた。
そして、少しだけ泣きそうな、けれど晴れやかな笑顔を私に向けた。
「……うん。そうだね。……行こう、久美子ちゃん。僕たちの、本当の夏が始まるんだ」
選別された55人。
その頂点に立つ黄金の1st。
如月響という「劇薬」が、北宇治の音をどう変えていくのか。
残酷な季節を越えて、物語は合宿という名の激動へと突き進んでいく。
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【第5話:合宿、劇薬のシナジー】へ続く