血を吐く天才子役は、完璧な嘘で大人を殺す 〜25歳で壊された元・国民的妹、7歳の身体で芸能界の闇を喰い尽くす〜 作:アホ面オムライス
合格の電話は、三日後の夕方に鳴った。
私はリビングのソファで、算数ドリルを広げていた。
二桁の足し算。七歳が解くには簡単すぎる問題を、わざと二問間違えて消しゴムで消した跡を残してある。ノートの端には下手くそなうさぎの落書き。
子供の痕跡を、自分で捏造する。
この作業にも、少しずつ慣れてきた。
*
固定電話が鳴った瞬間、台所にいた母が包丁を置く音がした。
まな板の上には、切りかけのキャベツ。
母が受話器を取る。
「はい、一ノ瀬でございます」
声が、最初から上ずっていた。
この三日間、電話が鳴るたびに同じ声だった。宅配便の不在票でも、セールスの営業でも、受話器を取る瞬間だけは全身を緊張させて「一ノ瀬でございます」と応じていた。
「ええ……ええ……! 本当ですか!?」
母の声が裏返った。
合格だ。確信していた。
だが実際に母の声を聞くと、胸の底で何かが重くなった。
歯車が、音を立てて噛み合い始める感覚。
「ありがとうございます、ありがとうございます……!」
母が何度も頭を下げている。電話の相手には見えないのに。
*
電話が切れた。母が振り返った。目が赤い。泣いていた。
「雫! 合格よ! 特待生!」
母が走ってきて、私を抱き上げた。七歳の体は軽い。母の腕の中で、足が宙に浮いた。
「よかったね、お母さん」
その言葉が口をついて出た。
「よかったね、雫」ではなく「よかったね、お母さん」。
前世でも同じことを言った。七歳の口が自動的にそう動く。
母は私をソファに降ろすと、すぐにガラケーを開いた。
「もしもし、佐和子? 聞いて、うちの雫が……」
台所から、油の跳ねる音がした。
母がコロッケを揚げる準備をしていたのだ。油だけが熱されて、水滴で弾けている。
私はソファを降り、台所に行って火を止めた。油面の揺らぎ方で、二百度近くに達していたことがわかる。あと数分で危なかった。
母はこちらを見ていない。
コンロの火を消した指先を見た。小さい。爪が丸い。
*
翌日。
母が「お祝いに買い物に行こう」と言い出した。
連れて行かれたのは、駅前のデパートだった。
子供服売り場。母は棚を物色しながら、値札をちらちらと確認している。千円台のものばかり触っていたが、視線は五千円以上の棚に向いている。
母は、五千八百円のピンクのワンピースを手に取った。フリルがついている。レッスンには向かない。
だが母はそれを私の体に当てて、鏡の前に立たせた。
「可愛い。うん、これにしましょう」
*
試着室に入った。
カーテンを引き、二人きりの狭い空間。
母は私にワンピースを着せながら、鏡に映る私の髪を、指先で整え始めた。
不器用だった。前髪のラインが揃わない。それでも、何度も何度も、同じ一房の髪を直そうとしていた。
「あんたが受かって、本当によかった」
母が呟いた。小さな声だった。カーテンの向こうには届かないくらいの。
私は鏡越しに母の顔を見た。
さっきまで値札を気にしていた目とは、違う目をしていた。眉間の皺が消え、口元が微かに緩んでいる。
七歳の身体が反応した。目の奥が熱くなり、鼻の奥がつんとする。
「お母さん……ありがとう」
母は一瞬きょとんとして、照れたように鼻を擦った。
「何よ急に。気持ち悪い」
だが、その声は柔らかかった。
私はワンピースの裾を握りしめた。
この三秒間だけは——本物だったのだと、どこかに記録しておきたかった。
*
家に着いた。母が鍵を開け、先にリビングに入る。
私は玄関で靴を脱ぎながら、リビングから聞こえてくる母の声を聞いた。
ガラケーを開いて、どこかに電話をかけている。
「ええ、特待生の契約金なんですけど、具体的にいくらになりますか? ……ええ。月々のレッスン費用は事務所負担ですよね。で、出演料の取り分は……。えっ、七対三? もう少しなんとか……」
声のトーンが変わっていた。試着室で聞いた、あの柔らかい声はどこにもない。
「娘の口座じゃなくて、私の口座に直接振り込んでいただけると……」
私は靴を揃えて、自分の部屋に向かった。
階段を上がる途中、一度だけ振り返った。
ガラケーを耳に押し当てている母の背中が見えた。
あの試着室の三秒と、今のこの電話。どちらも本物だ。どちらかが嘘なのではない。同時に存在している。
*
自分の部屋に入り、ドアを閉めた。
閉めて——三秒後。
廊下に、足音が聞こえた。
スリッパの音。母の足音。ゆっくりと、階段を上がってくる。
足音が、私のドアの前で止まった。
ドアノブが——かすかに動いた。金属が金属を擦る、小さな音。
ノブが九十度まで回りかけて——止まった。
母は、ドアを開けなかった。
三秒。五秒。
ノブが、静かに元の位置に戻った。足音が遠ざかっていく。階段を降りていく。
私はベッドの縁に座ったまま、閉じたドアを見つめた。
管理者はドアを開ける。母親はノックする。
母はどちらでもなかった。開けようとして、止めた。
*
夕食。
不格好なコロッケと、キャベツの千切り。味噌汁はインスタント。
前世と同じ味だった。
テレビがついている。バラエティ番組。
「雫。レッスンはいつから?」
「来週って言ってた」
「先生、厳しいのかしら」
「わかんない」
母が箸を止めずに答えた。視線はテレビに向いている。
母は、疲れているのだ。朝からオーディションの結果を待ち、合格の電話を受け、デパートで服を買い、帰宅してコロッケを揚げた。その消耗の中での会話だ。
コロッケを一口齧った。衣が厚い。塩辛い。
だが——母の手が作ったものだった。味がする。
*
食事を終えて、食器を流しに運んだ。
母がテレビを消して、ガラケーを手に取った。
また電話をかけている。
だが——声のトーンが違う。
加藤マネージャーへの声は甲高く、少し媚びた声になる。友人への報告ならもっとくだけた口調になる。
今の声は——低く、平坦で、敬語の丁寧さが不自然なほど均一だった。
緊張している声。
「はい。合格しました。——はい。予定通りです」
予定通り。
その二文字が、台所の空気を変えた。
雫がサンライトの特待生に合格することは——誰かにとって最初から「予定」の一部だった。
「はい。……はい、承知しております。今後のスケジュールは——」
相手の指示を聞いている。
母は「報告」しているのではない。「報告して、次の指示を受けている」。
「はい。——はい、雫は元気です。ありがとうございます」
電話が切れた。
「お母さん、誰に電話してたの?」
母が振り返った。
一瞬——ほんの一瞬——母の目に、何かが走った。だがすぐに消えた。
「加藤さんよ。マネージャーの。スケジュールの確認」
声が——低かった。
いつもの母の声より、半音低い。
嘘をつく時に声が低くなるのは、人間の生理的な反応だ。声帯が緊張して、ピッチが下がる。
母は今、嘘をついた。
「そっか。おやすみ、お母さん」
「おやすみ」
階段を上がった。
*
ベッドに座って、天井を見上げた。
「はい。合格しました。——はい。予定通りです」。
母の「予定通り」が、暗闇の中で反響している。
そして今夜もう一つ、わかったことがある。
娘の稼ぎを、娘の口座に入れない。
試着室で私の髪を何度も整えようとしていた指と、今夜ガラケーを握っていた指が、同じ指だった。
怒りが、腹の底でじわりと灯った。
この怒りを、前世では知らなかった。気づく前に、もっと大きな絶望に飲み込まれた。
今は気づいている。
目を閉じた。
ドアノブが、静かに元の位置に戻った音が、まだ耳の奥に残っていた。
母は——開けようとして、止めた。
管理者でも、母親でもない、どちらでもない動き。
その「止めた」だけが、今夜の中で名前をつけることができない何かだった。
明日から、歯車が回り始める。
だが今夜は——その「止めた」だけを、胸の中に置いておく。