血を吐く天才子役は、完璧な嘘で大人を殺す 〜25歳で壊された元・国民的妹、7歳の身体で芸能界の闇を喰い尽くす〜   作:アホ面オムライス

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第3話 合格の夜

 合格の電話は、三日後の夕方に鳴った。

 

 私はリビングのソファで、算数ドリルを広げていた。

 

 二桁の足し算。七歳が解くには簡単すぎる問題を、わざと二問間違えて消しゴムで消した跡を残してある。ノートの端には下手くそなうさぎの落書き。

 

 子供の痕跡を、自分で捏造する。

 

 この作業にも、少しずつ慣れてきた。

 

 

 固定電話が鳴った瞬間、台所にいた母が包丁を置く音がした。

 

 まな板の上には、切りかけのキャベツ。

 

 母が受話器を取る。

 

「はい、一ノ瀬でございます」

 

 声が、最初から上ずっていた。

 

 この三日間、電話が鳴るたびに同じ声だった。宅配便の不在票でも、セールスの営業でも、受話器を取る瞬間だけは全身を緊張させて「一ノ瀬でございます」と応じていた。

 

「ええ……ええ……! 本当ですか!?」

 

 母の声が裏返った。

 

 合格だ。確信していた。

 

 だが実際に母の声を聞くと、胸の底で何かが重くなった。

 

 歯車が、音を立てて噛み合い始める感覚。

 

「ありがとうございます、ありがとうございます……!」

 

 母が何度も頭を下げている。電話の相手には見えないのに。

 

 

 電話が切れた。母が振り返った。目が赤い。泣いていた。

 

「雫! 合格よ! 特待生!」

 

 母が走ってきて、私を抱き上げた。七歳の体は軽い。母の腕の中で、足が宙に浮いた。

 

「よかったね、お母さん」

 

 その言葉が口をついて出た。

 

「よかったね、雫」ではなく「よかったね、お母さん」。

 

 前世でも同じことを言った。七歳の口が自動的にそう動く。

 

 母は私をソファに降ろすと、すぐにガラケーを開いた。

 

「もしもし、佐和子? 聞いて、うちの雫が……」

 

 台所から、油の跳ねる音がした。

 

 母がコロッケを揚げる準備をしていたのだ。油だけが熱されて、水滴で弾けている。

 

 私はソファを降り、台所に行って火を止めた。油面の揺らぎ方で、二百度近くに達していたことがわかる。あと数分で危なかった。

 

 母はこちらを見ていない。

 

 コンロの火を消した指先を見た。小さい。爪が丸い。

 

 

 翌日。

 

 母が「お祝いに買い物に行こう」と言い出した。

 

 連れて行かれたのは、駅前のデパートだった。

 

 子供服売り場。母は棚を物色しながら、値札をちらちらと確認している。千円台のものばかり触っていたが、視線は五千円以上の棚に向いている。

 

 母は、五千八百円のピンクのワンピースを手に取った。フリルがついている。レッスンには向かない。

 

 だが母はそれを私の体に当てて、鏡の前に立たせた。

 

「可愛い。うん、これにしましょう」

 

 

 試着室に入った。

 

 カーテンを引き、二人きりの狭い空間。

 

 母は私にワンピースを着せながら、鏡に映る私の髪を、指先で整え始めた。

 

 不器用だった。前髪のラインが揃わない。それでも、何度も何度も、同じ一房の髪を直そうとしていた。

 

「あんたが受かって、本当によかった」

 

 母が呟いた。小さな声だった。カーテンの向こうには届かないくらいの。

 

 私は鏡越しに母の顔を見た。

 

 さっきまで値札を気にしていた目とは、違う目をしていた。眉間の皺が消え、口元が微かに緩んでいる。

 

 七歳の身体が反応した。目の奥が熱くなり、鼻の奥がつんとする。

 

「お母さん……ありがとう」

 

 母は一瞬きょとんとして、照れたように鼻を擦った。

 

「何よ急に。気持ち悪い」

 

 だが、その声は柔らかかった。

 

 私はワンピースの裾を握りしめた。

 

 この三秒間だけは——本物だったのだと、どこかに記録しておきたかった。

 

 

 家に着いた。母が鍵を開け、先にリビングに入る。

 

 私は玄関で靴を脱ぎながら、リビングから聞こえてくる母の声を聞いた。

 

 ガラケーを開いて、どこかに電話をかけている。

 

「ええ、特待生の契約金なんですけど、具体的にいくらになりますか? ……ええ。月々のレッスン費用は事務所負担ですよね。で、出演料の取り分は……。えっ、七対三? もう少しなんとか……」

 

 声のトーンが変わっていた。試着室で聞いた、あの柔らかい声はどこにもない。

 

「娘の口座じゃなくて、私の口座に直接振り込んでいただけると……」

 

 私は靴を揃えて、自分の部屋に向かった。

 

 階段を上がる途中、一度だけ振り返った。

 

 ガラケーを耳に押し当てている母の背中が見えた。

 

 あの試着室の三秒と、今のこの電話。どちらも本物だ。どちらかが嘘なのではない。同時に存在している。

 

 

 自分の部屋に入り、ドアを閉めた。

 

 閉めて——三秒後。

 

 廊下に、足音が聞こえた。

 

 スリッパの音。母の足音。ゆっくりと、階段を上がってくる。

 

 足音が、私のドアの前で止まった。

 

 ドアノブが——かすかに動いた。金属が金属を擦る、小さな音。

 

 ノブが九十度まで回りかけて——止まった。

 

 母は、ドアを開けなかった。

 

 三秒。五秒。

 

 ノブが、静かに元の位置に戻った。足音が遠ざかっていく。階段を降りていく。

 

 私はベッドの縁に座ったまま、閉じたドアを見つめた。

 

 管理者はドアを開ける。母親はノックする。

 

 母はどちらでもなかった。開けようとして、止めた。

 

 

 夕食。

 

 不格好なコロッケと、キャベツの千切り。味噌汁はインスタント。

 

 前世と同じ味だった。

 

 テレビがついている。バラエティ番組。

 

「雫。レッスンはいつから?」

 

「来週って言ってた」

 

「先生、厳しいのかしら」

 

「わかんない」

 

 母が箸を止めずに答えた。視線はテレビに向いている。

 

 母は、疲れているのだ。朝からオーディションの結果を待ち、合格の電話を受け、デパートで服を買い、帰宅してコロッケを揚げた。その消耗の中での会話だ。

 

 コロッケを一口齧った。衣が厚い。塩辛い。

 

 だが——母の手が作ったものだった。味がする。

 

 

 食事を終えて、食器を流しに運んだ。

 

 母がテレビを消して、ガラケーを手に取った。

 

 また電話をかけている。

 

 だが——声のトーンが違う。

 

 加藤マネージャーへの声は甲高く、少し媚びた声になる。友人への報告ならもっとくだけた口調になる。

 

 今の声は——低く、平坦で、敬語の丁寧さが不自然なほど均一だった。

 

 緊張している声。

 

「はい。合格しました。——はい。予定通りです」

 

 予定通り。

 

 その二文字が、台所の空気を変えた。

 

 雫がサンライトの特待生に合格することは——誰かにとって最初から「予定」の一部だった。

 

「はい。……はい、承知しております。今後のスケジュールは——」

 

 相手の指示を聞いている。

 

 母は「報告」しているのではない。「報告して、次の指示を受けている」。

 

「はい。——はい、雫は元気です。ありがとうございます」

 

 電話が切れた。

 

「お母さん、誰に電話してたの?」

 

 母が振り返った。

 

 一瞬——ほんの一瞬——母の目に、何かが走った。だがすぐに消えた。

 

「加藤さんよ。マネージャーの。スケジュールの確認」

 

 声が——低かった。

 

 いつもの母の声より、半音低い。

 

 嘘をつく時に声が低くなるのは、人間の生理的な反応だ。声帯が緊張して、ピッチが下がる。

 

 母は今、嘘をついた。

 

「そっか。おやすみ、お母さん」

 

「おやすみ」

 

 階段を上がった。

 

 

 ベッドに座って、天井を見上げた。

 

「はい。合格しました。——はい。予定通りです」。

 

 母の「予定通り」が、暗闇の中で反響している。

 

 そして今夜もう一つ、わかったことがある。

 

 娘の稼ぎを、娘の口座に入れない。

 

 試着室で私の髪を何度も整えようとしていた指と、今夜ガラケーを握っていた指が、同じ指だった。

 

 怒りが、腹の底でじわりと灯った。

 

 この怒りを、前世では知らなかった。気づく前に、もっと大きな絶望に飲み込まれた。

 

 今は気づいている。

 

 目を閉じた。

 

 ドアノブが、静かに元の位置に戻った音が、まだ耳の奥に残っていた。

 

 母は——開けようとして、止めた。

 

 管理者でも、母親でもない、どちらでもない動き。

 

 その「止めた」だけが、今夜の中で名前をつけることができない何かだった。

 

 明日から、歯車が回り始める。

 

 だが今夜は——その「止めた」だけを、胸の中に置いておく。

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