血を吐く天才子役は、完璧な嘘で大人を殺す 〜25歳で壊された元・国民的妹、7歳の身体で芸能界の闇を喰い尽くす〜   作:アホ面オムライス

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第6話 氷室が来た

 四月の第二週。

 

 成瀬監督のCMが放映された。

 

 ゴールデンタイムの番組の合間に、たった三十秒。山の渓流を彷徨う少女が、湧き水を掬って飲む。それだけの映像が、翌日には業界内で話題になっていた。

 

 私はその放映を自宅のテレビで見た。母と二人、リビングのソファに並んで。

 

 画面の中の「一ノ瀬雫」は、思っていたよりずっと小さく、みすぼらしかった。泥で汚れたワンピース。乱れた髪。赤い頬。

 

 だが、湧き水を飲んだ後の一瞬——あの目だけが、三十秒の映像全体を支配していた。

 

 母は画面を見つめたまま、無言だった。

 

「……すごいわね、雫。あんた、こんな顔するのね」

 

 賞賛とも戸惑いともつかないトーン。我が子を見る目ではなかった。自分が産んだ肉の塊が、得体の知れない何かに変わったのを目の当たりにしたような、底知れなさが混じっていた。

 

 

 翌日から、世界が変わった。

 

 加藤マネージャーからの電話が倍になった。サンライトの廊下を歩いていると、すれ違う大人たちの視線が変わっていた。先週まで私の存在に気づかなかった制作部の男が、エレベーターで乗り合わせた時に「例のCMの子だよね」と確認するように言った。一週間前とは別の顔をして。

 

 廊下の空気が変わった日があった。

 

 加藤マネージャーと一緒に歩いていた時のことだ。向かいから神崎社長が歩いてきた。社長は私に気づくと足を緩め、加藤に一言何かを言った。加藤の顔が変わった。緊張ではなく——焦りに近い何かに。

 

 神崎が去った後、加藤は私の顔をちらりと見て、すぐに視線を外した。

 

 何かが動き始めている。

 

 この反響は——橘への報告ルートに直結する。神崎が私を「高く売れる商品」と判断すれば、その情報はただちに上へ流れる。

 

 時間が縮まっている。

 

 

 四月の下旬。

 

 通常のレッスンを終えた午後のことだった。

 

 レッスンスタジオの廊下で、ヒールの音が聞こえた。

 

 規則正しく、一切の感情を排した一定のリズム。床の反響すら計算し尽くしたような歩き方。自分の存在を音で主張しない。

 

 重いドアが開いた。

 

 講師の灰原が振り返り、弾かれたように深く頭を下げた。

 

 傲慢な灰原がレッスン中に他人に頭を下げるなど、初めて見る光景だった。

 

 入ってきたのは、一人の女性だった。

 

 黒いスーツ。ノーカラーの襟。一目でわかる上質な生地。大きな黒縁の眼鏡。髪は後ろで低く束ねてあり、ほつれは一本たりともない。

 

 灰原と二言三言、氷のような声で交わした。

 

 灰原が子供たちに「今日はここまで」と告げて、出て行った。

 

 女性だけが、残った。

 

 残された女性の無機質な視線が、部屋を一巡した。二十人の子供の顔を、一人ずつ確認していく。

 

 その目に温度がなかった。

 

 良いとも悪いとも判断していない。ただ——検品している。出荷前の部品を、ひとつひとつ確かめるように。

 

 そして——私の顔の上で、ピタリと止まった。

 

「一ノ瀬雫さん。少し、お時間をいただけますか」

 

 声に感情の揺らぎが一ミリもなかった。温かくもなく冷たくもない。抑揚が完全に死に絶えている。

 

 二十五歳の記憶が、この声を知っている。

 

 氷室。

 

 前世で、私を橘好みの「完成品」に仕立て上げ、私が壊れて使い物にならなくなった途端、契約解除をゴミを捨てるように処理した女。

 

 前世で氷室に初めて会ったのは、十歳の時だった。

 

 今は七歳。

 

 三年早い。

 

「……はい」

 

 女性は私に名刺を差し出した。厚みのある紙。高級なエンボス加工。

 

「ライツ・コンサルティングの氷室と申します。成瀬監督のCM、拝見しました。あなたの表現技術を、正式にお預かりしたいと考えています」

 

 「お預かり」。

 

 前世の氷室は「管理するお手伝いをしたい」と言った。今世は「お預かり」だ。一段丁寧になっている。

 

「お母様にも、本日中にご連絡いたします」

 

 用件だけを機械のように告げて、氷室は私に背を向けた。

 

 ヒールの音。廊下を遠ざかっていく。

 

 右足、左足、右足——左足の踏み込みが、わずかに遅かった。

 

 来た時にはなかった乱れだ。

 

 

 最初のレッスンの日。

 

 四階の奥まった一室。窓がない。壁は白い石膏ボード。中央にパイプ椅子が二脚と、壁一面に張り付いた巨大な鏡。部屋の隅にノートパソコンが一台。

 

 氷室はすでに待っていた。椅子には座らず、長机の横に墓標のように立っている。

 

「座ってください」

 

 パイプ椅子に座った。七歳の短い足が、冷たい床に届かず宙に浮く。

 

「今日から、あなたの表現技術を正式にお預かりします。まず確認です。あなたは演技が好きですか?」

 

「……好き、です」

 

 半分嘘で、半分は血を吐くような本当だ。

 

「では、やってみましょう。私が指示を出します。その通りに感情を切り替えてください」

 

 氷室が、銀色のストップウォッチを取り出した。

 

「笑ってください」

 

 私は笑った。口角を上げ、目尻を下げ、頬の筋肉を正確な角度で持ち上げた。

 

「泣いてください」

 

 瞬時に切り替えた。口角を下げ、眉間に絶望を刻み、目に薄い涙の膜を張る。

 

「怒ってください」

 

 顎を引き、眼球を見開き、鼻翼をわずかに広げる。

 

「無表情に戻してください」

 

 全ての筋肉の緊張を解除し、死人の顔になる。

 

 氷室は腕を組んだまま、私を細胞レベルで観察していた。

 

 十秒ほどの沈黙。

 

「切り替え速度は七歳としては異常に速い。ですが——笑顔から泣き顔に移行した際、口元に前の感情の残像が〇・一秒残っています。不純です。消してください。もう一度」

 

 恐ろしく正確だった。たった一回のテストで、私の技術の粗を腑分けして見せた。

 

 地獄の反復が始まった。笑え。泣け。怒れ。無に戻れ。

 

 三十分が過ぎた頃、鼻の奥がツンと割れるように痛んだ。

 

 鼻血だった。

 

 右の鼻孔から、ぬるりとした赤い一筋が唇の上を通って、顎先に垂れた。

 

 氷室は——血に染まった私の顔を見た。

 

 一秒。二秒。

 

「ティッシュはそこです」

 

 それだけだった。声のトーンは一ミリも変わらなかった。

 

 子供が血を流しているのに——止めなかった。

 

 無言でティッシュを取り、鼻を押さえた。氷室は記録をつけ続けていた。キーボードを叩く乾いた音が、窓のない密室に響く。

 

 鼻血は三分で止まった。

 

「続けられますか」

 

「はい」

 

「では、次の課題です」

 

 レッスンが再開された。

 

 

 九十分が終わった。

 

 氷室がノートパソコンを閉じた。

 

 立ち上がり、ドアに向かう。

 

 部屋を出る直前——足が止まった。私に背を向けたまま。

 

 三秒の沈黙。

 

「あなたは——優秀な生徒です」

 

 そこで止まった。

 

 続きを、飲み込んだ。

 

 「私が今まで教えた中で」か。

 

 「あの子の次に」か。

 

 どちらかはわからない。

 

 氷室は振り返らなかった。ドアを開けて、出て行った。

 

 ヒールの音が廊下を遠ざかっていく。

 

 今度は——両足、均等だった。

 

 来た時の左足のわずかな乱れが、帰る時には消えていた。

 

 レッスン室の中で何かが整ったのだ。氷室の中の何かが。

 

 一人のレッスン室で、鏡の中の自分を見た。

 

 鼻の下に、乾いた血の跡が薄く残っている。

 

 氷室には、前の子がいる。

 

 私の前に教えた子供がいる。その子が今どこにいるか、氷室は知っている。「元気にしています」と言えるような状態にあるかどうかも、氷室だけが知っている。

 

 次のレッスンで——聞く。

 

 「前にもいたんですか、私みたいな子」と。

 

 ドアを開けた。廊下に出た。

 

 

 三階のロビーに降りた。

 

 母がソファに座って待っていた。

 

「遅いわよ。帰りにスーパー寄るから」

 

 帰り道。スーパーの入り口で母が買い物かごを取った。

 

「今日はカレーにするから。じゃがいも選んで」

 

 じゃがいもを三つ選んだ。泥がついている。

 

 

 帰宅後、自分の部屋に入った。

 

 ベッドに座って、鼻の下を指先でなぞった。乾いた血の跡が薄く残っている。

 

 今日の代償は——鼻血だった。

 

 成瀬の現場での全身の感覚喪失とは、また形が違う。あの時は制御できない感情が漏れた。今日は制御し続けた。九十分間、感情を精密に切り替え続けた。

 

 形が変わる。

 

 毎回、形が変わる。

 

 代償の「量」は出力した感情の深さに比例しているはずだ。だが「形」は何によって決まるのか。まだわからない。

 

 わからないまま、鼻血の跡をもう一度なぞった。

 

 リビングから、カレーを煮る匂いが上がってきた。玉ねぎを炒める音がする。

 

 その匂いを嗅いで、初めて気づいた。

 

 今日——ずっと、鼻が通っていた。

 

 鼻血が出ている間も、その後も、感覚は消えなかった。全身が膜越しになったあの日とは違う。今日の代償は鼻だけで、他は正常だった。

 

 制御した感情は、局所に出る。

 

 制御できなかった感情は、全身に出た。

 

 制御できるほど、代償は小さくなる。

 

 右手の薬指と小指を動かした。完全に戻っていた。成瀬の現場の代償は、もう残っていない。

 

「雫ー! カレーできたわよー!」

 

 母の声が下から上がってきた。

 

「行く!」

 

 階段を降りた。

 

 テーブルの上に不格好に盛られたカレーライス。一口食べた。

 

 安いルーの、単純な甘さ。

 

 味がした。

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