血を吐く天才子役は、完璧な嘘で大人を殺す 〜25歳で壊された元・国民的妹、7歳の身体で芸能界の闇を喰い尽くす〜 作:アホ面オムライス
三月の山は、まだ凍てつく冬の死骸の中だった。
ロケバスを降りた瞬間、刃物のような風が頬を叩いた。吐く息は白く濁り、鼻の奥がツンと割れるように痛む。
私はペラペラの薄いワンピース一枚という無防備な衣装で、スタッフに促されるまま撮影ポイントへ歩かされた。
足元の土が重く湿っている。昨夜の冷たい雨が残っていて、新品の白い革靴が、一歩踏み出すごとにどろどろに汚れていく。
飲料メーカーのCM。母とはぐれた哀れな少女が、森の中を彷徨い歩き、湧き水で喉を潤す。
ディレクターズチェアに、ふんぞり返って座っている男が見えた。
成瀬謙一。映像美で知られる巨匠。そして、子役に「真実の感情」という名の臓腑を異常なまでに要求するサディスト。
前世で、私はこの男の現場で初めて、自分の心が取り返しのつかない音を立てて砕け散るのを聞いた。
「おはようございます。一ノ瀬雫です。よろしくお願いします」
成瀬は紫色の煙をゆっくりと吐き出し、まるで路傍の石を見るような目でようやく私に目を向けた。
「……君か。神崎のジジイが珍しく入れ込んでると聞いたが」
鼻で笑った。
「人形だな。気味の悪い作り物だ」
前世とまったく同じ言葉。彼は最初に存在を全否定することで相手の足元を崩し、その不安と恐怖を燃料にして感情を引きずり出す。
「すみません。がんばります」
微塵も感情の乗らない、平坦な声で答えた。
成瀬は一瞬だけ忌々しそうに私を見つめ、モニターへ目を戻した。
「頑張らなくていい。俺が欲しいのは、君の安っぽい努力じゃない。君の、血の滴るような剥き出しの心だ」
*
撮影が始まった。
ワンピース一枚で、氷のように冷たい土の上に立たされた。
一回目。七十点の演技。「カット。もう一回」。
二回目。六十五点に落とした。
「カット。——違うな。一ノ瀬。君のそれは、ただの小賢しい真似事だ」
スタッフがバケツを持って無表情に近づいてきた。
泥水が、ワンピースの裾と両腕に無慈悲にぶちまけられた。
「ひ——っ」
喉から漏れたのは、演技ではない本物の悲鳴だった。
皮膚の感覚が一瞬で消え失せ、筋肉の深部がちぎれるように収縮する激痛が走った。
成瀬が、私の母の方を見た。
「お母さん。ちょっと来てくれますか」
母が小走りに駆け寄ってきた。成瀬が母に耳打ちする。母は一瞬、怯えたように眉をひそめた。
母が私に向かって歩いてきた。一歩ずつ、泥の地面を確かめるように。
母が私の前に立った。
「雫」
ひどく低い、地を這うような声だった。
「あんた、このままだったら、お母さん、あんたをここに置いて帰るからね」
成瀬の指示通りの言葉だろう。
だが次の言葉は——
「お父さんみたいに、あんたも私を捨てるんでしょ」
母の目が、狂ったように泳いだ。
成瀬の指示にはなかった言葉。母の内側の、膿み爛れた傷口からドロリと溢れ出てしまった本音。
次の瞬間が、前世と致命的に違った。
母の震えが止まらなくなった。唇が血の気を失って引き結ばれ、目の焦点が——私の顔を通り越し、虚無の空間へ飛んだ。
母は、自分が口走った言葉の刃に怯えていた。演技の起爆剤として使ったはずの言葉が、自分自身の本物のトラウマを抉ってしまったのだ。
そして母は、背を向けたのだ。
私に背を向けて、逃げるように数歩離れた。肩がみすぼらしく丸まっている。
「スタート!」
成瀬の無機質な声が遠くから聞こえた。
*
私は歩いた。
泥水を吸って鉛のように重くなったワンピースが、足にまとわりつく。靴の中に氷水が染み込み、足の指の感覚はとうに壊死している。
だが頭の中は、逃げるように背を向けた母の姿でいっぱいだった。
計算していたのだ。母の暴言を受けて、二十五年分の孤独な絶望を、七歳向けに加工して出力するはずだった。
だが、あの背中がすべての計算を狂わせた。
自分で自分を傷つけ、血を流している哀れな人間の背中。それを見た瞬間、感情の制御フィルターが弾け飛んだ。
湧き水の場所に辿り着いた。泥の中に力なく膝を突いた。震える手を伸ばし、凍てつく水を掬った。
冷たい。骨髄まで凍りつき、歯が砕けそうに痛む。
飲んだ。
そして、吸い寄せられるようにカメラを見た。自分でも意図していなかった。
水を飲んで、渇きを癒やして、また生き延びてしまった。
ようやく休めると思ったのに。またこの地獄を歩き続けなければならないのか。
そんな真っ黒な絶望が、顔面に張り付いた。
森が、水を打ったように静まり返っていた。
*
「……カット」
成瀬の声が、微かに掠れていた。永遠にも似た五秒の沈黙。
私は立ち上がれなかった。
全身の感覚が、分厚い膜で覆われたようになっている。泥に突いた膝が痛いはずなのに、その痛みがひどく遠い。
「いい顔だった。だが——最後の目。あれは綺麗すぎる」
成瀬がしゃがみ込み、私の目の高さに顔を合わせた。きつい煙草の匂いが鼻を突く。
「本当の子供は、絶対にあんな目をしない。水を飲んで、生き延びたことに絶望する子供なんていない。あの目は、水を飲むことの本当の"意味"を知っている、業の深い人間の目だ」
成瀬の濁った双眸が、私の瞳のずっと奥の暗闇を、覗き込んでいる。
「OKだ。使う。ただし——次にあのバケモノみたいな目を見せたら、俺は二度と使わない」
スタッフが駆け寄ってきて、腕を支えてくれた。立ち上がる。
「雫! やったわね!」
母が走ってきた。バスタオルを私の肩に乱暴にかけて包み込む。
「……早く温まりなさい」
機材の撤収が慌ただしく始まっていた。
私はバスタオルに包まったまま、ロケバスの冷たい座席で目を閉じていた。
全身を覆う膜越し感が、いっこうに消えない。自分が生きているのか死んでいるのかすら曖昧だ。
*
ふと、粘り気のある視線を感じた。
重い目を開けると、ロケバスの窓の外に一人の少年が立っていた。
十か十一歳くらい。子役特有の「大人に媚びるように作られた可愛らしさ」が抜け落ち、少年らしい鋭さと、どこか飢えた野犬のような顔立ち。
少年は撤収作業の喧騒の中で、一人だけぽつんと立ち尽くし、静かにこちらを見ていた。
その目に賞賛は微塵もなかった。好奇心すらなかった。そこにあったのは——同じ地獄の釜の中で焼かれている同類を見つけた時の、名前のつかない暗い感情。
ロケバスが動き出した。
少年の姿が窓枠の外へ無言で流れていく直前——袖がめくれた。
左手首が見えた。
黄色みがかった、治りかけの痣。
少年の姿が、窓の外に消えた。
*
バスが薄暗いサービスエリアに停車した。
母がトイレに立った。
一人になった——と思ったら、なっていなかった。
中列の席から、あの少年が振り返ってこちらを見ていた。
少年は断りもなくシートの背もたれを乗り越えて、最後列の通路側に腰を下ろした。
座ってから聞く。
「隣、いい?」
「……別に」
目を閉じたまま答えた。
少年は足を組んだ。サイズの合っていないスニーカーが座席の端からはみ出している。つま先が擦り切れていた。
「さっきの芝居、見てたよ」
「……そう」
「監督もOK出してたね。——でも最後になんか言ってなかった?」
薄く目を開けた。
鋭い目だった。攻撃的ではない。観察者の鋭さ。自分の周囲で何が起きているかを常に把握していないと不安な人間の目。
「何て言われたの」
「別に。OKだって」
「嘘。あの監督、OKの後に何か言ってた。声は聞こえなかったけど、あんたの顔が変わったから」
十五メートル先の人間の「顔が変わった」のを見抜く。
「……綺麗すぎるって」
「綺麗すぎる」
「うん。最後の目が、子供の目じゃないって」
少年が三秒ほど窓の外を見た。
サービスエリアの駐車場。家族連れが自販機の前に並んでいる。父親が息子を肩車していた。母親がその写真を撮っていた。
少年の喉仏が動いた。小さく唾を飲み込んだ。
それから何事もなかったように視線を戻した。
「ふうん」
少年がこちらを向いた。
「僕、三歳からこの仕事やってるんだ。ギャラは全部親が管理してる。仕事の数が成績みたいなもんで、減ると怒られる」
あっさりとした声だった。事実を並べているだけの口調。
「あんた、名前は」
「瀬戸蓮」
蓮。前世の記憶を探った。
どこにもない。
「瀬戸くんは、将来どうしたいの」
蓮は少し間を置いた。
「十八になったら、全部やめる」
それだけ言った。続きは言わなかった。
サービスエリアのドアが開き、母が戻ってきた。コンビニの袋を下げている。
「雫、お腹空いたでしょ。はい——あら、誰?」
「瀬戸蓮です。このCMに出てます」
蓮が礼儀正しく頭を下げた。声のトーンが変わっていた。素の声から「大人の前で使う子役の声」に、一瞬で切り替えている。
母は蓮に一瞬だけ視線を向けたが、すぐに興味を失った。
蓮は席を立ち、中列に戻った。
「じゃあね」
振り返った。
「次も生き残ってたら、また話そう」
*
母が肉まんを渡してきた。
一口かじった。豚肉と玉ねぎの単純な味。
味がした。
さっきまで分厚い膜越しだった感覚が、ほんの少しだけ戻っている。
バスが夜の高速道路に入った。母は疲れ果てて目を閉じていた。
不意に、母のコートのポケットの中で、ガラケーが青白く光った。
メールの着信。母は眠りに落ちていて気づいていない。
画面が一瞬だけ点灯した。差出人の名前は角度的に読めなかった。
だが件名が——一行だけ、脳裏に焼き付いた。
『本日の撮影について』。
今日が——四回目だ。
窓の外を流れる黒い電線を見ながら、蓮の手首の痣を考えた。
黄色みがかった、治りかけの色。
次に会えたら——手首を見る。
同じ色なら、蓮は生き延びている。