血を吐く天才子役は、完璧な嘘で大人を殺す 〜25歳で壊された元・国民的妹、7歳の身体で芸能界の闇を喰い尽くす〜   作:アホ面オムライス

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第7話 三番手の理由

 六月。梅雨入り。

 

 レッスン帰りの車の中で、母がガラケーを閉じた。

 

「雫、いいニュースよ。加藤さんから連絡。ゴールデンの連ドラの子役オーディションが来たわ」

 

 母の声が弾んでいる。ハンドルを握る手に、不必要な力が入っていた。

 

「なんていうドラマ?」

 

「『きみの手を離さない』。橋本英里子が主演よ」

 

 橋本英里子。前世でも同じドラマに主演していた。火曜夜九時、社会派ヒューマンドラマ。児童養護施設を舞台に、子供たちの過去と大人たちの事情が交差する群像劇。

 

 前世では、このドラマは社会現象になった。最終回の視聴率は二十八パーセント。そして——子役パートを演じた少女が、この一本で全国区の知名度を得た。

 

 だがその少女の名前を、今はまだ知らない。

 

 控え室で会った、記憶にない少女。ピンクのヘアピン。前歯の隙間。「緊張した?」と聞いてきた少女。

 

 あの子がそうなのか。

 

 まだわからない。前世の地図に載っていない人間の未来は、読めない。

 

「子役の主演級は、施設の少女・ハルカ役。雫、これを取りに行くわよ」

 

 窓の外を見ていた。雨粒がガラスを伝い、街灯の光を歪ませている。

 

 

 主役を取るべきか。

 

 頭の中で計算する。前世ではこのドラマで主役を射止めた。そこからスケジュールが埋まり、管理が厳しくなり、橘のシステムへの依存が加速した。

 

 だが今世の状況は違う。すでに氷室のレッスンが始まっている。橘の照準は、私にすでに向いている。主役を回避したところで、橘の関心が消えるわけではない。

 

 では、主役を取ることと三番手に回ることの差は何か。

 

 主役を取れば——全国区の注目が私に集まる。橘のレーダーでの私への優先度がさらに上がる。タイムラインが縮まる。

 

 三番手に回れば——注目は主役のハルカを演じる子に集まる。私への注目は限定的になる。

 

 だがそれは同時に、別の問いを生む。

 

 主役を演じる子は誰になるのか。

 

 あの少女がハルカ役を取れば——全国区の注目を浴びる。橘のレーダーが、あの子を捉えるかもしれない。

 

 あの子が前世の地図にいなかったのは、前世で橘のシステムに組み込まれなかったからかもしれない。だが今世では、流れが変わっている。三年早く氷室が動いた。橘のシステムは前世より速く、広く動いている。

 

 確証はない。

 

 だが可能性は、ある。

 

 雨粒がガラスを伝い落ちていく。

 

 もし私が主役を取れば、あの子への橘の関心は薄れる。私が橘の注意を引き受ける。

 

 もし私が三番手に回れば、あの子が全国区になる。橘のレーダーに映る可能性が上がる。

 

 どちらを選んでも、誰かがリスクを負う。

 

 完璧な選択肢は存在しない。

 

「お母さん。このオーディション、受けたい」

 

 母が嬉しそうに頷きかけた。

 

「でも、主役じゃなくて、三番手の役がいい」

 

 母のハンドルを握る手が止まった。赤信号だった。

 

「……何言ってるの」

 

「三番手。施設の少女たちの中で、ハルカの親友役。コトネ。出番は少ないけど、最終回にハルカを裏切る役」

 

「なんで主役取りに行かないの。せっかくのチャンスなのに」

 

 理由を組み立てた。母が受け入れられる論理で。

 

「三番手の方が拘束日数が短いから、他の仕事も入れられる。氷室さんのレッスンも続けられる」

 

 母は無言で運転を続けた。ワイパーが雨を払う音だけが車内に響く。

 

「……加藤さんにも相談しなきゃだめよ」

 

「うん。お母さんが決めて」

 

 それだけ言って、窓の外に目を戻した。

 

 

 オーディションの日。

 

 控え室に入ると、先に来ていた子供の中に——あの少女がいた。

 

 ピンクのヘアピンを二つ留め、黒いワンピース。膝の上に台本を広げ、唇を動かしてセリフを練習している。

 

 私が入ってきたことに気づいて、顔を上げた。

 

「一ノ瀬さん。あんたも来たんだ」

 

 名前を知っていた。控え室で会った時よりも、声に硬さがある。

 

「うん」

 

「主役狙い?」

 

「ううん。私は三番手。コトネ役」

 

 少女の目が細くなった。

 

「なんで」

 

「え?」

 

「なんで三番手なの。成瀬監督のCMの子でしょ。——なのに、なんで主役取りに行かないの」

 

 少女の声は低かった。怒りではない。もっと根源的な、困惑に近い何かだった。

 

「私はね、死ぬ気で主役取りに来てるの。毎日台本読んで、鏡の前で練習して、お母さんに怒られながらやってきたの」

 

 少女の手が台本を握りしめていた。指の関節が白い。

 

「あんたみたいに才能がある子が、三番手でいいやって——ふざけないでよ」

 

 少女の目が赤くなっていた。

 

「本気で戦う気がない人間に"がんばってね"って言われるの、一番きついの。わかる?」

 

 わかる。

 

 前世の二十五年間で、何度も同じことを感じた。

 

 だが——本当の理由は言えない。「あなたを守るため」とも「橘のシステムが動いているから」とも言えない。証拠もない。言ったところで、八歳の少女に理解できる話でもない。

 

 それでも——何も言わないまま立ち去ることが、正しいとも思えなかった。

 

「……名前、教えて」

 

 少女は一瞬、虚を突かれたような顔をした。

 

「佐倉愛衣」

 

「佐倉さん。私がコトネ役を選んだのは、スケジュールの都合だけじゃない」

 

「じゃあ何」

 

 答えかけた。止まった。

 

 説明できない。正確には、今は説明できない。

 

「……撮影が終わったら、話す。今は言えないけど」

 

 愛衣が私を見つめた。三秒。四秒。

 

「信用してないんでしょ」

 

「そういうわけじゃない」

 

「同じことじゃん。——今言えないって、つまり今は信用できないってことでしょ」

 

 反論できなかった。愛衣は正しい。「撮影が終わったら話す」は、今この場で何も渡さないという意味だ。信頼の担保が何もない。

 

「……そう聞こえるよね」

 

「聞こえるんじゃなくて、そうでしょ」

 

 愛衣は台本に視線を戻した。会話を打ち切るように。

 

 だがその目が、台本の文字を追っていないことはわかった。

 

 何かを考えている。

 

「佐倉さん」

 

「何」

 

「撮影が終わったら話す。それだけは本当」

 

 愛衣は台本から顔を上げなかった。

 

 しばらくして、小さく言った。

 

「……約束ね」

 

 約束の重さを確かめるような声だった。念押しではない。自分がその言葉に縛られることを、自分で選んでいる声。

 

「約束する」

 

 愛衣はそれきり、台本に集中した。唇が小さく動いている。セリフを繰り返している。

 

 

 オーディションは淡々と終わった。

 

 コトネ役の審査室で、花壇のシーンを演じた。「これ、去年植えたやつ。まだ咲くんだね」。声を限界まで小さくした。

 

 帰り際、廊下で愛衣とすれ違った。

 

 お互い、何も言わなかった。

 

 愛衣が前を向いて歩いていく背中を、少しだけ見た。

 

 

 結果は三日後に届いた。

 

 コトネ役、一ノ瀬雫。ハルカ役——

 

 加藤マネージャーから母への電話で知った。母がリビングに向かって叫んだ。

 

「雫! 合格よ! コトネ役!」

 

 私は自分の部屋で算数ドリルを広げたまま、母の声を聞いた。

 

「ハルカ役は誰だったの」

 

「佐倉愛衣って子。あなたと同じオーディションに来てた子じゃないの?」

 

 佐倉愛衣。

 

 愛衣がハルカ役を取った。

 

 前世と同じキャスティング。

 

 少しだけ、息を吐いた。

 

 

 夜。

 

 蓮にメールを打った。

 

「ドラマのオーディション、受かった。コトネ役」

 

 三分後、返信。

 

「三番手? お前が? なんで」

 

「理由がある。今は言えないけど」

 

 一分後。

 

「……また"今は言えない"か」

 

 蓮の返信には、責める色がなかった。ただ確認している声に近い。

 

「ごめん」

 

「謝んなよ。——コトネって、最後どうなる役なんだ」

 

「最終回にハルカを裏切る。一番大事な物を盗んで逃げる」

 

 二分後。

 

「裏切り役か。——そっちの方が難しくないか、主役より」

 

「そう思う」

 

「ならいいじゃないか」

 

 蓮らしい返し方だった。

 

「ハルカは誰が取ったんだ」

 

「佐倉愛衣って子。私と同じオーディションに来てた」

 

 しばらく間があった。

 

「知ってるのか、その子を」

 

「少し。——コトネの話、続きはいつか話す」

 

「わかった。——おやすみ」

 

「おやすみ」

 

 

 ガラケーを閉じた。

 

 窓の外を見た。梅雨の雨が、まだ降り続けている。

 

 愛衣がハルカ役を取った。これで撮影の間、愛衣には全国区の注目が集まる。

 

 私への注目は、コトネに留まる。

 

 その間に——氷室のレッスンから橘の「仕様」を読み続ける。前の子のことを氷室から聞き出す。橘のシステムの弱点を探る。

 

 計画通りだ。

 

 だが愛衣の「信用してないんでしょ」という言葉が、頭の隅に残っていた。

 

 正しい指摘だった。今この場で信用できる何かを渡せなかった。「撮影が終わったら話す」という言葉は、今日の愛衣には何の重さも持たない。

 

 約束だけが残っている。

 

 愛衣はその約束を、自分で選んで受け取った。

 

 だからこそ——守らなければならない。

 

 雨音が窓ガラスを打っている。六月の夜。

 

 愛衣はこの雨の中で今、何を考えているだろう。台本を読んでいるかもしれない。ハルカのセリフを繰り返しているかもしれない。

 

 あるいは——「信用してないんでしょ」という言葉を、まだ手放せずにいるかもしれない。

 

 そうだとしたら——それは正しい。

 

 今日の私は、愛衣の信頼に値することを何一つしていない。

 

 窓ガラスの雨粒が、街灯の光を受けて滲んでいた。

 

 撮影が終わったら話す。

 

 その言葉の重さを、今夜から少しずつ積み上げていく。

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