血を吐く天才子役は、完璧な嘘で大人を殺す 〜25歳で壊された元・国民的妹、7歳の身体で芸能界の闇を喰い尽くす〜 作:アホ面オムライス
四月の第二週。
成瀬監督のCMが放映された。
ゴールデンタイムの番組の合間に、たった三十秒。山の渓流を彷徨う少女が、湧き水を掬って飲む。それだけの映像が、翌日には業界内で話題になっていた。
私はその放映を自宅のテレビで見た。母と二人、リビングのソファに並んで。
画面の中の「一ノ瀬雫」は、思っていたよりずっと小さく、みすぼらしかった。泥で汚れたワンピース。乱れた髪。赤い頬。
だが、湧き水を飲んだ後の一瞬——あの目だけが、三十秒の映像全体を支配していた。
母は画面を見つめたまま、無言だった。
「……すごいわね、雫。あんた、こんな顔するのね」
賞賛とも戸惑いともつかないトーン。我が子を見る目ではなかった。自分が産んだ肉の塊が、得体の知れない何かに変わったのを目の当たりにしたような、底知れなさが混じっていた。
*
翌日から、世界が変わった。
加藤マネージャーからの電話が倍になった。サンライトの廊下を歩いていると、すれ違う大人たちの視線が変わっていた。先週まで私の存在に気づかなかった制作部の男が、エレベーターで乗り合わせた時に「例のCMの子だよね」と確認するように言った。一週間前とは別の顔をして。
廊下の空気が変わった日があった。
加藤マネージャーと一緒に歩いていた時のことだ。向かいから神崎社長が歩いてきた。社長は私に気づくと足を緩め、加藤に一言何かを言った。加藤の顔が変わった。緊張ではなく——焦りに近い何かに。
神崎が去った後、加藤は私の顔をちらりと見て、すぐに視線を外した。
何かが動き始めている。
この反響は——橘への報告ルートに直結する。神崎が私を「高く売れる商品」と判断すれば、その情報はただちに上へ流れる。
時間が縮まっている。
*
四月の下旬。
通常のレッスンを終えた午後のことだった。
レッスンスタジオの廊下で、ヒールの音が聞こえた。
規則正しく、一切の感情を排した一定のリズム。床の反響すら計算し尽くしたような歩き方。自分の存在を音で主張しない。
重いドアが開いた。
講師の灰原が振り返り、弾かれたように深く頭を下げた。
傲慢な灰原がレッスン中に他人に頭を下げるなど、初めて見る光景だった。
入ってきたのは、一人の女性だった。
黒いスーツ。ノーカラーの襟。一目でわかる上質な生地。大きな黒縁の眼鏡。髪は後ろで低く束ねてあり、ほつれは一本たりともない。
灰原と二言三言、氷のような声で交わした。
灰原が子供たちに「今日はここまで」と告げて、出て行った。
女性だけが、残った。
残された女性の無機質な視線が、部屋を一巡した。二十人の子供の顔を、一人ずつ確認していく。
その目に温度がなかった。
良いとも悪いとも判断していない。ただ——検品している。出荷前の部品を、ひとつひとつ確かめるように。
そして——私の顔の上で、ピタリと止まった。
「一ノ瀬雫さん。少し、お時間をいただけますか」
声に感情の揺らぎが一ミリもなかった。温かくもなく冷たくもない。抑揚が完全に死に絶えている。
二十五歳の記憶が、この声を知っている。
氷室。
前世で、私を橘好みの「完成品」に仕立て上げ、私が壊れて使い物にならなくなった途端、契約解除をゴミを捨てるように処理した女。
前世で氷室に初めて会ったのは、十歳の時だった。
今は七歳。
三年早い。
「……はい」
女性は私に名刺を差し出した。厚みのある紙。高級なエンボス加工。
「ライツ・コンサルティングの氷室と申します。成瀬監督のCM、拝見しました。あなたの表現技術を、正式にお預かりしたいと考えています」
「お預かり」。
前世の氷室は「管理するお手伝いをしたい」と言った。今世は「お預かり」だ。一段丁寧になっている。
「お母様にも、本日中にご連絡いたします」
用件だけを機械のように告げて、氷室は私に背を向けた。
ヒールの音。廊下を遠ざかっていく。
右足、左足、右足——左足の踏み込みが、わずかに遅かった。
来た時にはなかった乱れだ。
*
最初のレッスンの日。
四階の奥まった一室。窓がない。壁は白い石膏ボード。中央にパイプ椅子が二脚と、壁一面に張り付いた巨大な鏡。部屋の隅にノートパソコンが一台。
氷室はすでに待っていた。椅子には座らず、長机の横に墓標のように立っている。
「座ってください」
パイプ椅子に座った。七歳の短い足が、冷たい床に届かず宙に浮く。
「今日から、あなたの表現技術を正式にお預かりします。まず確認です。あなたは演技が好きですか?」
「……好き、です」
半分嘘で、半分は血を吐くような本当だ。
「では、やってみましょう。私が指示を出します。その通りに感情を切り替えてください」
氷室が、銀色のストップウォッチを取り出した。
「笑ってください」
私は笑った。口角を上げ、目尻を下げ、頬の筋肉を正確な角度で持ち上げた。
「泣いてください」
瞬時に切り替えた。口角を下げ、眉間に絶望を刻み、目に薄い涙の膜を張る。
「怒ってください」
顎を引き、眼球を見開き、鼻翼をわずかに広げる。
「無表情に戻してください」
全ての筋肉の緊張を解除し、死人の顔になる。
氷室は腕を組んだまま、私を細胞レベルで観察していた。
十秒ほどの沈黙。
「切り替え速度は七歳としては異常に速い。ですが——笑顔から泣き顔に移行した際、口元に前の感情の残像が〇・一秒残っています。不純です。消してください。もう一度」
恐ろしく正確だった。たった一回のテストで、私の技術の粗を腑分けして見せた。
地獄の反復が始まった。笑え。泣け。怒れ。無に戻れ。
三十分が過ぎた頃、鼻の奥がツンと割れるように痛んだ。
鼻血だった。
右の鼻孔から、ぬるりとした赤い一筋が唇の上を通って、顎先に垂れた。
氷室は——血に染まった私の顔を見た。
一秒。二秒。
「ティッシュはそこです」
それだけだった。声のトーンは一ミリも変わらなかった。
子供が血を流しているのに——止めなかった。
無言でティッシュを取り、鼻を押さえた。氷室は記録をつけ続けていた。キーボードを叩く乾いた音が、窓のない密室に響く。
鼻血は三分で止まった。
「続けられますか」
「はい」
「では、次の課題です」
レッスンが再開された。
*
九十分が終わった。
氷室がノートパソコンを閉じた。
立ち上がり、ドアに向かう。
部屋を出る直前——足が止まった。私に背を向けたまま。
三秒の沈黙。
「あなたは——優秀な生徒です」
そこで止まった。
続きを、飲み込んだ。
「私が今まで教えた中で」か。
「あの子の次に」か。
どちらかはわからない。
氷室は振り返らなかった。ドアを開けて、出て行った。
ヒールの音が廊下を遠ざかっていく。
今度は——両足、均等だった。
来た時の左足のわずかな乱れが、帰る時には消えていた。
レッスン室の中で何かが整ったのだ。氷室の中の何かが。
一人のレッスン室で、鏡の中の自分を見た。
鼻の下に、乾いた血の跡が薄く残っている。
氷室には、前の子がいる。
私の前に教えた子供がいる。その子が今どこにいるか、氷室は知っている。「元気にしています」と言えるような状態にあるかどうかも、氷室だけが知っている。
次のレッスンで——聞く。
「前にもいたんですか、私みたいな子」と。
ドアを開けた。廊下に出た。
*
三階のロビーに降りた。
母がソファに座って待っていた。
「遅いわよ。帰りにスーパー寄るから」
帰り道。スーパーの入り口で母が買い物かごを取った。
「今日はカレーにするから。じゃがいも選んで」
じゃがいもを三つ選んだ。泥がついている。
*
帰宅後、自分の部屋に入った。
ベッドに座って、鼻の下を指先でなぞった。乾いた血の跡が薄く残っている。
今日の代償は——鼻血だった。
成瀬の現場での全身の感覚喪失とは、また形が違う。あの時は制御できない感情が漏れた。今日は制御し続けた。九十分間、感情を精密に切り替え続けた。
形が変わる。
毎回、形が変わる。
代償の「量」は出力した感情の深さに比例しているはずだ。だが「形」は何によって決まるのか。まだわからない。
わからないまま、鼻血の跡をもう一度なぞった。
リビングから、カレーを煮る匂いが上がってきた。玉ねぎを炒める音がする。
その匂いを嗅いで、初めて気づいた。
今日——ずっと、鼻が通っていた。
鼻血が出ている間も、その後も、感覚は消えなかった。全身が膜越しになったあの日とは違う。今日の代償は鼻だけで、他は正常だった。
制御した感情は、局所に出る。
制御できなかった感情は、全身に出た。
制御できるほど、代償は小さくなる。
右手の薬指と小指を動かした。完全に戻っていた。成瀬の現場の代償は、もう残っていない。
「雫ー! カレーできたわよー!」
母の声が下から上がってきた。
「行く!」
階段を降りた。
テーブルの上に不格好に盛られたカレーライス。一口食べた。
安いルーの、単純な甘さ。
味がした。