血を吐く天才子役は、完璧な嘘で大人を殺す 〜25歳で壊された元・国民的妹、7歳の身体で芸能界の闇を喰い尽くす〜 作:アホ面オムライス
鏡の中の自分が笑っていた。
楽屋の蛍光灯。十五歳の私の顔が、完璧な笑顔を作っていた。
右後ろの暗がりに、男の手が見えた。長い指。薬指に銀の指輪。その手が私の肩に乗っていた——だが私はそれを、鏡越しにしか知らなかった。
「笑顔、完璧だよ」
穏やかな声だった。感情のない穏やかさ。
鏡の中の私の顔は笑っていた。
だが私は——笑っていなかった。
笑顔を作れ、と命令を出した。筋肉がその命令に従った。口角が上がり、目尻が下がり、頬の肉が正確な角度で持ち上がった。だが、その笑顔を動かした感情が——何もなかった。
完璧な笑顔の中に、私がいなかった。
その時から私は、自分の本当の笑顔がどんな形をしているのか、わからなくなった。
*
「一ノ瀬さん、今のお気持ちは?」
声が鼓膜を叩いた。乱暴な速さで。
私は笑った。いや、笑おうとした。
口角を持ち上げようとして——顔の右半分が、びくりと醜く引き攣った。左の頬が私の意図を無視した角度でひしゃげ、目尻の筋肉が細かく、虫が這うように痙攣する。完璧な笑顔を作れと脳が命じているのに、疲労と絶望で泥のように重くなった顔面が、まったく別の無惨な形を要求している。
なぜ。どうして。動け。笑え。
「最高に、幸せです」
声が出た。ひどく震えていた。
感極まった喜びの震えだと、記者たちは解釈しただろう。鼓膜を突き刺す無数のシャッター音。フラッシュが一斉に焚かれる。暴力的な光の束が、まぶたの裏を真っ白に灼き切る。
一ノ瀬雫、二十五歳。「かつての天才子役」という重くまとわりつく肩書きを、十八年間背負い続けた女。
その実態は、薬の副作用に苛まれ、もう六ヶ月もまともに眠れていない、ただの壊れた肉の塊だ。
視界がドロドロに滲んでいた。強烈な吐き気が胃の底から喉へとせり上がる。口の中に鉄の味と苦い唾液が溜まった。
「みなさんのおかげで——」
口が動いた。正しい抑揚で、正しい感謝の言葉を並べた。
心が完全に死に絶えていても、筋肉は「一ノ瀬雫」という製品を完成させることができる。あと三十秒。二十秒。十秒だけ、この虚像を持たせればいい。
囲み取材が終わった。廊下へ出た。一歩。
膝が笑った。
壁に手をついた。指先が死人のように冷たい。廊下の蛍光灯がチカチカと点滅している。
ああ、と思った。これでようやく、休める。すべてが終わる。
最後に見たのは、埃の舞う床のタイルと、誰かが落とした台本の端っこだった。
*
パチッ。
乾いた音。まぶたの裏を何かが弾いたような、小さな衝撃。
最初にわかったのは、身体が不気味なほど軽いということだった。
さっきまで全身に充填されていた泥のような鉛が、嘘のように消え去っている。心臓は静かに、規則正しく動いている。内臓をかき回されるような吐き気もない。頭痛もない。
だが——何かがおかしい。
自分の輪郭が、合っていない。
手がある。足がある。胴体がある。それぞれの位置関係はわかる。だが、それらを統合した「私の身体」という感覚がひどくずれている。他人の靴を無理やり履かされた時のような、親しいはずのものが微かに異質な違和感。
目を開けた。
薄いピンク色の壁紙。角が剥がれかけたアニメキャラクターのステッカー。天井の隅に、小さな蜘蛛の巣。
知っている天井だった。二十年近く前に——
身を起こそうとした瞬間、顔面が暴れた。
口角が勝手に引きつり、眉間の筋肉が収縮し、頬骨の上の肉が波打つように動いた。「笑え」と「泣け」と「怒れ」が一度に発火して、どの表情にもならない痙攣が顔面を走り抜ける。
この顔は——小さすぎる。
二十五歳の表情筋の精密な制御を、この顔が受け止めきれない。頬の面積が足りない。眉から目尻までの距離が短すぎる。
両手で顔を覆った。
手が小さい。指が短い。爪が丸い。何百回もの役作りでささくれ立ち、荒れ果てたはずの指先が、ぷっくりと白く、ひどく柔らかい。
子供の手だった。
布団を蹴り、ベッドから転がり落ちるようにして、部屋の隅にある全身鏡の前に立った。
七歳の少女が、鏡の中に立っていた。
大きな瞳。色素の薄い、さらさらとした黒髪。頬に子供の丸みが残っている。「国民の妹」が——驚愕に目を見開いて、鏡の向こうからこちらを見ている。
枕元の机に目を向けた。小さなカレンダー。
二〇〇八年、一月二十日。
全身からサァッと血の気が引いた。
忘れるはずがない。私の人生が決定的に「商品」へと作り替えられた、その呪われた最初の日。サンライト・プロモーション特待生オーディション。当日。
*
鏡の中の自分を見つめた。
七歳の顔。その無垢な瞳のずっと奥底に、焼け焦げて爛れた二十五歳の私が、憎悪を抱えて座っている。
十五歳の楽屋の鏡が、脳裏に重なった。
完璧な笑顔の中に、私がいなかった。
あの男はそれを「完璧」と呼んだ。私の顔から私を抜き取って、人形の顔を作り上げて、それを「完璧」と呼んだ。
私が失ったのは、演技の感覚ではなかった。
自分の顔だった。
鏡の中の七歳がこちらを見ている。
胃の奥で、黒い炎が渦を巻いた。声にしなかった。声にすれば、七歳の脆い喉が震えて、このどろどろとした怒りが安い涙に変わってしまう。今は泣いている場合ではない。
*
バタン、とドアが開いた。
「雫! まだ寝てるの? 今日は大事な日だって言ったでしょ!」
心臓が跳ねた。身体が勝手に動いた。背筋を伸ばし、両手を膝の上に揃え、顔を上げる。
母。一ノ瀬美那子。二十代後半の、まだ若い顔。
眉間に、かすかな皺がある。唇の端が、わずかに引き攣っている。
不安だ。今日のオーディションに娘が受からなかったら、という恐怖を「期待」の顔で隠している。
「……お母さん」
「返事! ほら、早く顔を洗ってきなさい。サンライトの社長も来るのよ。あなたの人生だけじゃない——」
母が、言葉を切った。一拍。
「——私が、伝説にしてあげるんだからね」
心臓が止まった。
前世では——「伝説になるの」だった。
主語が違う。命令と奉仕。似ているようで、まるで違う。脳の裏側を冷たい手が撫でたような悪寒。なぜ、前世と違う。
「わかった。すぐ準備する」
母が一瞬、怪訝そうに目を細めた。七歳にしては冷静すぎる声だったかもしれない。だがすぐに頷いた。
「よろしい。服はリビングに置いてあるから」
母が出て行った。廊下に、母の香水の匂いが残った。三十秒で消えた。
洗面所で顔を洗った。冷たい水。七歳の肌は薄くて、水の温度が骨まで沁みる。鏡の中の濡れた顔を見た。
この顔はまだ、私のものだ。
完璧な笑顔の中に、まだ私がいる。
タオルで顔を拭いた。自分から、中に入る。
*
用意されたフリフリのドレスを手に取る。ファスナーを、自分で引き上げた。
前世の私は、大人に着せてもらうのを待っていた。今日は、自分で着る。
リビングに降りると、母がすでに車のキーを手に待っていた。
「完璧よ、雫」
母が私を見た。その目が、上から下へ。靴の先まで確認して——こくりと頷く。
「伝説にしてあげるからね」
二度目の「してあげる」。
車に乗り込んだ。窓の外を、二〇〇八年の街並みが流れていく。看板のフォントが古い。折りたたみ式の携帯電話を持った大人が歩いている。
母がバックミラーを覗いた。後部座席の私と、一瞬だけ目が合った。
「……雫。今日はなんか顔つきが違うわね」
「そう?」
「うん。なんか——大人みたい」
「気のせいだよ、お母さん」
胃が揺れた。嘘。
二十五歳の私は嘘に慣れきっていた。だがこの七歳の内臓は、嘘が喉を通過するたびに抗議する。不純で耐え難い「異物」として。
これが二度目の人生で吐いた、最初の嘘だった。
車が、港区の大きなビルに向かって走っていく。サンライト・プロモーション。入口の前に、長い列ができていた。全国から集められた子供たちと、その親。
母の手が肩に置かれた。
「雫。しっかりしなさい。もう始まってるのよ」
「——うん」
列の最後尾に並んだ。一月の冷たい空気を吸い込みながら、私は列の先にある入口を見つめた。
あのビルの中に、私を食い潰した歯車の最初の一枚がある。
前世では、その歯車に巻き込まれ、すり潰された。
今度は——内側から入る。
*
「私が伝説にしてあげる」。
前世では「伝説になるの」だった。
——前世の私は、この一文字の違いに気づかなかった。一度も。
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