血を吐く天才子役は、完璧な嘘で大人を殺す 〜25歳で壊された元・国民的妹、7歳の身体で芸能界の闇を喰い尽くす〜 作:アホ面オムライス
受付で番号札を渡された。
三十番。
前世と同じ番号だった。
母のセリフは違った。番号は同じ。どこまでが前世と重なり、どこからがずれているのか——その境界線が、まだ見えない。
*
控え室は、体育館ほどの広さのホールだった。
パイプ椅子が整然と並べられ、壁際にウォーターサーバーと菓子が置かれている。
室温が低い。
意図的だろう。
寒さは人間を萎縮させる。緊張した子供はさらに緊張し、泣き出す子も出る。それを見て審査員は「この子は本番に弱い」と判断する。
オーディションは、控え室から始まっている。
前世の私はそれを知らなかった。ただ寒くて、母にくっついて震えていた。
今日の私は、椅子に浅く腰掛け、足をぶらぶらと揺らした。退屈を持て余している仕草。寒さに震えるのではなく、退屈そうにしている子供の方が、審査員の目には「度胸がある」と映る。
*
子供たちを、一人ずつ確認する。
十三番の男の子。笑うと犬みたいな顔になる子。前世ではCMに数本出て、すぐに消えた。十七番の女の子。赤いリボン。合格はしたが半年で退所した。
記憶はおおむね合っている。
そして——二十二番。
小さな女の子が、母親の隣で台本を音読していた。
声は大きいが、少し空回りしている。感情を込めようとして、技術がまだ追いついていない。
だが、目だけが違った。
本気の目だった。
台本の文字を追う目が、他の子供と根本的に違う。「親に言われたから来た」子供の目ではない。自分でここに来たかった子供の目だ。
前歯が一本、抜けかけている。笑うと、その隙間が見える。
前世の記憶を探った。
この子の顔が、どこにもない。
名前も、経歴も、後に何者になるのかも——前世の私の記憶に、この少女は存在しない。
完全な空白。
前世の地図に載っていない人間は、私には予測できない。この子の未来を、私は知らない。
目を逸らした。今は考えるな。
「三十番、一ノ瀬雫さん。準備してください」
スタッフの声。
母が私の髪を最後にもう一度整え、肩を強く握った。
「いい? 笑顔よ。社長の目を見て、はっきり話すの」
「うん」
椅子から降りた。
足が床についた瞬間、全身に電流のようなものが走った。
恐怖ではない。心拍が上がる。手のひらが熱くなる。視界が鮮明になる。
役者の身体が本番を前にして自動的に臨戦態勢に入る。壊れるまで使い込まれる前から、この回路はあった。
扉の前で、スタッフが私の名前を確認した。深く息を吸った。扉を開けた。
*
審査室は、思ったより狭かった。
長机の向こうに五人の大人が座っている。逆光で表情は読みにくいが、シルエットの輪郭と体格で全員の位置を把握する。
中央。恰幅の良い男性。神崎宗一郎。
サンライト・プロモーション創業者、現社長。前世で私を「百年に一人の逸材」と持ち上げ、壊れかけた時に「代わりはいくらでもいる」と吐き捨てた男。
「エントリーナンバー三十番、一ノ瀬雫さんですね」
「はい。いちのせ、しずくです。ななさいです」
意識して、少しだけ上ずらせた。完璧に作り込むのではなく、ほんの少し不安定さを残す。審査員はプロだ。完璧すぎる子供は、逆に警戒される。
「好きな食べ物は何かな?」
前世では「ケーキ」と答えた。ありきたりで、印象に残らない回答。
だが私には一つ、前世にはなかった情報がある。
デビュー三年目の打ち上げで、酔った神崎が隣のプロデューサーにこう漏らしていた。「苺が好きって言う子はね、素直なんだよ。昔からそう決めてる」。
「いちごが、すきです」
にっこりと笑った。
神崎の目が、一瞬だけ光った。書類から顔を上げ、私を見た。百人のうちの「一人」から「少し気になる一人」に格上げされたのがわかった。
「お休みの日は何をしていますか?」
「お母さんとお買い物にいきます」
答えた瞬間——右端の女性審査員の眉が、微かに寄った。一瞬で消えたが、確かに見えた。「面接対策本通りの回答」として読まれた。
「お母さんと一緒にいるの、好きなんだね」
進行役がフォローするように聞いてきた。
「はい。お母さんがえらんだ服を着るのが、すきです」
即興だ。前世知識ではない。七歳の語彙で、この場で絞り出した言葉。
右端の女性審査員の眉が——今度は緩んだ。
*
「では、雫ちゃん。少し難しいことをお願いしてもいいかな?」
進行役の女性が、一枚の紙を手渡した。
A4用紙。数行のセリフ。
——ママ、いかないで。わたし、いいこにしてるから。ひとりにしないで。
前世と、同じ課題だった。
一度目の人生でも、この三行を渡された。あの時の私は言葉の意味など本当にはわかっていなかった。ただ「ここで泣けばお母さんが喜ぶ」という直感で涙を絞り出し、「感情表現の天才」というレッテルを貼られた。
今は違う。
二十五年分の孤独が、三行の活字を見た瞬間に、胸の底から立ち上がってきた。
このまま出すか——と考えた。
やめた。
重すぎる。七歳の少女が持つには異質な絶望だ。審査員が求めているのは「健気な涙」であって、もっと深いものではない。
目を閉じた。
本物の感情のボリュームを絞る。悲壮感を薄め、幼い依存心と不安を前面に出す。涙は一筋か二筋。溢れさせない。
自分の心を切り刻んで、形を整える作業。
「……はい。できます」
顔を上げた時、目には計算された量の涙が溜まっていた。
目の前の空中に、架空の「ママ」を作り出した。私を無条件に愛し、決して見捨てない、理想の母親。一度も出会えなかった幻影。その幻影が、私を置いて去ろうとしている。
「……ママ」
最初の一声。震え、掠れ、今にも壊れそうな声。
「いかないで……」
涙が、頬を伝った。右目から一筋。少し遅れて、左目から一筋。
「わたし、いいこにしてるから……! おねがい、ひとりにしないで……っ」
最後の一語で、声が割れた。嗚咽を漏らしながら、膝を床につく。
静寂が落ちた。
「……素晴らしい」
神崎の声が、静寂を破った。
「君は本物だね、一ノ瀬雫ちゃん」
本物。違う。全部計算だ。
だが代わりに、涙に濡れた顔で少しだけはにかんだ。
「……ありがとう、ございます」
*
立ち上がろうとした脚が、途中で力を失った。
床に両手をついた。
「雫ちゃん? 大丈夫?」
全身が重い。さっきまでの覚醒が嘘のように消え去り、鉛を流し込まれたような倦怠感が四肢に広がっている。
代償が来た。
本物の感情を引き出して加工した。その深さが、七歳の神経系の許容量を超えた。深い感情ほど、代償が重い。
「だ、だいじょうぶです……。あしが、しびれちゃって……」
スタッフが腕を支えてくれた。立ち上がる。膝はまだ震えているが、体重を支えることはできる。
ドアに向かう。
その時——長机の左端に視線が滑った。
今日、一度も声を発していなかった男。四十代くらい。痩せ型で、グレーのスーツ。
男は手元のノートを開いていた。
膝が折れたその瞬間にだけ、開いた。
前世の記憶に、あのノートはない。
ドアを開けて、廊下に出た。
*
廊下を歩いていると、前方から一人の少女が歩いてきた。
ピンクのヘアピン。丸い頬。前歯の隙間。
台本を音読していた、あの子だった。これから審査室に入るところだ。
少女は私の前を通りかかり、ふと足を止めた。
目が合った。
少女は二秒ほど私を見た。それから——まっすぐな声で、言った。
「ねえ」
「……うん」
「緊張した?」
怖かったのかもしれない。だから聞いた。同じ場所に来た人間に。
「……少し」
少女は頷いた。小さく。
それから、ピンクのヘアピンを揺らして、審査室へ向かって歩いていった。
*
審査室のドアが閉まった。
廊下に、一人残された。
膝がまだ微かに震えている。両手が冷たい。
「緊張した?」
八歳の少女が、見知らぬ私に、それを聞いた。
前世の私には——あんな声で話しかけてくれる人間が、いなかった。
一度も。