「無個性」という名の少数派
個性社会における無個性者の現在地
個性医学研究センター 上席研究員 某大学院医学研究科教授
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前号では個性犯罪と司法の問題を論じた。今号では視点を変えたい。
個性を持たない人間の話をしよう。
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数字から始める 「絶滅危惧種」という言葉
軽慶市で発光する赤子が確認されてから、数世代が経過した。
個性保有者の割合は世代を経るごとに増加し、現在では世界人口のおよそ八割超が何らかの個性因子の発現を持つとされる。無個性者の割合は残り二割を下回り、かつ年々減少し続けている。
しかしより重要なのは、その内訳だ。
現在の無個性者の多くは高齢者であり、現役世代における無個性者の割合はすでに一桁台に落ち込んでいる。若年層に至っては、一部の研究者が「絶滅危惧種」という表現を用いることを止めなくなった。比喩としては過激に聞こえるかもしれないが、統計的な現実としては、あながち誇張とも言えない。
個性は遺伝的に受け継がれ、世代を重ねるごとに保有率が上昇する。無個性者同士が子をなす確率は年々低下しており、理論上は近い将来、無個性という特性は人類から消えていく可能性がある。「個性を持たない人間」が当たり前だった時代は、もはや老人たちの記憶の中にしか残っていない。
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社会の「前提”が変わった
個性社会という言葉は今や当たり前のように使われているが、その実態は「個性保有者が標準である社会」だ。
大半の職場では、個性を持つことが暗黙の前提となっている。
建前上、職場における個性の使用は『業務上必要な場合に限る』とされており、無制限な使用を禁じる規定を設けている企業も少なくない。しかし現実には、その規定が厳格に守られている職場はむしろ少数だ。
建設現場では、重量物の運搬に重力操作や強化系の個性が当然のように使われている。足場の設置に飛行個性、溶接に発熱個性、配管の点検に液状化や透視個性。個性を使うことで作業効率が飛躍的に上がるため、“禁止”は名目上のものとして形骸化している。医療現場では、治癒系や感知系の個性を持つ医師・看護師が個性を使って診断・処置を行うことが一部では常態化しており、接客業では個性を持つスタッフのパフォーマンスが顧客対応に活用されている。そしてそれが「サービスの質」として評価される。どの現場でも、個性の活用は当たり前に受け入れられているのだ。
結果として、求人票に「個性の有無不問」と記載されているのは、むしろ例外的な配慮であることを示すものになった。個性を持たない者が応募できる求人は確実に減り続けており、無個性者の就労市場は年々狭まっている。
スポーツの世界も、根本から変わった。
オリンピック、サッカー、野球、陸上。かつて人類の身体能力の頂点を競う場だったこれらの大会は、今や深刻なアイデンティティの危機に瀕している。競技規則の改定で対応しようにも、個性保有者の肉体は個性を使わなくてもすでに常人の水準を超えていることが多い。異形型の個性を持つ選手が個性を使わずに競技に参加したとして、その肉体的優位性をどう平均化するのか。答えは出ていない。
代わりに台頭してきたのが、人間の身体能力が直接関与しない競技だ。競馬やドッグレースといった動物競技の人気は近年著しく上昇しており、「人間の個性が介入しない純粋な競技」として注目を集めている。
また、雄英高校の体育祭に代表されるような、個性の使用を前提とした“なんでもあり”の大会形式が各地で開催されるようになり、観客動員という意味では成功を収めている。
しかしここにも、無個性者の居場所はない。
雄英体育祭のような大会が無個性者にとって輝ける舞台でないことは明白だ。競馬にしても、動体視力や反射神経に優れた個性を持つジョッキーに純粋な技術だけで対抗することは難しく、ドッグレースにしても、動物と意思疎通できる個性を持つ調教師の犬が圧倒的な強さを見せる事例が増えている。「個性が関与しない競技」として期待されたものが、結局は別の形で個性に侵食されていく。これらもいずれ形骸化するだろうという見方は、競技関係者の間でも決して少数ではない。
個性社会は文化を潰している。そう警鐘を鳴らす識者の声が、近年確実に増えている。人類が共通のルールの下で競い合うという普遍的な営みが、個性という変数の導入によって根底から成立しなくなりつつある。スポーツだけではない。音楽、美術、文学。あらゆる表現の場において「個性を持つ者」と「持たない者」の非対称性は、じわじわと、しかし確実に広がっている。
教育の現場も例外ではない。
建前上、学校での個性使用は原則として禁じられている。しかし現実には、その規則を厳格に守っている学校は少ない。授業中に個性を使って笑いを取る生徒がいても黙認され、体育の時間には個性を使った方が楽しいという空気が支配的だ。テストや記録測定の場面でのみ個性使用を禁じるという建前は維持されているが、それでも異形型の個性を持つ生徒、通常より大きな体格、優れた身体能力、鋭敏な感覚の者には、同じ条件で対抗することが難しい。個性を「使う」かどうか以前に、個性を「持つ」というだけで肉体の基礎値が引き上げられているケースが多いからだ。
そうした環境の中で、個性を持たない子供が体育の授業に参加する光景を想像してほしい。徒競走ならまだいい。しかし身体強化系や異形型の個性を持つ生徒が入り乱れる競技に無個性の子供が混ざれば、怪我は「運が悪かった」では済まない話になる。
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無個性者がかかる病 2つの疾患
個性病は個性保有者だけの問題ではない。無個性者にしか発症しない、あるいは無個性者に著しく多い疾患が存在する。ここでは代表的な二つを取り上げる。
個性因子過敏症
個性因子を持たない無個性者が、他者の個性因子に対してアレルギー反応を示す疾患だ。
個性保有者が個性を発動する際、微量の個性因子が周囲の空気中・接触面に放出されることが確認されている。個性保有者にとってこれは無害だが、個性因子を一切持たない無個性者の体がこれを「異物」として認識し、免疫反応を起こすことがある。症状は個性の種類と暴露量によって異なり、軽度であれば皮膚の発疹や鼻炎程度に留まるが、重症例では呼吸困難・蕁麻疹・アナフィラキシーに近い急性反応を示すケースも報告されている。
特に問題となるのは、日常生活との折り合いだ。個性保有者が人口の八割を超える現代において、個性因子への暴露をゼロにすることは事実上不可能だ。満員電車、学校の教室、職場など、どこにいても、誰かの個性因子が漂っている。重症の“個性因子過敏症”を持つ無個性者にとって、外出そのものがリスクになる。マスクや特殊なフィルターによる対処が試みられているが、根治的な治療法は確立されていない。
「個性を持つ人間が多いだけで、体が拒絶反応を起こす」 この現実を、個性社会は十分に認識していない。
無因子環境乖離症、通称「無個性うつ」
正式名称は“無因子環境乖離症”。しかし当事者の間では長らく「無個性うつ」と呼ばれており、その通称の方が広く知られている。
病態の核心は、環境と自己のミスマッチだ。
周囲が当たり前のように炎を出し、空を飛び、物を動かす環境の中で、自分だけが物理法則に縛られたまま成長する。それが継続的に心の負荷として蓄積し、脳が自分はこの環境に属していないという認識を形成していく。一般的なうつ病や適応障害と症状は類似しているが、その根本にある「個性社会という環境そのものとの不適合」という構造が、この疾患を独自のものにしている。
症状は多岐にわたる。慢性的な無力感、「自分の体が偽物のように感じる」という離人感、極度の対人恐怖。身体症状として胃潰瘍、慢性的な不眠、原因不明の頭痛が現れることも多い。
こうした症状が個性社会の日常と結びついて発症するという点が、この疾患の特徴だ。「個性は何ですか」という挨拶が一般化した社会において、自己紹介の場面が恐怖の引き金になる。初対面の人間と話すたびに「ない」と答えなければならないストレスが蓄積していく。授業で個性を使った課題が出るたびに、自分だけ参加できないという事実が積み重なる。これらは一つひとつは小さな出来事だが、毎日、何年も続く。
「個性の話になると、体が固まる。胃が痛くなる。逃げたくなる。でも逃げ場がどこにもない」——無因子環境乖離症、診断時16歳、女性。
治療としては、認知行動療法と環境調整の組み合わせが試みられている。無個性者同士のコミュニティへの参加が症状の改善に繋がるケースも報告されているが、そうしたコミュニティ自体が少なく、地方ではほぼ存在しない。
根本的な問題は、「個性社会という環境そのもの」が発症原因である以上、環境を変えない限り完治は難しいという点だ。薬で症状を抑えながら、その環境の中で生き続けるしかない。そういう疾患だ。
無個性者が生きづらいと感じることを、精神の弱さや適応力の問題として片付けることは簡単だ。しかしそれが疾患として発症するほどの負荷を、個性社会が無個性者に課し続けているという事実を、私たちは直視しなければならない。
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無個性者に向けられるもの
差別、という言葉を使う前に、現実を見てほしい。
個性社会において、無個性者への偏見は今や珍しいものではない。「個性がない=能力がない」という短絡的な認識が社会に広く浸透しており、それが就労・教育・家庭のあらゆる場面で、無個性者の生を圧迫している。
就労については、多くの事例が報告されている。
ある国立大学を首席で卒業した女性は、就職活動において複数の企業から事実上の内定取り消しを経験した。面接での評価は高く、筆記試験の成績も申し分なかったが、それでも無個性というだけで断られ続けた。無個性=無能であるというレッテルのせいであろう。
個性を問わないと明記した企業でさえ、最終選考で個性保有者が優先された。「私の学歴も経験も、個性がないというだけで無価値になる」という彼女の言葉は、無個性者の就労問題を象徴するものとして広く引用されている。
教育の場における状況は、さらに深刻だ。
個性を前提とした授業設計が主流となった現在の学校教育において、無個性の子供は授業の一部に参加できない場面が常態化している。このように疎外され続けることが、学校生活における孤立感と直結する。教師の配慮の有無が、当事者の学校生活の質を大きく左右するという状況は、制度上の問題として解決されるべきものだが、現実には個々の教師の意識に委ねられたままだ。
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家庭という密室
最も深刻な問題の一つが、家庭内における無個性者への虐待だ。
強い個性を期待して生まれた子供が無個性だった場合の親の反応は、統計上、一般の育児困難ケースと比較して有意に問題のある行動につながりやすいことが報告されている。ネグレクト、身体的虐待、精神的な拒絶。失望が虐待の引き金になるという構造は、個性社会以前にも存在したが、個性という明確な指標の登場によって、その「失望」の対象がより具体化した。
あるプロヒーローの女性が、匿名のSNSアカウントで自身の子供について『悲報:わい氏のガキ、無能の無個性』『もう育てる価値が無いンゴねぇ』『施設が来い』『将来性ゼロwww ここまで育てた金返しちくり〜ww』などの投稿を繰り返していたことが発覚し、社会的な問題となった事案は記憶に新しい。本人は謝罪声明を発表し、「感情的になっていた」と釈明した。しかしこの事案が著名人だったから発覚したに過ぎないことは、多くの人が理解している。同様の感情を、表に出さないまま抱えている親が、どれほど存在するか。
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1人の少年の話
数年前、一つのニュースが社会を揺るがした。
ヒーロー関連産業に深く関わる一族に生まれた少年が、12歳のときに家を出て、数ヶ月後に山中の森の奥地で遺体として発見された。
少年は無個性だった。
父親はヒーロー関連企業を率いる実業家、母親は引退した元プロヒーロー、姉は両親の個性を色濃く受け継ぎ、将来を有望視されていた。使用人を含む家庭内の全員が個性保有者であり、無個性だったのは少年だけだった。
報道によれば、少年の家庭では幼い頃から個性の発現が強く期待されており、無個性と判明した後は家庭内での存在が著しく軽視されるようになったとされる。食事や衣服などの基本的なケアは行われていたが、家族との会話はなく、家族の行事からは除外された。さらに複数の関係者の証言によれば、少年は姉と日常的に隔離されていたという。姉への悪影響を懸念した両親の判断だったとされる。
学校でも、状況は変わらなかった。嘲笑、暴力、持ち物の破損が繰り返されていた。担任教師は後に「気づかなかった」と述べたが、クラスメートの複数がいじめの存在を認識していたことが報道で明らかになっている。
少年が最後に書いたとされる日記には、一行だけ言葉が残されていた。
「もう全部どうでもいい」
遺体は、森の中の崖の下で発見された。
この言葉を前に、何を言えばいいのか。筆者には、言葉が見つからない。
ただ一つ言えることは、この少年が経験したことは特別な悲劇ではないという事実だ。名前が報道されたのは、一族が著名だったからに過ぎない。同じ場所に立ち続けている子供たちが、今も、名前を持たないまま存在している。
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無個性者の自殺
統計は冷たく現実を示す。無個性者の自殺率は、個性保有者と比較して著しく高い。特に思春期における無個性者の自殺率は、同年代の個性保有者の複数倍に達するという報告が複数の機関から出されている。
個性発現の時期。多くの場合、幼児期から4歳前後に自分だけが変わらないという経験をした子供が、その後の人生でどれほどの重荷を背負うか。周囲が次々と自分を証明するものを手に入れていく中で、自分だけが何も持てないという感覚は、ゆっくりと、しかし確実に、人を削っていく。
「個性がない自分には生きている価値がない」という言葉は、無個性者の支援に携わる臨床家であれば、一度は必ず聞く言葉だと言われている。
これは個人の問題ではない。社会が作り出した感覚だ。
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愛すら許されない
個性社会における無個性者への偏見は、公的な場に留まらない。最も私的な領域“恋愛と結婚”にまで深く侵食している。
個性保有者と無個性者の交際が周囲に知られた際の反応として、「反対された」「引き止められた」「関係を絶つよう圧力をかけられた」という経験を持つ当事者の報告は、決して少なくない。親から交際相手の個性を確認されることは今や一般的なマナーとして定着しており、無個性だと判明した時点で交際そのものを否定されるケースが報告されている。
子供に個性が遺伝しないかもしれない、という懸念がその根底にある。
個性は遺伝的要素を持つ。個性保有者同士の間に生まれた子供は高い確率で個性を持つが、無個性者との間に生まれた場合はその確率が下がる。そうした認識が広まったことで、無個性者との結婚は「遺伝的に不利な選択」として忌避されるようになった。個性を持つ子供を産むことが親としての義務であるかのような価値観が、特定のコミュニティでは露骨に、一般社会では暗黙のうちに、共有されている。
婚活市場における無個性者の困難は数字にも表れている。無個性者が個性保有者との婚姻に至る割合は、個性保有者同士の婚姻と比較して著しく低く、無個性者が結婚相手を見つけるまでの期間は平均で数倍に及ぶという調査結果も出ている。「個性の有無不問」を明示した婚活サービスが一部で設立されているが、そこに集まるのも結局は無個性者同士であることが多く、無個性者の人口が減少し続ける現状においては、その市場規模は年々縮小している。
愛することを、愛される権利を、社会が奪っていく。それを差別と呼ばずして、何と呼ぶのか。
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神の意志、あるいは救済という名の搾取
追い詰められた人間のもとには、必ず救済を謳う者が現れる。
近年、無個性者を主な対象とした宗教的集団・自助グループが各地で増加している。その多くは無個性であることを「神に選ばれた証」「個性という呪縛から自由な魂」として肯定的に再解釈し、無個性者に帰属意識と自己肯定の場を提供することで支持を集めている。
こうした集団の存在を、一概に否定することはできない。孤立した無個性者が初めて自分を受け入れてもらえたと感じる場として機能しているケースがあることは事実だ。社会から排除された人間が共同体を求めることは、ごく自然な営みだ。
問題はその先にある。
一部の集団では、無個性であることへの肯定が次第に「個性保有者への敵意」へと変質していくケースが報告されている。「個性を持つ者は堕落した存在だ」「真の人類とは無個性者である」という排他的な教義を持つに至った集団も存在し、構成員が社会から孤立を深めながら集団への依存度を高めていくという構造が確認されている。
金銭的な搾取も問題となっている。「個性因子を除去することで真の無個性者となり、神に近づける」と称して高額な施術を提供する集団、「無個性者のための楽園を建設する」という名目で多額の寄付を集める集団、信仰と詐欺の境界線が曖昧なまま、孤立した無個性者が経済的にも追い詰められていくという事例が各地で報告されている。
社会が人を追い詰めるとき、その人を拾い上げるのが別の搾取であってはならない。無個性者がこうした集団に流れ込む背景には、社会的支援の欠如という明確な原因がある。信仰の問題として片付けることは、問題の本質から目を逸らすことだ。
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医療と制度の現状
無個性者向けの医療・支援体制は、どうなっているか。
基本的な医療については、個性因子の有無による本質的な差異は少ない。しかし個性社会の成立以降、医療開発の重心は個性保有者の身体を前提としたものへと大きく移動した。かつては標準だった無個性者の身体が、今や医療開発において後回しにされる側になっているという皮肉な逆転が起きている。特に個性因子との相互作用を前提として開発された新世代薬剤においては、無個性者への適用における臨床データが不十分なものが少なくない。
精神的な支援についても、同様の問題がある。無個性者特有の心理的困難、アイデンティティの喪失感、慢性的な疎外感、自己評価の低下に対応できる専門家の数は、需要に対して圧倒的に不足している。個性カウンセリングの分野は急速に発展しているが、その多くは個性保有者の個性管理を目的としたものであり、無個性者のメンタルヘルスを専門とする領域は、いまだ周縁に置かれている。
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関節という指標、そしてその限界
個性の有無を判定する方法として広く用いられているのが、足の小指末節骨の関節検査だ。個性保有者には関節がない。無個性者はあるとされるこの指標は、新生児の一次スクリーニングとして今日も機能している。
しかしこの指標には、重要な例外がある。
関節が一つであるにもかかわらず個性が発現しない、あるいは発現が著しく遅延するケースが一定数存在する。個性の大多数はどんなに遅くとも10歳までに発現するとされているが、特殊な発現条件ゆえにそれ以降に発現する例も報告されており、関節の形態だけで個性の有無を断定することへの慎重論は根強い。
さらに問題となるのが「異形型無個性」だ。外見上は角、鱗、複数の瞳など明らかに標準的な人体から逸脱した特徴を持ちながら、個性因子を持たない人間が存在する。これは個性とは無関係な遺伝的変異に起因するケースが多いとされるが、こうした人々は「見た目は個性保有者、実態は無個性者」という二重の混乱を生き、どちらのカテゴリにも完全には収まらない孤立を経験する。
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個性社会が無個性者に負っているもの
本稿を締めくくるにあたり、一つの事実を確認したい。
個性社会は、無個性者の存在なくして成立しなかった。
個性が「特別な力」として意味を持ち得たのは、それを持たない人間が存在したからだ。ヒーローが英雄として称えられるのは、守られる側の人間がいるからだ。個性社会の土台を作ってきた世代の多くは、無個性者だった。
にもかかわらず、その子孫たちは生まれてきたのに個性がないという理由だけで、家庭で、学校で、職場で、社会で、排除され続けている。12歳の少年が「もう全部どうでもいい」と書き残して死んでいく社会を、私たちは「個性社会」と呼んで誇ることができるのか。少年少女の個性を否定し、嘲笑し、死に追い込む社会を、“素晴らしい個性社会”だと誇ってもいいのだろうか。
個性の有無にかかわらず、すべての人間が尊厳を持って生きられる社会をどう設計するか。その問いに、個性社会はまだ十分な答えを出せていない。
光の中に立ち続けると、足元の影が見えなくなる。
個性が輝かしいものであり続けるためにこそ、私たちはその影から目を逸らしてはならない。
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本稿は個性社会における無個性者を取り巻く諸問題に関する一般啓発を目的として執筆されたものであり、特定の個人・機関を指すものではない。記述中の事例は個人情報保護の観点から詳細を改変・省略している。
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「個性医学の現在と未来」シリーズ 第三号 了
最終号となる次号では、異形型個性保有者の抱える問題や差別ついて考察する予定である。