ライフイズストレンジ Life is Strange   作:しゃちまる

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第3話:ツー・ホエールズの預言者

カランカラン、という無邪気な鈴の音が、ひどく場違いな不協和音のように店内に響いた。

 

ツー・ホエールズ・ダイナーの重い木製ドアを開けて入ってきたのは、冷たい秋の雨と、それに濡れた大型犬の獣臭、そして鼻を突くような安物のマリファナの匂いだった。

 フランク・バワーズ。

 擦り切れた革ジャンに、手入れのされていない無精髭。その長身が店内に足を踏み入れた瞬間、ダイナーの空気が明らかに数度下がったのが分かった。カウンターで新聞を広げていた常連客たちは、一斉に目線を落とし、コーヒーカップを握る手に力を込めた。誰も彼と目を合わせようとはしない。彼はこのアルカディア・ベイという平和な水槽の底を這い回る、獰猛な肉食魚だった。

 

「……息を潜めて。何もしないでよ、マックス」

 クロエがテーブルの下で私の膝を蹴り、唇をほとんど動かさずに囁いた。彼女の顔からは完全に血の気が失せ、肩が微かに震えているのが分かった。

 

フランクは迷うことなく、真っ直ぐに私たちのボックス席へと歩み寄ってきた。

 革靴がリノリウムの床を擦る重々しい足音。彼は私たちの席の横に立つと、許可も求めずにドカリと私の隣――つまり、クロエの対角線上の席に腰を下ろした。

 

「よお、クロエ。こんな雨の日にダイナーで優雅に朝食か? 結構なご身分じゃないか」

 フランクの声は、ヤスリをかけたように低く、そしてねっとりと鼓膜にへばりつくような響きを持っていた。

「何の用だよ、フランク。ここはあたしののママの職場なんだけど。営業妨害で警察呼ばれる前に出ていってくれない?」

 クロエは精一杯の虚勢を張り、不機嫌そうに言い返した。しかし、彼女の視線は無意識にダイナーの奥――ジョイスがいるキッチンの方を気にしている。

 

「まあまあそんな冷たいこと言うなよ。俺たちは『ビジネスパートナー』だろ?な?」

 フランクはポケットから汚れた爪楊枝を取り出し、犬歯の間に挟みながらニヤリと笑った。そして、その爬虫類のような冷たい視線を、隣で鼻血のついたペーパーナプキンを握りしめている私へと向けた。

「……で、そっちの鼻血を垂らしてるお友達は誰だ? お前の新しいペットか?」

 

「私の友達だ。アンタには関係ない」

 クロエが鋭く遮る。

「そうかい。まあ、誰だっていい。俺はただ、俺の金を取りに来ただけだ」

 フランクは爪楊枝をテーブルに吐き捨て、身を乗り出した。彼の革ジャンから漂うヤニと汗の匂いが、私の顔面を直接殴りつけてくるようだった。

「いいか三千ドルだ、クロエ。お前が俺からクスリを前借りして、いまだに一セントも払ってないあの金だ。いつになったら俺のキャンピングカーに持ってくるつもりだ?」

 

「……だから、もう少し待ってって言ってんだろ! ネイサンのクソ野郎から巻き上げる予定だったんだよ! あいつが急にトチ狂って銃なんか持ち出さなければ、今頃とっくに――」

 

「俺は、お前のガキみたいな言い訳を聞きに来たんじゃない」

 フランクの声のトーンが一段階下がり、凄みを増した。

 彼が右手をポケットに突っ込み、テーブルの下へ回したのが見えた。

 カチャリ、と硬質な金属音が鳴る。

 ダイナーのテーブルの下という、誰にも見えない死角。彼はそこで、折りたたみ式のナイフの刃を弾き出していた。鈍く光る鋼の切っ先が、テーブル越しにクロエの腹部へと向けられている。

 

「聞いてるか、クロエ。俺はボランティアでクスリを配ってる慈善事業家じゃねえんだ。お前がプレスコットのボンボンとどんなトラブルを起こそうが俺の知ったことじゃないが、俺の金をナメるやつは、誰であろうと容赦しない」

 

テーブルの下のナイフ。

 その圧倒的な暴力の気配に、クロエの呼吸が浅くなるのが分かった。

 私は恐怖で全身が硬直していた。時間を巻き戻す力が私にはある。でも、今この男にナイフで刺されたら? そんな重傷を負った状態で、果たして時間を巻き戻すだけの集中力が保てるのだろうか? 先ほどの激しい頭痛と鼻血が、私に「これ以上は危険だ」と強烈な警告を発している。

 

フランクが、テーブルの上にあるクロエのタバコの箱に手を伸ばした。

「……パーラメントか。金もないくせに、一丁前にいいタバコ吸ってやがる」

 彼は箱を弄びながら、皮肉な笑みを浮かべた。

 

その時だった。

 腕を伸ばした彼の革ジャンの袖口が少しだけ捲れ上がり、その手首に巻かれている「ある物」が、ダイナーの蛍光灯の光を反射した。

 

それは、ビーズと銀の細工で編み込まれた、エスニック調の古びた腕輪だった。

 それを見た瞬間。

 クロエの顔から、恐怖も、虚勢も、すべてが完全に抜け落ちた。

 彼女の青い瞳が見開き、その腕輪を、まるで信じられない悪夢の象徴でも見るかのように凝視した。

 

「……おい、なんで」

 クロエの唇から、掠れた声が漏れた。

「なんでアンタが、それを持ってるんだよ……!?」

「ん? なんだ、これのことか?」

 フランクは手首の腕輪をちらりと見下ろした。

「ふざけんなよ!! それはレイチェルの腕輪だ!! なんでアンタみたいなクズが、彼女の大事なものを持ってるんだよ!!」

 

レイチェル。

 レイチェル・アンバー。

 アルカディア・ベイの至る所に「行方不明」のポスターが貼られている、ブラックウェル高校のチアリーダー。そして何より、私がこの町を離れていた五年間、クロエにとっての「すべて」であり、絶対的な心の支えだった親友。

 

「おいおい、声がでかいぞ。レイチェルが俺に預けたんだよ。俺と彼女は、お前が思ってるよりずっと『親密』な関係だったからな」

 フランクは残酷な笑みを浮かべて、クロエの最大の傷口に塩を塗り込んだ。

「嘘だ! レイチェルがアンタなんかと……! 彼女に何をしたの!? 答えろよ!!」

 

激昂したクロエが、ナイフの存在も忘れてテーブルに身を乗り出し、フランクの胸ぐらを掴もうと手を伸ばした。

「おい、やめろビッチ!」

 フランクの目が完全に殺気を帯びた。テーブルの下のナイフを持つ手が動く。

 刺される!

 

「やめて!!」

 

私は悲鳴を上げ、右手全体を前へと突き出した。

 限界を超えた力を振り絞り、あの暴力的で圧倒的な「時間の逆流」を引き起こそうと念じた。

 

――ギ、ギギ……ガガガガガッ!!!

 

脳内で、ガラスが砕け散るようなすさまじい爆音が鳴り響いた。

 視界が、テレビの砂嵐のように激しく乱れる。

 吐き気。目玉が裏返るような激痛。

 時間が巻き戻らない。

 空間がひび割れ、数秒前に戻ろうとしては、見えない巨大な壁にぶつかって元の時間へと弾き返される。

『タイムグリッチ』。

 私の脳の処理能力が、世界の物理法則を書き換える負荷に耐えきれず、完全にショートしてしまったのだ。

 

「ぐっ……ああああっ!」

 私はこめかみを押さえて呻き声を上げた。

 視界が明滅する中、フランクがクロエを突き飛ばし、ナイフを振り上げようとするのが見えた。

 万能の魔法は、もう使えない。

 ならば、この物理の現実で何とかするしかない!

 

私は残された最後の力を振り絞り、ほんの「一秒」だけ、フランクの動きを遅延させた。

 そのコンマ数秒の隙を突き、テーブルの上に置かれていた、ジョイスが運んできたばかりの「熱々のブラックコーヒー」が入ったマグカップを鷲掴みにした。

 

「クロエ、離れて!!」

 私は叫びと同時に、マグカップの熱湯を、フランクの革ジャンと下半身を目掛けて思い切りぶちまけた。

 

「アッヂィイイイイイイッ!!お前何するんだよ!」

 

ダイナーの店内に、フランクの豚が潰されるような絶叫が轟いた。

 彼は顔をしかめ、火傷の痛みに耐えかねて椅子から跳ね起きた。テーブルの下で握られていたナイフが、カランと音を立てて床のリノリウムに転がり落ちる。

 

「ちょっとあんたたち! 何やってんのよ!!」

 

その絶叫を聞きつけ、キッチンの奥からジョイスが血相を変えて飛び出してきた。

 彼女は床に落ちたナイフと、顔をしかめてズボンを払っているフランク、そして青ざめている私たちを見て、即座に状況を察知した。

 ジョイスはカウンターの奥から、護身用の重たいマグライト(大型の懐中電灯)を掴み出し、フランクの前に立ちはだかった。

 

「ウチの店で、私の娘に何しようとしてたのフランク! 今すぐ出ていきなさい! さもないと、アンダーソン巡査をここに呼ぶわよ!!」

 ジョイスの怒声は、ダイナーの壁を震わせるほどの迫力だった。

 アルカディア・ベイの裏社会を生きるフランクといえど、真昼間のダイナーで、警官の常連がいる目の前で母親を殴り倒すほどバカではない。

 

「……チッ。クソババアが」

 フランクは舌打ちをし、床に落ちたナイフを素早く拾い上げてポケットに突っ込んだ。

 彼は痛む足を引きずりながら入り口へと向かい、ドアを開ける直前に、濡れた犬のような恐ろしい目でクロエを振り返った。

 

「いいか!期限は一週間だ、クロエ。一週間以内に三千ドル用意しな。もし逃げたら……次はコーヒーじゃ済まないからな」

 バタン、と重いドアが閉まり、カランカランという無邪気な鈴の音だけが、不気味に響き渡った。

 

「……クロエ! マックス! 大丈夫かい!? ケガはない!?」

 ジョイスがマグライトを置き、慌てて私たちの顔を覗き込んできた。

 私は激しい頭痛と吐き気に耐えながら、どうにか頷いた。

「大丈夫。ただの、コーヒーをこぼしただけだから……」

 

私は横の席に座るクロエを見た。

 彼女は、フランクの死の脅迫から逃れた安堵など微塵も感じていなかった。

 虚ろな瞳で、テーブルの上のこぼれたコーヒーの染みを見つめている。

「レイチェル……」

 クロエの唇から、消え入りそうな声が漏れた。

「あいつが、レイチェルを……」

 

私は自分の赤く染まったペーパーナプキンを握りしめ、背筋に冷たい氷柱が突き刺さるのを感じた。

 ネイサンという学校のクソ野郎とのトラブル。それだけだと思っていた。

 しかし、私たちが足を踏み入れてしまったのは、そんなちっぽけな問題ではなかったのだ。

 アルカディア・ベイの裏社会、売人、そして「消えた少女・レイチェル・アンバーの謎」。

 底なしの泥沼が、私たちを飲み込もうと大きく口を開けていた。

 そして私の唯一の武器である「時間を巻き戻す力」は、すでに限界を迎えようと悲鳴を上げている。

 

窓の外では、アルカディア・ベイの灰色の雨が、すべてを隠蔽するように激しさを増して降り続いていた。

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