血を吐く天才子役は、完璧な嘘で大人を殺す 〜25歳で壊された元・国民的妹、7歳の身体で芸能界の闇を喰い尽くす〜   作:アホ面オムライス

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第10話 白い扉の向こう

 九月。

 

 加藤マネージャーから母に電話があった。

 

「神崎社長が直々にお話ししたいことがあるそうです。ご自宅にお招きしたいと」

 

 母は朝から三回着替えた。

 

 一枚目は「派手すぎる」と脱いだ。二枚目は「地味すぎる」と脱いだ。三枚目を着た後、鏡の前で五分間立っていた。

 

 私は自分の部屋で、その音を聞いていた。

 

 クローゼットが開く音。ハンガーが鳴る音。また開く音。

 

 母がどれほどこの訪問を重大に感じているかが、音だけで伝わってきた。

 

「雫、行くよ」

 

 階段を降りた。

 

 玄関で母が私の服を確認した。白いブラウスと紺のスカート。加藤マネージャーが「清潔感がある」と言っていた組み合わせだ。

 

「いいわね」

 

 母の目が、上から下へ。靴の先まで。

 

 タクシーが来た。乗り込んだ。

 

 

 港区の高台。

 

 石壁に囲まれた門扉。アプローチの石畳を歩く。

 

 邸宅のリビングに通された。天井が高い。壁に絵画。革張りのソファ。紅茶とクッキー。

 

 空気が違った。

 

 サンライトの廊下とも、レッスンスタジオとも、ロケ地とも違う。この部屋は「誰かを迎え入れるために作られた空間」だ。迎え入れる側が完全に主導権を持つ。座る場所も、見える景色も、全部あらかじめ設計されている。

 

 神崎社長が現れた。カーディガンにスラックス。

 

 穏やかな顔だった。

 

「よく来てくれました。雫ちゃん、大きくなったね」

 

 私を見た目が——値踏みではなかった。もっと距離のある目だ。「この商品の現状を確認する」ではなく、「この商品がどこまで育ったか報告を受けたい」という目。

 

 つまり——神崎は上から指示を受けて、私を呼んだ。

 

 年間契約の話が始まった。飲料メーカーのCMシリーズ。ギャラの具体的な数字。母の目が輝く。母の体がわずかに前のめりになる。

 

 私は別のことに注意を向けていた。

 

 リビングの奥に廊下が続いている。その廊下の先に——扉が見えた。

 

 白い扉。

 

 他のドアが丸い取っ手なのに対し、その扉だけはレバーハンドルだった。材質も違う。他のドアより厚い。

 

 扉の前に——男が立っていた。

 

 グレーのスーツ。耳にイヤホン。直立。

 

 警備員だ。

 

 前世の記憶を探った。前世でも神崎邸に来たことがある。十歳の時。

 

 あの扉の前に、警備員はいなかった。

 

 今世では、いる。

 

「——お菓子もう少し食べる? 奥にもっと美味しいのがあるんだけど」

 

 神崎が私に微笑んだ。

 

「行きたい!」

 

 七歳の無邪気さを全開にした。

 

「じゃあ、こっちおいで。お母さん、雫ちゃんを少しお借りしますね」

 

 廊下を歩いた。

 

 白い扉の手前で、神崎が立ち止まった。

 

「ケーキはキッチンにあるんだけどね。その前にちょっと、お手洗い。ここで待ってて」

 

 神崎が左手のドアに消えた。

 

 廊下に、私と警備員だけが残された。

 

 白い扉まで三メートル。

 

 警備員は前を向いたまま動かない。私を見ていない。七歳の子供を脅威とは判断していない。

 

 耳を澄ませた。

 

 空調の音。廊下の奥からかすかに聞こえるキッチンの音。

 

 そして——白い扉の向こうから。

 

 何かが聞こえた。

 

 椅子を引く音だった。

 

 長く引いた音ではない。座り直す時の、短い音。ずっとそこにいた人間が、姿勢を変えた時の音。

 

 扉の向こうで、誰かが待っている。

 

 ずっと待っていた。

 

 匂いが漏れていた。微かだが確実に。

 

 ウッディ系の香水。古い革の匂い。

 

 母の化粧台から漂ったのと同じ匂いだ。母の髪に移っていた匂いだ。

 

 全身の産毛が逆立った。

 

 七歳の身体が、この匂いを「初めて」嗅いでいる。だが二十五歳の記憶が、この匂いを知っている。何百回も嗅いだ。深夜の楽屋で、打ち上げの席で、廊下で、レッスン室で。

 

 橘聡一郎。

 

 あの扉の向こうに——いる。

 

 前世では、橘との初対面は十歳だった。今は七歳。この時点で既に神崎邸に——橘が出入りしている。

 

 いや。

 

 「出入りしている」のではない。

 

 扉の向こうで、椅子を引く音がした。ずっとそこにいた人間の音だ。待っていた。

 

 この部屋は橘のために用意されている。橘が主で、神崎が従だ。神崎邸ではなく——橘が間借りしている場所と考えた方が正確かもしれない。

 

 「神崎のジジイが珍しく入れ込んでると聞いたが」と成瀬は言った。神崎が「入れ込んでいる」のは、神崎自身が私を欲しがっているからではなく——橘に命じられているからではないか。

 

 足が震えた。

 

 七歳の身体が恐怖として反応していた。二十五歳の記憶が接続されているから、ただの「知らない人の家」ではない。この匂いが何を意味するかを、身体が知っている。

 

 だが同時に——確信した。

 

 橘はここにいる。

 

 神崎邸に。この白い扉の向こうに。

 

 前世では十歳まで橘の存在を知らなかった。今は七歳で、扉の向こうに橘がいることを確認した。

 

 これは——前進だ。

 

 震えを止めた。指先に力を入れた。

 

「お待たせ。じゃあケーキを食べに行こうか」

 

 神崎が戻ってきた。穏やかな笑顔。善良そうな顔。

 

「はい!」

 

 笑顔を作った。七歳の笑顔。屈託のない、無邪気な。

 

 キッチンで家政婦がケーキを切ってくれた。苺のショートケーキ。

 

 一口食べた。

 

 クリームが舌の上で溶ける。甘い。

 

 だが甘さの下に——何も来なかった。

 

 苺を食べた時のような感触がない。コロッケの時も、カレーの時も、肉まんの時も、甘さや塩気や温かさと一緒に「何か」が来た。

 

 今日は来ない。

 

 恐怖が味覚を遮断している。

 

 この身体は、恐怖の時は味がしなくなる。安心の時は味がする。

 

 そういうことか。

 

 食べながら、その事実を記録した。

 

 

 リビングに戻った。

 

 母と神崎が談笑していた。母の体はもう前のめりになっていない。ソファに深く座り、笑い声を上げている。

 

 この部屋の空気に、母が馴染んでいる。

 

 初めて来た場所なのに、馴染んでいる。

 

 帰り際、車に乗り込んだ。母は上機嫌で喋り続けた。

 

「年間契約よ、雫。すごいでしょ。あの金額が毎年保証されるのよ」

 

 窓の外を見ながら、廊下で嗅いだ匂いを反芻していた。

 

 橘は神崎邸にいる。前世より三年早く、すでにここにいる。システムが加速している。

 

 だが——所在がわかった。

 

 これは前進だ。

 

「お母さん」

 

「何」

 

「神崎社長の家、前に来たことある?」

 

 母が一瞬、ハンドルを握る手に力を入れた。

 

「……一度だけ。随分前に」

 

「誰かに連れてきてもらったの?」

 

「加藤さんよ。打ち上げか何かで」

 

 声が低かった。

 

 嘘だ。加藤の話をする時の声と、今の声は違う。

 

 それ以上は聞かなかった。

 

 

 帰宅後。自分の部屋。

 

 ベッドに座って、今日のことを整理した。

 

 白い扉の向こうに橘がいた。前世より三年早く、すでに神崎邸に根を張っている。

 

 警備員がいた。前世にはいなかった。

 

 橘は何かを守っている。あるいは、誰かを閉じ込めている。

 

 白い扉。レバーハンドル。厚い材質。

 

 前世の神崎邸の記憶を、可能な限り詳細に掘り起こした。

 

 あの扉がある場所に、前世では何があったか。

 

 記憶の中の神崎邸に、あの廊下は存在している。だが扉は——違う扉だった。普通のドア。警備員もいなかった。

 

 つまり——今世では、あの場所が別の用途に変えられている。

 

 橘が要求して、変えさせた。

 

 ガラケーを開いた。蓮にメールを打った。

 

「今日、神崎社長の家に行った。廊下の奥に白い扉があって、警備員が立ってた。扉の向こうに人がいた。たぶん橘」

 

 三分後、返信。

 

「橘が社長の家にいるのか。それは——社長が橘に従ってるってことか」

 

「そう思う。社長の家じゃなくて、橘が使ってる場所と考えた方がいいかもしれない」

 

「……お前、今日それを確認しに行ったのか」

 

「お礼を言いに行くって口実を作ってた」

 

 返信に時間がかかった。

 

「四分後。

 

「お前はやっぱり七歳じゃないと思うけど、まあいい。——一つだけ聞いていいか」

 

「うん」

 

「怖かったか」

 

 正直に答えた。

 

「怖かった。足が震えた」

 

「そうか。——怖かったなら、まだ人間だ」

 

 蓮らしい返し方だった。

 

「おやすみ、蓮くん」

 

「おやすみ。——無理すんなよ」

 

 ガラケーを閉じた。

 

 

 窓の外は暗い。九月の夜。

 

 怖かった。足が震えた。

 

 それは本当だ。

 

 だが橘の所在がわかった。それも本当だ。

 

 白い扉の向こうで、誰かが椅子を引く音がした。ずっと待っていた誰かの音。

 

 橘はあの扉の向こうで、何を待っているのか。

 

 私が「完成品」になるのを待っているのか。

 

 あるいは——別の誰かを待っているのか。

 

 前世の地図に載っていない少女。ハルカを演じている少女。ドラマが終われば全国区になる少女。

 

 愛衣の顔が、暗闇の中に浮かんだ。

 

 扉の向こうで椅子を引く音がした。

 

 その音が、今夜も耳の奥に残っていた。

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