## 第7話:黄金の檻、あるいは新緑の調べ
八月下旬。関西大会の会場である「あましんアルカイックホール」の空気は、府大会とは比べものにならないほど重く、鋭く張り詰めていた。
北宇治高校の自由曲は、童話を題材にした難曲『リズと青い鳥』。
オーボエとフルートの繊細な掛け合いが肝となるこの曲で、響くんのホルンは、物語の背景を支える「森の深淵」であり、同時に二人の少女を優しく包み込む「風」の役割を担っていた。
けれど、本番を直前に控えた響くんの表情は、どこか上の空だった。
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### 1. 「黄金の檻」からの呼び声
チューニング室へと続く廊下。
不意に、前方から歩いてきた一団が足を止めた。
シュヴェーベルト・フィル(シュヴェフィル)の団員たち。大学生やプロ予備軍が集まるその集団の中で、響くんと以前プルトを組んでいた先輩・佐伯さんが、驚きと落胆の混じった顔で響くんを見つめていた。
「……響。まさか、本当に出てるのか。こんなところで」
佐伯さんの声は、静かだけれど、私の耳にもはっきりと届くほど冷ややかだった。
「お前が首席(トップ)を降りて、パートリーダーも辞めたって聞いたときは耳を疑ったよ。……響、もう十分だろう? 高校生の吹奏楽なんて『お遊び』に付き合うのはさ」
「……佐伯さん」
「お前の音は、こんな場所で消費されるべきじゃない。……早く、コッチ(オケ)の本物の椅子に戻ってこい。お前の居場所は、ガキの部活じゃないはずだ」
悪気のない、純粋に響くんの才能を惜しむからこその言葉。
それは、響くんが北宇治で必死に積み上げてきた「仲間との時間」を、一瞬で『無価値な余興』へと塗り替えてしまうような、残酷な正論だった。
響くんの手が、微かに震えた。
「(……響くん)」
私は、彼の隣で息を呑んだ。
佐伯さんたちが去った後も、響くんは立ち尽くしたまま、自分のホルンをじっと見つめていた。
彼の中にあった「自分は異分子なのではないか」という不安が、かつての仲間の言葉によって、巨大な檻となって彼を閉じ込めようとしていた。
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### 2. 久美子の「一言」
舞台袖、暗転したステージの端。
私たちの出番まで、あと数分。
響くんのピッチが、わずかに、けれど決定的に上ずっているのがわかった。絶対音感を持つ彼が、迷いゆえに自分の音を信じられなくなっている。
その時、目の前を秀一と麗奈が通り過ぎた。
「おい、響。……なんだその顔。お前らしくねーな」
秀一がぶっきらぼうに響くんの肩を叩く。
「いいか、『リズ』の第三楽章、トロンボーンは全力で支えるからな。お前のホルンがいてくれなきゃ、俺たちは空中分解する。……頼んだぞ」
「如月。……さっきの男に何を言われたか知らないけど」
麗奈が、射抜くような鋭い視線を投げた。
「私は、あなたをライバルだと認めてる。……その私が選んだこの場所を『お遊び』なんて言わせない。……証明しなさいよ、あんたの音で」
二人は、それぞれの「特別」を響くんに預けてステージへと向かっていった。
私は、最後に残った響くんの隣にそっと立った。彼の手の震えを隠すように、その横に並ぶ。
「……響くん」
「……久美子ちゃん。僕、やっぱり……ここにいちゃいけないのかな」
「……響くん。昨日、練習のあとにみんなで食べたアイス、美味しかったね」
「え……?」
響くんが、拍子抜けしたように私を見た。
「コンビニの前でさ、奏ちゃんが求くんに絡んで、それを夏紀先輩が笑って見てて。……あのアイス、ちょっと溶けててベタベタしたけど、すごく甘かった。……私はね、響くんが隣で吹いてくれるこのバンドが、世界で一番かっこいいと思ってるよ。……行こう?」
私の言葉に、響くんは一瞬、呆然とした顔をした。
それから、ふっと憑き物が落ちたように笑った。
「……あはは。そうだね。あのアイス、確かに甘かった。……僕、首席の椅子よりも、あのアイスの方がずっと大事だよ」
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### 3. 新緑の調べ
ステージの照明が、私たちを照らし出す。
滝先生がタクトを振り下ろした瞬間、北宇治の『リズと青い鳥』が始まった。
オーボエの鎧塚先輩と、フルートの傘木先輩が織りなす、切なくも美しい愛の物語。
その背景を支える響くんのホルンは、もはや「孤独な天才」の音ではなかった。
**――それは、世界で一番自由な音だった。**
佐伯さんが言った「完成された美」ではない。
隣で吹く仲間の体温を吸い込み、秀一のトロンボーンと混ざり合い、私のユーフォニアムと共鳴し合う。
未完成で、熱くて、どうしようもなく「今」を生きている、新緑のような力強い響き。
第三楽章、ホルンが提示する力強いテーマ。
響くんはベルを高く掲げ、客席のどこかにいるであろう佐伯さんへ、そしてパリのお父さんへ届くような咆哮を放った。
「(……聴いて。これが、響くんの選んだ『北宇治の音』だよ)」
演奏が終わった後、会場は静まり返り、一拍置いてから割れんばかりの拍手が降り注いだ。
舞台袖に引き上げる途中、響くんは汗を拭いながら、晴れやかな笑顔で私を見た。
「久美子ちゃん。僕、やっぱり北宇治に来て良かった。……最高の合奏だったね」
「……うん。最高だったよ、響くん」
その笑顔は、シュヴェフィルの首席奏者としての威厳よりも、ずっと美しく、誇らしげに輝いていた。
黄金の檻を壊し、新しい響きを手に入れた少年。
北宇治は、ついに悲願の「全国大会」の切符を手にする。
関西大会の表彰式が終わり、会場の外には興奮冷めやらぬ部員たちが溢れていた。
「全国出場」の四文字が刻まれた賞状を、優子先輩が涙ながらに掲げている。その歓喜の輪から少し離れた楽屋口で、響くんは楽器ケースを背負い、静かに夜風に吹かれていた。
そこへ、影が一つ近づいてきた。
シュヴェフィルの先輩、佐伯さんだった。
「……佐伯さん」
響くんが声をかけると、佐伯さんは立ち止まった。けれど、先ほど廊下で会った時のような、余裕のある「導き手」の顔はそこになかった。
彼は、信じられないものを見てしまったかのように、蒼白な顔で響くんを見つめていた。
「……響。さっきの、あの音は何だ」
佐伯さんの声が、微かに震えている。
「あんなの、楽譜には書いていなかったはずだ。ホルンが、あんな風に、他の楽器の響きを自分の色で染め上げながら、同時に溶け込むなんて……。シュヴェフィルのお前は、もっと冷徹で、完璧なピッチを刻むだけの時計だったはずだ」
佐伯さんは、自分の拳を強く握りしめた。
「お前が首席を降りたと聞いたとき、俺は『堕落した』と思った。……でも、違ったんだな。お前は、この泥臭い吹奏楽の中で、俺たちの誰も持っていない『新しい響き』を手に入れていたんだ」
佐伯さんは自嘲気味に笑い、天を仰いだ。
「……正直に言うよ。お前のソロが始まった瞬間、俺は聴くのが怖くなった。……俺が守ってきた『オケの矜持』が、お前のたった一音に、易々と踏み越えられてしまったような気がして。……打ちのめされたよ、完全に」
かつて響くんを「お遊び」と断じた男の、偽りのない敗北宣言。
響くんは、困ったように眉を下げたけれど、その瞳には迷いはなかった。
「……佐伯さん。僕は、首席の椅子を捨てたんじゃありません。……この仲間たちと一緒に、もっと広い場所へ行くために、一度立ち上がっただけなんです」
「……そうか。……そうなんだな」
佐伯さんは、最後に一度だけ響くんの肩を叩いた。その手は、先ほどとは違い、一人の音楽家に対する深い敬意が込められていた。
「行けよ、響。……全国でも、その『黄金の咆哮』で、全員を黙らせてこい」
佐伯さんが去っていく背中を見送りながら、響くんは深く一礼した。
そこに、私と麗奈が駆け寄った。
「響くん! 何してたの? みんなで写真撮るよ!」
「あ、久美子ちゃん。……うん、今行くよ。……麗奈ちゃん、さっきのソロ、最高に吹きやすかった。ありがとう」
「……当たり前でしょ。次はもっと高く飛ばすから、ちゃんとついてきなさいよ、如月」
麗奈の言葉に、響くんは「あはは、厳しいなあ」と笑いながら、私たちの輪の中に戻ってきた。
かつての「黄金の檻」は、もうどこにもない。
夜のアルカイックホールに、北宇治の歓喜の声がいつまでも響き渡っていた。
けれど、その後に訪れる冬の季節、響くんは再び一人、「究極の個」としての試練に立ち向かうことになる。
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【第8話:文化祭、束の間の協奏曲】へ続く