血を吐く天才子役は、完璧な嘘で大人を殺す 〜25歳で壊された元・国民的妹、7歳の身体で芸能界の闇を喰い尽くす〜   作:アホ面オムライス

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第2話 記憶にない少女

 受付で番号札を渡された。

 

 三十番。

 

 前世と同じ番号だった。

 

 母のセリフは違った。番号は同じ。どこまでが前世と重なり、どこからがずれているのか——その境界線が、まだ見えない。

 

 

 控え室は、体育館ほどの広さのホールだった。

 

 パイプ椅子が整然と並べられ、壁際にウォーターサーバーと菓子が置かれている。

 

 室温が低い。

 

 意図的だろう。

 

 寒さは人間を萎縮させる。緊張した子供はさらに緊張し、泣き出す子も出る。それを見て審査員は「この子は本番に弱い」と判断する。

 

 オーディションは、控え室から始まっている。

 

 前世の私はそれを知らなかった。ただ寒くて、母にくっついて震えていた。

 

 今日の私は、椅子に浅く腰掛け、足をぶらぶらと揺らした。退屈を持て余している仕草。寒さに震えるのではなく、退屈そうにしている子供の方が、審査員の目には「度胸がある」と映る。

 

 

 子供たちを、一人ずつ確認する。

 

 十三番の男の子。笑うと犬みたいな顔になる子。前世ではCMに数本出て、すぐに消えた。十七番の女の子。赤いリボン。合格はしたが半年で退所した。

 

 記憶はおおむね合っている。

 

 そして——二十二番。

 

 小さな女の子が、母親の隣で台本を音読していた。

 

 声は大きいが、少し空回りしている。感情を込めようとして、技術がまだ追いついていない。

 

 だが、目だけが違った。

 

 本気の目だった。

 

 台本の文字を追う目が、他の子供と根本的に違う。「親に言われたから来た」子供の目ではない。自分でここに来たかった子供の目だ。

 

 前歯が一本、抜けかけている。笑うと、その隙間が見える。

 

 前世の記憶を探った。

 

 この子の顔が、どこにもない。

 

 名前も、経歴も、後に何者になるのかも——前世の私の記憶に、この少女は存在しない。

 

 完全な空白。

 

 前世の地図に載っていない人間は、私には予測できない。この子の未来を、私は知らない。

 

 目を逸らした。今は考えるな。

 

「三十番、一ノ瀬雫さん。準備してください」

 

 スタッフの声。

 

 母が私の髪を最後にもう一度整え、肩を強く握った。

 

「いい? 笑顔よ。社長の目を見て、はっきり話すの」

 

「うん」

 

 椅子から降りた。

 

 足が床についた瞬間、全身に電流のようなものが走った。

 

 恐怖ではない。心拍が上がる。手のひらが熱くなる。視界が鮮明になる。

 

 役者の身体が本番を前にして自動的に臨戦態勢に入る。壊れるまで使い込まれる前から、この回路はあった。

 

 扉の前で、スタッフが私の名前を確認した。深く息を吸った。扉を開けた。

 

 

 審査室は、思ったより狭かった。

 

 長机の向こうに五人の大人が座っている。逆光で表情は読みにくいが、シルエットの輪郭と体格で全員の位置を把握する。

 

 中央。恰幅の良い男性。神崎宗一郎。

 

 サンライト・プロモーション創業者、現社長。前世で私を「百年に一人の逸材」と持ち上げ、壊れかけた時に「代わりはいくらでもいる」と吐き捨てた男。

 

「エントリーナンバー三十番、一ノ瀬雫さんですね」

 

「はい。いちのせ、しずくです。ななさいです」

 

 意識して、少しだけ上ずらせた。完璧に作り込むのではなく、ほんの少し不安定さを残す。審査員はプロだ。完璧すぎる子供は、逆に警戒される。

 

「好きな食べ物は何かな?」

 

 前世では「ケーキ」と答えた。ありきたりで、印象に残らない回答。

 

 だが私には一つ、前世にはなかった情報がある。

 

 デビュー三年目の打ち上げで、酔った神崎が隣のプロデューサーにこう漏らしていた。「苺が好きって言う子はね、素直なんだよ。昔からそう決めてる」。

 

「いちごが、すきです」

 

 にっこりと笑った。

 

 神崎の目が、一瞬だけ光った。書類から顔を上げ、私を見た。百人のうちの「一人」から「少し気になる一人」に格上げされたのがわかった。

 

「お休みの日は何をしていますか?」

 

「お母さんとお買い物にいきます」

 

 答えた瞬間——右端の女性審査員の眉が、微かに寄った。一瞬で消えたが、確かに見えた。「面接対策本通りの回答」として読まれた。

 

「お母さんと一緒にいるの、好きなんだね」

 

 進行役がフォローするように聞いてきた。

 

「はい。お母さんがえらんだ服を着るのが、すきです」

 

 即興だ。前世知識ではない。七歳の語彙で、この場で絞り出した言葉。

 

 右端の女性審査員の眉が——今度は緩んだ。

 

 

「では、雫ちゃん。少し難しいことをお願いしてもいいかな?」

 

 進行役の女性が、一枚の紙を手渡した。

 

 A4用紙。数行のセリフ。

 

 ——ママ、いかないで。わたし、いいこにしてるから。ひとりにしないで。

 

 前世と、同じ課題だった。

 

 一度目の人生でも、この三行を渡された。あの時の私は言葉の意味など本当にはわかっていなかった。ただ「ここで泣けばお母さんが喜ぶ」という直感で涙を絞り出し、「感情表現の天才」というレッテルを貼られた。

 

 今は違う。

 

 二十五年分の孤独が、三行の活字を見た瞬間に、胸の底から立ち上がってきた。

 

 このまま出すか——と考えた。

 

 やめた。

 

 重すぎる。七歳の少女が持つには異質な絶望だ。審査員が求めているのは「健気な涙」であって、もっと深いものではない。

 

 目を閉じた。

 

 本物の感情のボリュームを絞る。悲壮感を薄め、幼い依存心と不安を前面に出す。涙は一筋か二筋。溢れさせない。

 

 自分の心を切り刻んで、形を整える作業。

 

「……はい。できます」

 

 顔を上げた時、目には計算された量の涙が溜まっていた。

 

 目の前の空中に、架空の「ママ」を作り出した。私を無条件に愛し、決して見捨てない、理想の母親。一度も出会えなかった幻影。その幻影が、私を置いて去ろうとしている。

 

「……ママ」

 

 最初の一声。震え、掠れ、今にも壊れそうな声。

 

「いかないで……」

 

 涙が、頬を伝った。右目から一筋。少し遅れて、左目から一筋。

 

「わたし、いいこにしてるから……! おねがい、ひとりにしないで……っ」

 

 最後の一語で、声が割れた。嗚咽を漏らしながら、膝を床につく。

 

 静寂が落ちた。

 

「……素晴らしい」

 

 神崎の声が、静寂を破った。

 

「君は本物だね、一ノ瀬雫ちゃん」

 

 本物。違う。全部計算だ。

 

 だが代わりに、涙に濡れた顔で少しだけはにかんだ。

 

「……ありがとう、ございます」

 

 

 立ち上がろうとした脚が、途中で力を失った。

 

 床に両手をついた。

 

「雫ちゃん? 大丈夫?」

 

 全身が重い。さっきまでの覚醒が嘘のように消え去り、鉛を流し込まれたような倦怠感が四肢に広がっている。

 

 代償が来た。

 

 本物の感情を引き出して加工した。その深さが、七歳の神経系の許容量を超えた。深い感情ほど、代償が重い。

 

「だ、だいじょうぶです……。あしが、しびれちゃって……」

 

 スタッフが腕を支えてくれた。立ち上がる。膝はまだ震えているが、体重を支えることはできる。

 

 ドアに向かう。

 

 その時——長机の左端に視線が滑った。

 

 今日、一度も声を発していなかった男。四十代くらい。痩せ型で、グレーのスーツ。

 

 男は手元のノートを開いていた。

 

 膝が折れたその瞬間にだけ、開いた。

 

 前世の記憶に、あのノートはない。

 

 ドアを開けて、廊下に出た。

 

 

 廊下を歩いていると、前方から一人の少女が歩いてきた。

 

 ピンクのヘアピン。丸い頬。前歯の隙間。

 

 台本を音読していた、あの子だった。これから審査室に入るところだ。

 

 少女は私の前を通りかかり、ふと足を止めた。

 

 目が合った。

 

 少女は二秒ほど私を見た。それから——まっすぐな声で、言った。

 

「ねえ」

 

「……うん」

 

「緊張した?」

 

 怖かったのかもしれない。だから聞いた。同じ場所に来た人間に。

 

「……少し」

 

 少女は頷いた。小さく。

 

 それから、ピンクのヘアピンを揺らして、審査室へ向かって歩いていった。

 

 

 審査室のドアが閉まった。

 

 廊下に、一人残された。

 

 膝がまだ微かに震えている。両手が冷たい。

 

「緊張した?」

 

 八歳の少女が、見知らぬ私に、それを聞いた。

 

 前世の私には——あんな声で話しかけてくれる人間が、いなかった。

 

 一度も。

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