ライフイズストレンジ Life is Strange   作:しゃちまる

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第2部:時間切れ(Out of Time)第1話:プレスコット寮の朝、あるいはデジタルな公開処刑

目覚まし時計の無機質な電子音が、まどろみの薄い膜を乱暴に引き裂いた。

 火曜日。午前七時。

 私は重たい瞼をこじ開け、毛布の中から手を伸ばしてアラームを叩き切った。部屋に再び、耳鳴りのような静寂が戻ってくる。

 昨夜の狂ったような雪は、朝にはすっかり雨へと変わっていた。窓ガラスを打ち付ける冷たい雨粒が、世界全体を灰色のフィルターで覆い隠している。

 

ベッドから身を起こすと、全身の筋肉が鉛のように重かった。そして何より、頭蓋骨の奥のほうで、キリキリとかすかな鈍痛が脈打っている。

 二日酔いならぬ、「時間巻き戻し(タイムリープ)酔い」とでも呼ぶべきだろうか。昨日、物理法則を捻じ曲げすぎた代償が、神経の隅々に疲労として蓄積されているのが分かった。余り戻しすぎると私が戻ってこれなくなってしまうかもしれない。

「……夢じゃなかったんだ」

 私は自分の右の手のひらを見つめ、ぽつりと呟いた。

 クロエを救ったこと。10月の雪。巨大竜巻のヴィジョン。そして、ケイトの悲痛な背中。すべてが現実の出来事として、この両手に重くのしかかっている。

 

私はため息をつき、ベッドの横に置かれた観葉植物のリサに、ペットボトルから少しだけ水をやった。土に染み込んでいく水を見つめながら、深呼吸を一つ。

 今日からまた、戦場へ赴かなければならない。

 シャワー用具の入ったプラスチックの籠を抱え、私は部屋のドアノブに手をかけた。

 

――ドアを開けた瞬間、プレスコット寮の廊下は、すでに独自の凶暴な生態系を稼働させていた。

 

ヘアドライヤーの唸り音、重低音の効いたポップ・ミュージック、そして鋭い嬌声。むせ返るようなココナッツ系のシャンプーの匂いと、安物の香水の香りが混ざり合い、胃の奥を不快に刺激する。

 私は視線を落とし、壁際を這うようにシャワールームへと歩き出した。誰とも目を合わせたくない。この場所では、目立つことはすなわち獲物になることを意味している。

 

しかし、廊下の中ほど――222号室の前に差し掛かった時、私の足は自然と止まってしまった。

 ケイト・マーシュの部屋の前。私がブラックウェルで唯一心を許せる女の子。彼女はクリスチャンということもありまさに「清純」を具現化したような子だった。

 そこには、三人の金髪の女子生徒が陣取っていた。スクールカーストの頂点に君臨するビクトリア・チェイスと、その取り巻きであるテイラーとコートニーだ。

 ビクトリアは、完璧にプレスされたデザイナーズブランドのブラウスを着こなし、片手に黒いホワイトボードマーカーを握っていた。彼女はケイトの部屋のドアに掛けられた小さなホワイトボードに向かって、楽しそうに何かを書き込んでいる。

 

「ちょっとちょっとビクトリア、それ最高にウケるんだけど!」

 テイラーが、手元のスマートフォンを見つめながら下品な笑い声を上げた。

「でしょ? 彼女の『神聖な』イメージにぴったりのキャッチコピーよ!」

 ビクトリアはキュッとマーカーのキャップを閉め、自分の芸術作品を鑑賞するように一歩後ろへ下がった。

 

そこには、太い黒の文字でこう書かれていた。

『純潔クラブのビッチ女王(Purity Club Bitch Queen)へ、昨夜の動画、最高に濡れたわ。次はいくらでヤれる?』

 

吐き気がした。

 悪意というものを煮詰めて、文字の形に凝縮したような暴力。ビクトリアはひたすらにどす黒い。

 その時、ガチャリと音を立てて222号室のドアが開いた。

 出てきたのは、ケイトだった。

 大きめのグレーのカーディガンを羽織り、胸に大切な聖書を抱き抱えている。彼女の顔色は、幽鬼のように蒼白だった。目の下のクマは昨日よりもひどく、唇はかさかさに乾いている。

 

「あら、噂をすれば噂をすれば。おはよう、ケイト」

 ビクトリアが、猫撫で声で振り返った。

「あの……私の部屋の前で、何を……」

 ケイトの視線が、ホワイトボードの文字に向けられた。

 彼女の瞳孔がスッと収縮し、抱えていた聖書を握る指先が白くなるのが見えた。彼女の唇がわなわなと震え、目から大粒の涙が溢れそうになる。そして彼女の体は小さく震えていた。

「ああ、ごめんなさいね。ファンレターを残しておいただけよ。とくになんて意味はないの」

 ビクトリアは薄い唇を歪めて笑った。

「みんな心配してるのよ、ケイト。あんなに『乱れた』姿を世界中に配信されちゃって。神様は、婚前交渉を許してくださるのかしら?」

「ち、違う……あれは、あんなの私じゃない。お酒に何か入れられて……私、何も覚えてないの……」

 ケイトの掠れた声は、絶望的なまでに弱々しかった。

「言い訳はいいのよ。私たち、動画を見たんだから。あなたが何人の男と――」

 

やめて。

 私の頭の中で、警鐘が鳴り響いた。

 これ以上、彼女の心が壊れるのを見ていられない。

 私は強く目を閉じ、左手を前に突き出した。そして私は時を戻した。

 

――キィイイイイイイイイイン。

 

脳髄を貫く金属音。視界が割れ、光の粒子が逆流する。

 ビクトリアの口の動きが逆再生され、彼女がホワイトボードから離れ、マーカーのキャップを開ける直前まで、世界が猛烈な勢いで巻き戻っていく。唯一逆再生をしないのは手を前に突き出している私だけだ。

 痛みを伴うノイズが収まり、目を開けた。

 

「……でしょ? 彼女の『神聖な』イメージにぴったりの――」

 ビクトリアがマーカーのキャップを外し、ケイトの部屋のボードにペン先を当てようとした、まさにその瞬間だった。

 

「ちょっとやめて、ビクトリア」

 

自分の口から出た声は、想像以上に低く、冷たかった。

 私はビクトリアとドアの間に割って入り、ホワイトボードを背にして立った。

 廊下の空気が一瞬で凍りつく。テイラーとコートニーが、信じられないものを見るような目で私を凝視した。

「……は?」

 ビクトリアの完璧な眉が、不快そうにひそめられる。しかしそこには驚きの色も混じっていたようにも見える。彼女はマックスがケイトをかばうなど思ってもいなかったのだろう。

「何様のつもり、マックス? 邪魔しないでくれる?」

「人の部屋のドアに、下品な落書きをするのはやめてって言ったの。あなたたち、自分たちがどれだけ最低なことをしてるか分かってるの?」

 心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく打っている。それでも私は、一歩も退かなかった。

 

「は?最低なこと?」

 ビクトリアは嘲笑した。

「事実を書こうとしただけじゃない。あの動画、どうせあなたも見たでしょ? あの地味で退屈なケイト・マーシュが、よだれを垂らして男たちに群がってたのを。私たちが清純なお嬢様の彼女の正体を暴いてあげてるのよ」

「あれはケイトじゃない! 誰かが彼女をハメたんだよ。あんなの、まともな状態の人間がすることじゃない」

「あら、熱い友情ね。それとも、あなたもあのパーティでクスリでもキメてたクチ?」

 ビクトリアが一歩近づき、高級な香水の匂いが鼻をついた。彼女の冷酷な瞳が、私の臆病な本質を見透かそうと睨みつけてくる。

 

「……とにかく、ここから離れて。さもないと、寮長に報告するから」

 私が精一杯の虚勢を張って睨み返すと、ビクトリアは鼻でフッと笑った。

「バカみたい。こんなビッチを庇うなんて、あなたも同類ね。行くわよ、テイラー、コートニー。こんなダサい空気吸ってたら、こっちまで腐りそう」

 

三人の金髪が踵を返し、ヒールをカツカツと鳴らしながら廊下の奥へと消えていった。

 その背中が見えなくなった瞬間、私は肺に溜まっていた空気を一気に吐き出した。足の震えが止まらない。

 その時、背後のドアが静かに開いた。

 

「……マックス?」

 

ケイトだった。

 彼女はドアの隙間から、怯えた子ウサギのような瞳で私を見ていた。私がビクトリアを追い払ったことを見ていたのだろうか。

「おはよう、ケイト。……もう大丈夫だよ。あいつら、どっか行ったから」

 私は努めて明るい声を出そうとしたが、ひどく不自然に響いた。

 

ケイトはホワイトボードをチラリと見た。そこには何も書かれていない。私が時間を巻き戻して、書かれる前に防いだのだから。

 しかし、彼女の顔に安堵の色は浮かばなかった。

「……ありがとう、マックス。私のこと庇ってくれて」

 彼女の声は、どこまでも虚ろだった。

「でも、ホワイトボードが綺麗でも、意味はないの。みんなのスマホの中には、あの動画が入ってる。掲示板には、私の名前がいっぱい書かれてる。……消せないんだよ、マックス。デジタルのタトゥーみたいに、一生私の皮膚にこびりついて離れないの」

 

彼女の言葉が、私の胸に重く、鋭く突き刺さった。

 その通りだ。

 私は時間を少しだけ巻き戻して、目の前のインクの染みを消すことはできる。ビクトリアの嫌がらせを、一時的に追い払うことはできる。

 でも、すでに世界中に拡散されてしまった何千、何万という「悪意のコピー」を、私の力で消去することはできない。ネットワークという巨大な怪物から彼女を救い出す魔法なんて、私にはないのだ。

 

「ケイト……」

 私は彼女の肩に触れようと手を伸ばしたが、彼女はビクッと身を引き、後ずさった。

「ごめんなさい、マックス。私、今は誰とも話したくないの。……祈らなきゃ。神様に、お祈りしなきゃ」

 ケイトはそれだけ言うと、逃げるように部屋の中へ戻り、バタンとドアを閉めてしまった。

 ガチャリ、と内側から鍵がかけられる冷たい音が、廊下に響き渡る。

 

私は、何も書かれていない真っ白なホワイトボードの前に、一人取り残された。

 救えなかった。

 目の前の暴力を防いだところで、彼女の心に巣食う絶望の根を断ち切ることはできなかったのだ。

 私は両手に抱えていたシャワー籠を強く握りしめた。無力感が、灰色の雨音と共に私の足元から這い上がってくる。

 

ダイナーへ行こう。

 今日は朝から、クロエと「ツー・ホエールズ・ダイナー」で会う約束をしている。

 私のこの得体の知れない能力を彼女に証明し、そして相談しなければならない。

 アルカディア・ベイに迫る竜巻のこと。そして、この狭い学校の中で息絶えようとしている、一人の優しかった少女を救う方法を。

 私は冷え切ったプレスコット寮の廊下を背に、重い足取りで歩き出した。

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