血を吐く天才子役は、完璧な嘘で大人を殺す 〜25歳で壊された元・国民的妹、7歳の身体で芸能界の闇を喰い尽くす〜   作:アホ面オムライス

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第5話 代償の法則

 自宅に着いたのは午後七時過ぎだった。

 

 母は着替えもせずにリビングのテレビをつけた。録画していたワイドショーを早送りで確認している。

 

 私は自分の部屋に上がり、ドアを閉めた。

 

 ベッドに座って、右手の薬指と小指を動かした。

 

 まだ鈍い。毛布の繊維に触れると、左手との差がわかる。薬指と小指だけ、布の凹凸が薄い。まるで薄い手袋を一枚はめたまま触っているような感触。

 

 バスの中で「味がした」と思った。あの感覚は本物だったはずだ。

 

 だが指先は、まだ戻っていない。

 

 

 横になった。

 

 天井を見た。薄いピンクの壁紙。蜘蛛の巣の張った隅。

 

 オーディションの後は、膝だった。

 

 廊下に出た瞬間、膝の力が抜けた。壁に手をついて、一時間ほどで歩けるようになった。

 

 今日は——全身だ。

 

 膝だけが折れたのではなく、全身の感覚が膜越しになった。バスの中でずっと、自分の輪郭が曖昧なままだった。

 

 形が違う。

 

 何が違ったのか。

 

 オーディションでは——二十五年分の絶望を、七歳の悲しみに「変換」した。加工した。形を整えた感情を出力した。

 

 今日は——あの背中を見た瞬間に、変換できなかった。加工できなかった。計算が崩れて、そのまま出た。

 

 加工した感情と、加工できなかった感情。代償の形が違ったのは、そこが違ったからだ。

 

 右手の薬指を、もう一度動かした。

 

 少しだけ——戻っている。

 

 少しずつ、戻っている。

 

 

 今日、何が起きたのかを、もう一度最初から辿った。

 

 成瀬の現場。泥水。母の声。

 

 「お父さんみたいに、あんたも私を捨てるんでしょ」。

 

 あの台詞が口から出た瞬間、母は自分の言葉に傷ついた。成瀬に指示された「子供を追い詰める言葉」を使ったつもりだったのに、それが自分自身の傷口を抉った。

 

 母は背を向けた。

 

 逃げた。

 

 前世の母は、あの言葉を乾いた声で言い切った。今世の母は、自分の言葉で血を流した。

 

 その差が——計算を崩した。

 

 前世の母は「管理者」だった。感情を持たない歯車だった。だから対処できた。

 

 今世の母は、歯車であることに気づいていない人間だ。傷つくことができる人間だ。

 

 傷つく人間を、計算の中に収めることができなかった。

 

 天井を見つめながら、その事実を確認した。

 

 怒りではない。悲しみでもない。

 

 ただ——わかった、という感覚だけがある。

 

 この身体はまだ、傷ついた人間の背中に反応する。二十五年分の経験を持っていても、七歳の神経は、そこだけは別の回路で動いている。

 

 それは弱点かもしれない。

 

 あるいは——まだ、私の中に何かが残っている証明かもしれない。

 

 どちらかは、まだわからない。

 

 

 リビングから、母のガラケーの着信音が聞こえた。

 

 母が出た。声がすぐに低くなった。

 

「はい。……はい、雫は元気です。ありがとうございます」

 

 「元気です」。

 

 今夜、それは半分嘘だ。右手の薬指と小指がまだ戻っていない。

 

 だが母は知らない。あるいは——知っていても、この電話の相手に正確に報告するだろうか。

 

 電話が切れた。しばらくして、母の足音が階段を上がってきた。

 

 廊下。私のドアの前で止まった。

 

 ノックがあった。

 

「雫、入るよ」

 

「うん」

 

 ドアが開いた。母がトレーを持っていた。温かいミルクと、小さな皿に乗った苺が二粒。

 

 苺。

 

 オーディションで「苺が好き」と答えた。母はその答えを聞いていた。今夜、それを買ってきた。

 

「撮影、疲れたでしょ。飲みなさい」

 

 差し出されたミルクを受け取った。

 

 温かかった。手のひらに伝わる熱が、鈍くなっていた右手の指先まで届く気がした。

 

 苺を一粒口に入れた。

 

 甘い。

 

「お母さん」

 

「何」

 

「今日の撮影、うまくいったよ」

 

「そう。——よかった」

 

 母の声は素っ気なかった。だが部屋を出て行かなかった。トレーをサイドテーブルに置いて、ベッドの端に腰を下ろした。

 

 テレビの録画を確認しに戻るかと思っていた。

 

 母と私は、温かいミルクと苺の前で、しばらく無言でいた。

 

 部屋に二人の呼吸音だけが漂っている。

 

 今日、あの背中に計算を崩された。

 

 その同じ背中が、今、私のベッドの端に座っている。

 

 前世では、この距離で母と二人でいたことがあっただろうか。

 

 あったかもしれない。だが記憶にない。記憶に残るほど、この距離は珍しかったということだ。

 

「……お母さん」

 

「何よ」

 

「電話、誰にしてたの」

 

 一拍の間があった。

 

「加藤さん。マネージャーの」

 

 声が——低かった。

 

 今夜も嘘だ。

 

 それ以上は聞かなかった。

 

 母は結局、何も言わなかった。ただそこにいた。やがて立ち上がり、「早く寝なさい」とだけ言って出て行った。

 

 

 一人になった。

 

 苺が一粒、まだ皿に残っていた。

 

 ガラケーを手に取った。着信履歴に登録されていない番号が一件。今日の夕方。現場で番号を交換した蓮からだ。

 

 折り返した。

 

 三回のコールで出た。

 

「……もしもし」

 

 くぐもった声だった。どこかに隠れて電話に出ている。

 

「今、大丈夫?」

 

「うん。——風呂場」

 

「今日、手首、見た」

 

 少し間があった。

 

「ああ」

 

「黄色みがかった色だった。治りかけの」

 

「……見てたのか」

 

「見えた。バスの窓の外で」

 

 蓮は何も言わなかった。否定もしなかった。

 

「次に会った時も同じ色だといい」

 

「同じ色、ね」

 

 蓮の声が、少しだけ変わった。怒りでも照れでもない。何かを確認したような声。

 

「お前さ」

 

「うん」

 

「今日の最後の目。なんだったんだ。監督が何か言ってたろ」

 

「……水を飲んで、また生き延びてしまった、って思ったから」

 

 沈黙が三秒あった。

 

「……本当のことを言うんだな」

 

「嘘をつく理由がない」

 

「そうか」

 

 それきり、蓮は何も聞かなかった。追及しなかった。解釈もしなかった。

 

 蓮が黙っている間、風呂場の換気扇の音が遠くに聞こえた。

 

 蓮の家の、風呂場の換気扇の音。

 

 三歳からこの業界にいる少年の、家の音。

 

「瀬戸くん」

 

「うん」

 

「今夜、怒られた?」

 

 間があった。

 

 二秒。三秒。

 

「なんで」

 

「仕事の数が成績みたいなもんで、減ると怒られるって言ってたから」

 

 蓮は答えなかった。

 

 だが換気扇の音の向こうで、何かが動く気配がした。蓮が姿勢を変えたのかもしれない。あるいは壁に背をつけたのかもしれない。

 

「今日は別に」

 

 それだけだった。

 

「そうか」

 

「お前は」

 

「うん」

 

「今日、代償、あったのか。あの目の後」

 

 聞いてくる。

 

 見ていたのだ。窓の外で、ただ見ていたのではなかった。バスの中で、私が肉まんを一口かじった時の表情も、見ていたのだ。

 

「あった。右手の薬指と小指が、まだ少し鈍い」

 

「治るのか」

 

「治る。オーディションの後の膝より時間がかかってるけど」

 

「オーディションの後も、そういうのがあったのか」

 

「うん。膝が折れた。床に手をついた」

 

 蓮はしばらく黙った。

 

「お前さ」

 

「うん」

 

「七歳か」

 

 いつもの問いだ。だが今夜の声は、バスの中で聞いた時とは少し違う。からかいではない。確かめている。

 

「七歳だよ」

 

「嘘くさいけど」

 

「嘘じゃない」

 

「まあいい」

 

 蓮が息を吐く音がした。

 

「次も生き残ってたら、また話す」

 

 電話が切れた。

 

 

 ガラケーを枕の横に置いた。

 

 天井を見上げた。

 

 蓮について、一つだけ考えた。

 

 蓮は前世の地図にない人間だ。名前も、顔も、どこにもない。前世の私の十八年間に、瀬戸蓮という人間は一度も登場しなかった。

 

 前世で私の隣にいたのは、全員システムの内側の人間だった。管理する側か、管理される側か。どちらかしかいなかった。

 

 蓮はどちらでもない。

 

 今日、蓮は二つのことをした。

 

 十五メートル先から私の顔の変化に気づいた。そして「なんだったんだ」と聞いて、答えを聞いて——それ以上何も言わなかった。

 

 追及しない代わりに、「また話す」と言った。

 

 「次も生き残ってたら」という条件付きで。

 

 その条件が——ただの口癖ではないことを、私は知っている。

 

 黄色みがかった痣。サイズの合っていないスニーカー。仕事が減ると怒られる、という事実。

 

 蓮にとって「生き残る」は比喩ではない。

 

 右手の薬指を動かした。

 

 さっきよりも——確実に戻っている。布の凹凸が、薄い手袋越しではなく、ちゃんと指先に届いている。

 

 加工できなかった感情は、加工した感情より代償が重かった。それはわかった。

 

 次は——加工できるようにする。

 

 苺の残り一粒を口に入れた。

 

 甘い。

 

 今夜は、それだけでいい。

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