ライフイズストレンジ Life is Strange 作:しゃちまる
アルカディア・ベイの町は、冷たい秋の雨の底に沈んでいた。
プレスコット寮から乗り込んだバスの窓は、水滴と結露ですっかり曇っていた。私は袖口でガラスを薄く拭い、流れていく灰色の景色をぼんやりと見つめていた。昨日の季節外れの雪は、一夜にしてこの執拗な雨へと姿を変えた。
すべてが洗い流されていくように見える。けれど、私の頭蓋骨の裏側にこびりついた「竜巻のヴィジョン」や、ケイトの虚ろな瞳、そして世界が逆回転した時のあの強烈な金属音は、いくら雨に打たれても決して消えようとはしなかった。
バスを降り、ぬかるんだ水たまりを避けながら歩くこと数分。
灰色の空の下で、そのネオンサインだけが、まるで深海で獲物を待つチョウチンアンコウのように弱々しく明滅していた。
『ツー・ホエールズ・ダイナー(Two Whales Diner)』
二頭の鯨が潮を吹く、古びた木製の看板。アルカディア・ベイの住人なら、ゆりかごから墓場へ行くまでの間に何百回と通う場所。漁師も、トラック運転手も、くたびれた警官も、誰もがここでコーヒーを啜り、甘すぎるチェリーパイを胃に流し込みながら、報われない日常の愚痴をこぼす。
私にとっても、ここは幼い頃の幸せな記憶が、ベーコンの脂の匂いと共にこびりついている特別な場所だった。
カランカラン、と乾いた鈴の音が鳴る。
重いドアを押し開けた瞬間、外の冷気が嘘のように、濃厚で暴力的なまでの「生活」の熱気に包み込まれた。
鉄板で焦げる肉の匂い、長年染み付いたコーヒーと古い油の香り、そして塩素系の安価な洗剤の匂い。ジュークボックスからは、ノイズ混じりの気怠いカントリー・ミュージックが流れている。
私はフードを下ろし、濡れた髪から滴る雫を払いながら店内を見渡した。
「……マックス? まさか、マックス・コールフィールドじゃないかい!」
カウンターの奥から、聞き覚えのある温かい声が飛んできた。
水色の制服に白いエプロンを身につけたふくよかな女性が、手に持っていたコーヒーポットを置いてこちらへ小走りにやってくる。
ジョイス・プライス。クロエの母親であり、私の中の「アルカディア・ベイの良心」を擬人化したような存在だ。
「お帰りなさい、マックス! シアトルから戻ってきたってクロエから聞いて、本当に驚いたわ。まあ、背も伸びて……でも、少し痩せたんじゃないかしら?」
「ただいま、ジョイスおばさん。……えっとその、、、ずっと連絡もしないで、本当にごめんなさい」
私は謝罪の言葉を口にするのが精一杯だった。
ジョイスの目尻には、五年前よりもずっと深い笑い皺が刻まれていた。彼女の顔を見るたび、私の胸の奥で罪悪感が鎌首をもたげる。夫であるウィリアムを失い、悲しみの底に沈んでいた彼女たち親子を置いて、私はシアトルへ逃げたのだ。それなのに、彼女は私を責めるどころか、まるで昨日も会っていたかのように温かく抱きしめてくれた。
「もういいのよ、そんなこと。こうして元気な顔を見せてくれたんだから。……クロエなら、一番奥のボックス席よ。昨日からずっと、アンタが来るのを今か今かと待ってたんだから」
ジョイスは苦笑いを浮かべ、店の隅を顎でしゃくった。
「あの子に、何か温かいものを食べさせてやってちょうだい。それから、アンタもね」
私は小さく頷き、ダイナーの奥へと歩を進めた。
破れかけた赤いビニールレザーのボックス席。
そこには、青い髪を無造作にまとめ、テーブルに両肘をついて窓の外の雨を睨みつけているクロエ・プライスの姿があった。
彼女の足元には、泥のついたエンジニアブーツが投げ出され、全身から「近づく者は容赦しない」という不機嫌なオーラが放たれている。しかし、私が近づく足音に気づいて振り返った瞬間、その鋭い瞳にほんのわずかな安堵の色が混じるのを、私は見逃さなかった。
「遅いぞ、スーパーマックス。こっちはカフェインが切れて、脳細胞が半分くらい死滅するところだった」
クロエは皮肉たっぷりの笑みを浮かべて、向かいの席を指差した。
「……おはよう、クロエ。でもちゃんと約束通り、来たよ」
私は彼女の正面に腰を下ろした。テーブルの上には、使い古されたスプーンと、ペーパーナプキン、そしてシュガーポットが無造作に置かれている。
「で? さっそく本題はいろうか。」
クロエは身を乗り出し、声を潜めた。
「昨日、マックスは灯台で『自分は時間を戻せる』なんて抜かした。私を銃弾から救ったのも、非常ベルのタイミングを知ってたからだって。……悪いけどマックス、私はサンタクロースもイースターバニーも、魔法の妖精も、五年前に信じるのをやめた。私を納得させたければ、目の前で本物の『奇跡』を見せてみろよ」
彼女の挑戦的な視線が私を射抜く。
決して彼女は怒っているのではない。彼女は、信じたいのだ。この泥沼のような最悪の現実を、ひっくり返せる「何か」が存在することを。だからこそ、期待して裏切られることを極端に恐れている。
「うん、分かった。……じゃあ、今からこの店で起こる未来を、私が『予言』してみせる」
私は深く呼吸をし、背筋を伸ばして周囲を観察し始めた。
ダイナーの風景は、一見すると何の変哲もない日常のひとコマだ。しかし、この空間の時間は、すでに決定されたある一つの未来に向かって着実に流れている。
……三十秒後。
カウンターの端に座っていた、チェックのネルシャツを着た初老のトラック運転手が、大きな欠伸をしながらコーヒーカップに手を伸ばした。その際、彼の分厚い腕が、隣に置いてあったガラス製のシュガーポットに引っかかる。
――ガシャン!
陶器の床にガラスが砕け散る乾いた音が響き、ジョイスが「もう、あんた何回ポットを割るつもりなんだい?珈琲のお代わりはなしだからね」と声を上げながら、奥から箒を持って駆け寄ってくる。
同時に、ジュークボックスのレコードが傷のせいで飛び、同じフレーズを不気味に三回繰り返した。
そして入り口のドアが開き、カランカランという鈴の音と共に、雨除けのレインコートを着たパトロール中のアンダーソン巡査が入ってくる。彼はカウンターに歩み寄り、「ジョイス、いつものクリームドーナツ、まだ残ってるかな?」と声をかけた。
私はその一連の出来事を、網膜と鼓膜に深く刻み込んだ。
そして、テーブルの下で強く拳を握りしめ、目を閉じた。
――キィイイイイイイイイイン。
脳髄に直接ドリルを突き立てられるような、不快極まりない金属音。
世界が歪む。色がネガフィルムのように反転し、光の粒子が猛烈な勢いで逆流を始める。
割れたガラスの破片が床から飛び上がり、見えないパズルが組み合わさるようにシュガーポットの形を取り戻す。アンダーソン巡査が後ろ歩きでドアの外へ吸い込まれ、ジュークボックスの音楽が逆再生される。
激しい目眩。そして、口の中にじわっと広がる、生臭い鉄の味。
私はハッと息を吐き出し、目を開けた。時間は、私が予言を口にする直前まで巻き戻っていた。
「……クロエ、よく見てて」
私は乾いた唇を舐め、向かいのクロエを真っ直ぐに見据えた。
「あと十秒で、あそこのネルシャツを着た運転手がシュガーポットを床に落として割るわ。その直後、ジュークボックスの曲が飛んで同じ歌詞を三回繰り返す。そしてドアからアンダーソン巡査が入ってきて、ジョイスに『いつものクリームドーナツはあるか』って聞くわよ」
クロエは「なるほどな。しっかりと見せてもらおうじゃないか」と鼻で笑おうとした。
しかし、その刹那――。
――ガシャン!
全く同じ、ガラスが砕ける音が店内に響き渡った。
トラック運転手が「しまった」という顔で床を見下ろす。ジョイスが「あらら」と声を上げ、箒を取りに行く。
ジュークボックスが、私が言った通りに同じ歌詞を狂ったように三回繰り返した。
そして、カランカランと鈴が鳴り、雨に濡れたアンダーソン巡査が入ってくる。
「ジョイス、いつものクリームドーナツ、まだ残ってるかな?」
クロエの顔から、さーっと血の気が引いていくのが分かった。
彼女の手から使い古されたスプーンが滑り落ち、テーブルにカチャリと乾いた音を立てて転がった。青い瞳が見開かれ、幽霊でも見たかのように私を凝視している。
「おい、まじかよ。う、嘘だろ!?仕込みじゃないよな? あいつら、全員アンタが雇ったサクラか何かなのか?」
「そんなわけないでしょ。アルカディア・ベイの警察官をサクラに雇うお金なんて、私にはないよ」
私は静かに答えた。
「まだ信じられないなら、もう一つ見せてあげる。今からクロエが、そのポケットの中に何を持ってるか全部当てる。私に見せて」
私は再び、時間を巻き戻した。
今度はもっと短い、わずか数十秒のループ。彼女のポケットの中身を確認するためだけに費やされる、贅沢で、そして身を削る魔法。
視界が二重にブレる「グリッチ」のような現象が起き始めていた。頭蓋骨の裏側を、熱く熱した細い針で直接刺されているような鋭い痛み。それでも、私は止まるわけにはいかなかった。完全に信じさせなければならないのだ。
「……鍵の束。パンダのキーホルダーがついてるけど、裏に少しこすれた傷がある。タバコはパーラメントの箱。それから、一昨日このダイナーで食べた時のくしゃくしゃのレシート。……最後は、昨日の駐車違反の赤いチケット。あ、まだ罰金支払ってないやつね」
一気に捲し立てると、クロエは椅子から立ち上がらんばかりの勢いで私に詰め寄った。
彼女は震える手で、自分のデニムのポケットから中身を乱暴にテーブルへぶちまけた。
鍵の束。パンダのキーホルダー。裏側の傷。
丸められたレシート、パーラメントの箱、そして昨日デイビッドに隠していた駐車違反の赤切符。
そのすべてが、私の言葉と寸分違わず、そこに無造作に転がっていた。
「マックス……あんた……」
クロエの瞳に宿っていた不信感は、完全な「戦慄」へと書き換えられていた。
それは未知の恐怖であり、同時に、この最悪な現実のルールを破壊できる力を目の当たりにしたという、抑えきれない興奮でもあった。
「マジなんだな。本当に、時間をいじってる。……これなら、何だってできるぞ! カジノで大儲けしたり、ネイサンの野郎を罠にかけて破滅させたり……!」
「ちょっとクロエ!!この力は自在じゃないんだよ?いつ使えなくなるかもわからないし。」
私が思わず声を荒らげた、その瞬間だった。
ズキリ、と。
脳髄のど真ん中で、何かが断線したような感覚があった。
「う……あ……」
視界が、ぐにゃりと歪み、真っ赤なフィルターをかけられたように染まった。
激しい立ちくらみに襲われ、私はテーブルに突っ伏しそうになるのを必死に両手で支えた。
鼻の奥から、温かく粘り気のある液体がツーッと垂れてくるのを感じる。
ポタリ。
真っ白なペーパーナプキンの上に、鮮やかな赤い染みが落ちた。
「マックス! ちょっと、鼻血……! おい、大丈夫かよ!」
クロエが慌てて身を乗り出し、何枚ものナプキンを束ねて私の鼻に強く押し当てた。
「使いすぎちゃったかも……連続で力を……」
私は荒い息をつきながら、ナプキン越しに彼女の手を握った。
強い鉄の味。そして、視界が明滅するほどの頭痛。
理解した。この力は「神様からの無償のギフト」なんかじゃない。時間を巻き戻すたびに、私の脳血管か、神経か、あるいは寿命そのものが、少しずつ確実に見えない炎で焼かれ、削り取られているのだ。
その時だった。
ダイナーの窓のすぐ外、雨に濡れた駐車場に、一台の巨大で薄汚れたキャンピングカー(RV)が音もなく滑り込んできた。
エンジンが止まり、運転席のドアが乱暴に開く。
中から降りてきたのは、髭面に汚れた革ジャンを着た、長身の男だった。
フランク・バワーズ。
この町の裏社会に通じ、クロエが多額の借金をしている売人。キャンピングカーの中から、彼が飼っている闘犬種の獰猛な吠え声が聞こえてくる。
フランクは雨に打たれるのも構わず、窓越しに、店内にいるクロエをじっと睨みつけた。
その視線には、一切の容赦がなかった。昨日ネイサンという死神から逃れたばかりなのに、また新しい、もっと生々しい暴力の影が、彼女の背後に忍び寄っている。
「……チッ。最悪」
クロエが忌々しそうに吐き捨てた。彼女の顔から、先ほどの興奮が嘘のように消え失せていた。
「フランクだ。あいつ、私が金を持ってないって知ってて、ここまで取り立てに追ってきやがった」
赤く染まったペーパーナプキンを抑えながら、私は窓の外の男を見つめた。
ただの能力の証明(ショー)は終わった。
これからは、この代償を伴う不完全な力を使って、迫りくる本物の悪意と対峙しなければならない。
私の右の手のひらには、まだ消えない熱が、まるで警告のようにジンジンと脈打っていた。