血を吐く天才子役は、完璧な嘘で大人を殺す 〜25歳で壊された元・国民的妹、7歳の身体で芸能界の闇を喰い尽くす〜 作:アホ面オムライス
自宅に着いたのは午後七時過ぎだった。
母は着替えもせずにリビングのテレビをつけた。録画していたワイドショーを早送りで確認している。
私は自分の部屋に上がり、ドアを閉めた。
ベッドに座って、右手の薬指と小指を動かした。
まだ鈍い。毛布の繊維に触れると、左手との差がわかる。薬指と小指だけ、布の凹凸が薄い。まるで薄い手袋を一枚はめたまま触っているような感触。
バスの中で「味がした」と思った。あの感覚は本物だったはずだ。
だが指先は、まだ戻っていない。
*
横になった。
天井を見た。薄いピンクの壁紙。蜘蛛の巣の張った隅。
オーディションの後は、膝だった。
廊下に出た瞬間、膝の力が抜けた。壁に手をついて、一時間ほどで歩けるようになった。
今日は——全身だ。
膝だけが折れたのではなく、全身の感覚が膜越しになった。バスの中でずっと、自分の輪郭が曖昧なままだった。
形が違う。
何が違ったのか。
オーディションでは——二十五年分の絶望を、七歳の悲しみに「変換」した。加工した。形を整えた感情を出力した。
今日は——あの背中を見た瞬間に、変換できなかった。加工できなかった。計算が崩れて、そのまま出た。
加工した感情と、加工できなかった感情。代償の形が違ったのは、そこが違ったからだ。
右手の薬指を、もう一度動かした。
少しだけ——戻っている。
少しずつ、戻っている。
*
今日、何が起きたのかを、もう一度最初から辿った。
成瀬の現場。泥水。母の声。
「お父さんみたいに、あんたも私を捨てるんでしょ」。
あの台詞が口から出た瞬間、母は自分の言葉に傷ついた。成瀬に指示された「子供を追い詰める言葉」を使ったつもりだったのに、それが自分自身の傷口を抉った。
母は背を向けた。
逃げた。
前世の母は、あの言葉を乾いた声で言い切った。今世の母は、自分の言葉で血を流した。
その差が——計算を崩した。
前世の母は「管理者」だった。感情を持たない歯車だった。だから対処できた。
今世の母は、歯車であることに気づいていない人間だ。傷つくことができる人間だ。
傷つく人間を、計算の中に収めることができなかった。
天井を見つめながら、その事実を確認した。
怒りではない。悲しみでもない。
ただ——わかった、という感覚だけがある。
この身体はまだ、傷ついた人間の背中に反応する。二十五年分の経験を持っていても、七歳の神経は、そこだけは別の回路で動いている。
それは弱点かもしれない。
あるいは——まだ、私の中に何かが残っている証明かもしれない。
どちらかは、まだわからない。
*
リビングから、母のガラケーの着信音が聞こえた。
母が出た。声がすぐに低くなった。
「はい。……はい、雫は元気です。ありがとうございます」
「元気です」。
今夜、それは半分嘘だ。右手の薬指と小指がまだ戻っていない。
だが母は知らない。あるいは——知っていても、この電話の相手に正確に報告するだろうか。
電話が切れた。しばらくして、母の足音が階段を上がってきた。
廊下。私のドアの前で止まった。
ノックがあった。
「雫、入るよ」
「うん」
ドアが開いた。母がトレーを持っていた。温かいミルクと、小さな皿に乗った苺が二粒。
苺。
オーディションで「苺が好き」と答えた。母はその答えを聞いていた。今夜、それを買ってきた。
「撮影、疲れたでしょ。飲みなさい」
差し出されたミルクを受け取った。
温かかった。手のひらに伝わる熱が、鈍くなっていた右手の指先まで届く気がした。
苺を一粒口に入れた。
甘い。
「お母さん」
「何」
「今日の撮影、うまくいったよ」
「そう。——よかった」
母の声は素っ気なかった。だが部屋を出て行かなかった。トレーをサイドテーブルに置いて、ベッドの端に腰を下ろした。
テレビの録画を確認しに戻るかと思っていた。
母と私は、温かいミルクと苺の前で、しばらく無言でいた。
部屋に二人の呼吸音だけが漂っている。
今日、あの背中に計算を崩された。
その同じ背中が、今、私のベッドの端に座っている。
前世では、この距離で母と二人でいたことがあっただろうか。
あったかもしれない。だが記憶にない。記憶に残るほど、この距離は珍しかったということだ。
「……お母さん」
「何よ」
「電話、誰にしてたの」
一拍の間があった。
「加藤さん。マネージャーの」
声が——低かった。
今夜も嘘だ。
それ以上は聞かなかった。
母は結局、何も言わなかった。ただそこにいた。やがて立ち上がり、「早く寝なさい」とだけ言って出て行った。
*
一人になった。
苺が一粒、まだ皿に残っていた。
ガラケーを手に取った。着信履歴に登録されていない番号が一件。今日の夕方。現場で番号を交換した蓮からだ。
折り返した。
三回のコールで出た。
「……もしもし」
くぐもった声だった。どこかに隠れて電話に出ている。
「今、大丈夫?」
「うん。——風呂場」
「今日、手首、見た」
少し間があった。
「ああ」
「黄色みがかった色だった。治りかけの」
「……見てたのか」
「見えた。バスの窓の外で」
蓮は何も言わなかった。否定もしなかった。
「次に会った時も同じ色だといい」
「同じ色、ね」
蓮の声が、少しだけ変わった。怒りでも照れでもない。何かを確認したような声。
「お前さ」
「うん」
「今日の最後の目。なんだったんだ。監督が何か言ってたろ」
「……水を飲んで、また生き延びてしまった、って思ったから」
沈黙が三秒あった。
「……本当のことを言うんだな」
「嘘をつく理由がない」
「そうか」
それきり、蓮は何も聞かなかった。追及しなかった。解釈もしなかった。
蓮が黙っている間、風呂場の換気扇の音が遠くに聞こえた。
蓮の家の、風呂場の換気扇の音。
三歳からこの業界にいる少年の、家の音。
「瀬戸くん」
「うん」
「今夜、怒られた?」
間があった。
二秒。三秒。
「なんで」
「仕事の数が成績みたいなもんで、減ると怒られるって言ってたから」
蓮は答えなかった。
だが換気扇の音の向こうで、何かが動く気配がした。蓮が姿勢を変えたのかもしれない。あるいは壁に背をつけたのかもしれない。
「今日は別に」
それだけだった。
「そうか」
「お前は」
「うん」
「今日、代償、あったのか。あの目の後」
聞いてくる。
見ていたのだ。窓の外で、ただ見ていたのではなかった。バスの中で、私が肉まんを一口かじった時の表情も、見ていたのだ。
「あった。右手の薬指と小指が、まだ少し鈍い」
「治るのか」
「治る。オーディションの後の膝より時間がかかってるけど」
「オーディションの後も、そういうのがあったのか」
「うん。膝が折れた。床に手をついた」
蓮はしばらく黙った。
「お前さ」
「うん」
「七歳か」
いつもの問いだ。だが今夜の声は、バスの中で聞いた時とは少し違う。からかいではない。確かめている。
「七歳だよ」
「嘘くさいけど」
「嘘じゃない」
「まあいい」
蓮が息を吐く音がした。
「次も生き残ってたら、また話す」
電話が切れた。
*
ガラケーを枕の横に置いた。
天井を見上げた。
蓮について、一つだけ考えた。
蓮は前世の地図にない人間だ。名前も、顔も、どこにもない。前世の私の十八年間に、瀬戸蓮という人間は一度も登場しなかった。
前世で私の隣にいたのは、全員システムの内側の人間だった。管理する側か、管理される側か。どちらかしかいなかった。
蓮はどちらでもない。
今日、蓮は二つのことをした。
十五メートル先から私の顔の変化に気づいた。そして「なんだったんだ」と聞いて、答えを聞いて——それ以上何も言わなかった。
追及しない代わりに、「また話す」と言った。
「次も生き残ってたら」という条件付きで。
その条件が——ただの口癖ではないことを、私は知っている。
黄色みがかった痣。サイズの合っていないスニーカー。仕事が減ると怒られる、という事実。
蓮にとって「生き残る」は比喩ではない。
右手の薬指を動かした。
さっきよりも——確実に戻っている。布の凹凸が、薄い手袋越しではなく、ちゃんと指先に届いている。
加工できなかった感情は、加工した感情より代償が重かった。それはわかった。
次は——加工できるようにする。
苺の残り一粒を口に入れた。
甘い。
今夜は、それだけでいい。