## 第6話:府大会、黄金の咆哮ふたたび
八月。京都コンサートホールの外は、アスファルトが陽炎を立てるほどの酷暑に包まれていた。
けれど、一歩足を踏み入れた舞台裏の廊下は、心臓の鼓動が耳に届くほど冷え切った静寂に支配されている。
コンクール京都府大会。
昨年、私たちはここで「金賞・府代表」を勝ち取った。けれど、今年は違う。如月響という「黄金の核」を得た北宇治は、周囲から「勝って当然」という無言のプレッシャーに晒されていた。
「……久美子ちゃん、手が冷たいよ」
楽器ケースを抱えて列に並ぶ私の隣で、響くんがそっと囁いた。
彼の手は、驚くほど温かかった。シュヴェフィルの大舞台を何度も経験してきたはずの彼なのに、その瞳には、かつてないほど濃い「仲間を想う熱」が宿っている。
「……緊張してるのかな。自分でもよくわかんない」
「大丈夫。僕が、みんなの音を全部拾い上げるから。……信じて」
響くんは、困ったような、けれど頼もしい笑顔を見せた。その首筋には、合宿で吹き込み続けた証である、赤紫色のマウスピースの跡が微かに残っていた。
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### 1. 舞台袖の「異変」
「プログラム18番、北宇治高校。……どうぞ」
誘導係の声とともに、私たちはステージへと足を踏み出した。
眩い照明。反響板が作り出す独特の密閉感。そして、客席を埋め尽くす観客たちの熱い視線。
指揮台に立つ滝先生が、ゆっくりとタクトを構える。
課題曲の冒頭。
麗奈のトランペットが、針の穴を通すような鋭さでホールの空気を切り裂いた。
続いて、低音パートが地鳴りのような響きを添える。
練習通りだ。完璧な滑り出し。
……けれど、事件は自由曲の途中で起きた。
激しい連符の掛け合いの中で、緊張からか、3rdの二年生の音がわずかに裏返り、リズムが崩れかけたのだ。
「(……あ!)」
私の心臓が跳ね上がる。一度崩れたバランスは、ドミノ倒しのようにバンド全体を飲み込んでいく――吹奏楽における、最も恐ろしい「事故」の予感。
その時だった。
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### 2. 黄金の咆哮、ふたたび
崩れかけた旋律の隙間に、圧倒的な質量を持った「音」が割り込んだ。
**――パァァァァァァァンッ!!**
響くんの1stホルンだ。
彼は、楽譜に書かれた音量を超えない絶妙な加減でありながら、ホールの隅々まで行き渡るような濃密な黄金の響きで、迷子になりかけた後輩たちの音を「物理的」に包み込んだ。
それは、合宿で見せた「黄金の土台」の完成形だった。
彼の一音が、狂いかけたピッチを強制的に修正し、バラバラになりかけた呼吸を一つに束ねていく。
シュヴェフィルの首席として培った「指揮者すらコントロールする支配力」を、彼は今、仲間のミスをカバーするためだけに全投入していた。
「(……すごい。音が、私たちを守ってる……!)」
響くんがベルを高く掲げ、ソロ・パッセージに突入する。
それは、かつての「孤独な天才」の音ではなかった。
2ndの先輩の支えを感じ、3rd、4thの震える背中を押し、そして私のユーフォニアムと共鳴し合う、血の通った咆哮。
審査員席に座る大人たちが、一斉に顔を上げ、ペンを止めるのが見えた。
「如月響」という名前をプログラムで確認し、信じられないという表情でステージを見つめている。
高校生の部活動という枠組みの中に、突如として現れた「本物の音楽家」。
けれどその音楽家は、独奏するのではなく、北宇治という巨大な生き物の「心臓」として、全員の鼓動を加速させていた。
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### 3. 表彰式、そして「自覚」
「プログラム18番、北宇治高校。……ゴールド、金賞!」
会場に歓声が沸き起こる。
続いて告げられた「京都府代表」の言葉に、私たちは抱き合って喜んだ。
けれど、ステージから降りた響くんの顔には、安堵よりも深い思索の色が浮かんでいた。
「……響くん、凄かったよ。あの時、助けてくれたでしょ?」
楽器を片付けながら私が尋ねると、響くんは汗を拭いながら、少しだけ申し訳なさそうに笑った。
「……うん。でも、本当はあんな強引なことしちゃダメなんだ。……僕の音が目立ちすぎると、全体のバランスを壊しちゃうから。……次は、もっと『自然に』みんなを導けるようにならないと」
「……十分、自然だったよ。みんな、響くんの音に救われたんだから」
そこへ、滝先生が歩み寄ってきた。
先生は、珍しく満足げな笑みを浮かべ、響くんの肩を叩いた。
「如月くん。今の演奏、あなたの父上が聴いたら『妥協した』と怒るかもしれませんね」
「……かもしれません。お父さんは、僕が一人で勝つことを求めてますから」
「ですが」
滝先生は、眼鏡の奥の瞳を優しく細めた。
「私は、今日のあなたの音が一番好きです。……あなたは今日、真の意味で北宇治の1stになりましたね」
響くんは一瞬、驚いたように目を見開いた。
それから、照れくさそうに頭をかき、いつもの困ったような笑顔を見せた。
「……ありがとうございます、滝先生。……でも、次はもっと、久美子ちゃんたちを驚かせるような音、用意しておきますから」
黄金の咆哮が、京都のホールを震わせた夏の一日。
私たちは、自分たちのバンドの中に「怪物」がいることを、そしてその怪物が誰よりも仲間を愛していることを再確認した。
けれど、喜びも束の間。
次なる舞台――関西大会には、響くんを「お遊び」と断じる過去の亡霊たちが待ち構えていることを、この時の私たちはまだ知らなかった。
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【第7話:黄金の檻、あるいは新緑の調べ】へ続く