血を吐く天才子役は、完璧な嘘で大人を殺す 〜25歳で壊された元・国民的妹、7歳の身体で芸能界の闇を喰い尽くす〜 作:アホ面オムライス
九月。
加藤マネージャーから母に電話があった。
「神崎社長が直々にお話ししたいことがあるそうです。ご自宅にお招きしたいと」
母は朝から三回着替えた。
一枚目は「派手すぎる」と脱いだ。二枚目は「地味すぎる」と脱いだ。三枚目を着た後、鏡の前で五分間立っていた。
私は自分の部屋で、その音を聞いていた。
クローゼットが開く音。ハンガーが鳴る音。また開く音。
母がどれほどこの訪問を重大に感じているかが、音だけで伝わってきた。
「雫、行くよ」
階段を降りた。
玄関で母が私の服を確認した。白いブラウスと紺のスカート。加藤マネージャーが「清潔感がある」と言っていた組み合わせだ。
「いいわね」
母の目が、上から下へ。靴の先まで。
タクシーが来た。乗り込んだ。
*
港区の高台。
石壁に囲まれた門扉。アプローチの石畳を歩く。
邸宅のリビングに通された。天井が高い。壁に絵画。革張りのソファ。紅茶とクッキー。
空気が違った。
サンライトの廊下とも、レッスンスタジオとも、ロケ地とも違う。この部屋は「誰かを迎え入れるために作られた空間」だ。迎え入れる側が完全に主導権を持つ。座る場所も、見える景色も、全部あらかじめ設計されている。
神崎社長が現れた。カーディガンにスラックス。
穏やかな顔だった。
「よく来てくれました。雫ちゃん、大きくなったね」
私を見た目が——値踏みではなかった。もっと距離のある目だ。「この商品の現状を確認する」ではなく、「この商品がどこまで育ったか報告を受けたい」という目。
つまり——神崎は上から指示を受けて、私を呼んだ。
年間契約の話が始まった。飲料メーカーのCMシリーズ。ギャラの具体的な数字。母の目が輝く。母の体がわずかに前のめりになる。
私は別のことに注意を向けていた。
リビングの奥に廊下が続いている。その廊下の先に——扉が見えた。
白い扉。
他のドアが丸い取っ手なのに対し、その扉だけはレバーハンドルだった。材質も違う。他のドアより厚い。
扉の前に——男が立っていた。
グレーのスーツ。耳にイヤホン。直立。
警備員だ。
前世の記憶を探った。前世でも神崎邸に来たことがある。十歳の時。
あの扉の前に、警備員はいなかった。
今世では、いる。
「——お菓子もう少し食べる? 奥にもっと美味しいのがあるんだけど」
神崎が私に微笑んだ。
「行きたい!」
七歳の無邪気さを全開にした。
「じゃあ、こっちおいで。お母さん、雫ちゃんを少しお借りしますね」
廊下を歩いた。
白い扉の手前で、神崎が立ち止まった。
「ケーキはキッチンにあるんだけどね。その前にちょっと、お手洗い。ここで待ってて」
神崎が左手のドアに消えた。
廊下に、私と警備員だけが残された。
白い扉まで三メートル。
警備員は前を向いたまま動かない。私を見ていない。七歳の子供を脅威とは判断していない。
耳を澄ませた。
空調の音。廊下の奥からかすかに聞こえるキッチンの音。
そして——白い扉の向こうから。
何かが聞こえた。
椅子を引く音だった。
長く引いた音ではない。座り直す時の、短い音。ずっとそこにいた人間が、姿勢を変えた時の音。
扉の向こうで、誰かが待っている。
ずっと待っていた。
匂いが漏れていた。微かだが確実に。
ウッディ系の香水。古い革の匂い。
母の化粧台から漂ったのと同じ匂いだ。母の髪に移っていた匂いだ。
全身の産毛が逆立った。
七歳の身体が、この匂いを「初めて」嗅いでいる。だが二十五歳の記憶が、この匂いを知っている。何百回も嗅いだ。深夜の楽屋で、打ち上げの席で、廊下で、レッスン室で。
橘聡一郎。
あの扉の向こうに——いる。
前世では、橘との初対面は十歳だった。今は七歳。この時点で既に神崎邸に——橘が出入りしている。
いや。
「出入りしている」のではない。
扉の向こうで、椅子を引く音がした。ずっとそこにいた人間の音だ。待っていた。
この部屋は橘のために用意されている。橘が主で、神崎が従だ。神崎邸ではなく——橘が間借りしている場所と考えた方が正確かもしれない。
「神崎のジジイが珍しく入れ込んでると聞いたが」と成瀬は言った。神崎が「入れ込んでいる」のは、神崎自身が私を欲しがっているからではなく——橘に命じられているからではないか。
足が震えた。
七歳の身体が恐怖として反応していた。二十五歳の記憶が接続されているから、ただの「知らない人の家」ではない。この匂いが何を意味するかを、身体が知っている。
だが同時に——確信した。
橘はここにいる。
神崎邸に。この白い扉の向こうに。
前世では十歳まで橘の存在を知らなかった。今は七歳で、扉の向こうに橘がいることを確認した。
これは——前進だ。
震えを止めた。指先に力を入れた。
「お待たせ。じゃあケーキを食べに行こうか」
神崎が戻ってきた。穏やかな笑顔。善良そうな顔。
「はい!」
笑顔を作った。七歳の笑顔。屈託のない、無邪気な。
キッチンで家政婦がケーキを切ってくれた。苺のショートケーキ。
一口食べた。
クリームが舌の上で溶ける。甘い。
だが甘さの下に——何も来なかった。
苺を食べた時のような感触がない。コロッケの時も、カレーの時も、肉まんの時も、甘さや塩気や温かさと一緒に「何か」が来た。
今日は来ない。
恐怖が味覚を遮断している。
この身体は、恐怖の時は味がしなくなる。安心の時は味がする。
そういうことか。
食べながら、その事実を記録した。
*
リビングに戻った。
母と神崎が談笑していた。母の体はもう前のめりになっていない。ソファに深く座り、笑い声を上げている。
この部屋の空気に、母が馴染んでいる。
初めて来た場所なのに、馴染んでいる。
帰り際、車に乗り込んだ。母は上機嫌で喋り続けた。
「年間契約よ、雫。すごいでしょ。あの金額が毎年保証されるのよ」
窓の外を見ながら、廊下で嗅いだ匂いを反芻していた。
橘は神崎邸にいる。前世より三年早く、すでにここにいる。システムが加速している。
だが——所在がわかった。
これは前進だ。
「お母さん」
「何」
「神崎社長の家、前に来たことある?」
母が一瞬、ハンドルを握る手に力を入れた。
「……一度だけ。随分前に」
「誰かに連れてきてもらったの?」
「加藤さんよ。打ち上げか何かで」
声が低かった。
嘘だ。加藤の話をする時の声と、今の声は違う。
それ以上は聞かなかった。
*
帰宅後。自分の部屋。
ベッドに座って、今日のことを整理した。
白い扉の向こうに橘がいた。前世より三年早く、すでに神崎邸に根を張っている。
警備員がいた。前世にはいなかった。
橘は何かを守っている。あるいは、誰かを閉じ込めている。
白い扉。レバーハンドル。厚い材質。
前世の神崎邸の記憶を、可能な限り詳細に掘り起こした。
あの扉がある場所に、前世では何があったか。
記憶の中の神崎邸に、あの廊下は存在している。だが扉は——違う扉だった。普通のドア。警備員もいなかった。
つまり——今世では、あの場所が別の用途に変えられている。
橘が要求して、変えさせた。
ガラケーを開いた。蓮にメールを打った。
「今日、神崎社長の家に行った。廊下の奥に白い扉があって、警備員が立ってた。扉の向こうに人がいた。たぶん橘」
三分後、返信。
「橘が社長の家にいるのか。それは——社長が橘に従ってるってことか」
「そう思う。社長の家じゃなくて、橘が使ってる場所と考えた方がいいかもしれない」
「……お前、今日それを確認しに行ったのか」
「お礼を言いに行くって口実を作ってた」
返信に時間がかかった。
「四分後。
「お前はやっぱり七歳じゃないと思うけど、まあいい。——一つだけ聞いていいか」
「うん」
「怖かったか」
正直に答えた。
「怖かった。足が震えた」
「そうか。——怖かったなら、まだ人間だ」
蓮らしい返し方だった。
「おやすみ、蓮くん」
「おやすみ。——無理すんなよ」
ガラケーを閉じた。
*
窓の外は暗い。九月の夜。
怖かった。足が震えた。
それは本当だ。
だが橘の所在がわかった。それも本当だ。
白い扉の向こうで、誰かが椅子を引く音がした。ずっと待っていた誰かの音。
橘はあの扉の向こうで、何を待っているのか。
私が「完成品」になるのを待っているのか。
あるいは——別の誰かを待っているのか。
前世の地図に載っていない少女。ハルカを演じている少女。ドラマが終われば全国区になる少女。
愛衣の顔が、暗闇の中に浮かんだ。
扉の向こうで椅子を引く音がした。
その音が、今夜も耳の奥に残っていた。