血を吐く天才子役は、完璧な嘘で大人を殺す 〜25歳で壊された元・国民的妹、7歳の身体で芸能界の闇を喰い尽くす〜 作:アホ面オムライス
六月。梅雨入り。
レッスン帰りの車の中で、母がガラケーを閉じた。
「雫、いいニュースよ。加藤さんから連絡。ゴールデンの連ドラの子役オーディションが来たわ」
母の声が弾んでいる。ハンドルを握る手に、不必要な力が入っていた。
「なんていうドラマ?」
「『きみの手を離さない』。橋本英里子が主演よ」
橋本英里子。前世でも同じドラマに主演していた。火曜夜九時、社会派ヒューマンドラマ。児童養護施設を舞台に、子供たちの過去と大人たちの事情が交差する群像劇。
前世では、このドラマは社会現象になった。最終回の視聴率は二十八パーセント。そして——子役パートを演じた少女が、この一本で全国区の知名度を得た。
だがその少女の名前を、今はまだ知らない。
控え室で会った、記憶にない少女。ピンクのヘアピン。前歯の隙間。「緊張した?」と聞いてきた少女。
あの子がそうなのか。
まだわからない。前世の地図に載っていない人間の未来は、読めない。
「子役の主演級は、施設の少女・ハルカ役。雫、これを取りに行くわよ」
窓の外を見ていた。雨粒がガラスを伝い、街灯の光を歪ませている。
*
主役を取るべきか。
頭の中で計算する。前世ではこのドラマで主役を射止めた。そこからスケジュールが埋まり、管理が厳しくなり、橘のシステムへの依存が加速した。
だが今世の状況は違う。すでに氷室のレッスンが始まっている。橘の照準は、私にすでに向いている。主役を回避したところで、橘の関心が消えるわけではない。
では、主役を取ることと三番手に回ることの差は何か。
主役を取れば——全国区の注目が私に集まる。橘のレーダーでの私への優先度がさらに上がる。タイムラインが縮まる。
三番手に回れば——注目は主役のハルカを演じる子に集まる。私への注目は限定的になる。
だがそれは同時に、別の問いを生む。
主役を演じる子は誰になるのか。
あの少女がハルカ役を取れば——全国区の注目を浴びる。橘のレーダーが、あの子を捉えるかもしれない。
あの子が前世の地図にいなかったのは、前世で橘のシステムに組み込まれなかったからかもしれない。だが今世では、流れが変わっている。三年早く氷室が動いた。橘のシステムは前世より速く、広く動いている。
確証はない。
だが可能性は、ある。
雨粒がガラスを伝い落ちていく。
もし私が主役を取れば、あの子への橘の関心は薄れる。私が橘の注意を引き受ける。
もし私が三番手に回れば、あの子が全国区になる。橘のレーダーに映る可能性が上がる。
どちらを選んでも、誰かがリスクを負う。
完璧な選択肢は存在しない。
「お母さん。このオーディション、受けたい」
母が嬉しそうに頷きかけた。
「でも、主役じゃなくて、三番手の役がいい」
母のハンドルを握る手が止まった。赤信号だった。
「……何言ってるの」
「三番手。施設の少女たちの中で、ハルカの親友役。コトネ。出番は少ないけど、最終回にハルカを裏切る役」
「なんで主役取りに行かないの。せっかくのチャンスなのに」
理由を組み立てた。母が受け入れられる論理で。
「三番手の方が拘束日数が短いから、他の仕事も入れられる。氷室さんのレッスンも続けられる」
母は無言で運転を続けた。ワイパーが雨を払う音だけが車内に響く。
「……加藤さんにも相談しなきゃだめよ」
「うん。お母さんが決めて」
それだけ言って、窓の外に目を戻した。
*
オーディションの日。
控え室に入ると、先に来ていた子供の中に——あの少女がいた。
ピンクのヘアピンを二つ留め、黒いワンピース。膝の上に台本を広げ、唇を動かしてセリフを練習している。
私が入ってきたことに気づいて、顔を上げた。
「一ノ瀬さん。あんたも来たんだ」
名前を知っていた。控え室で会った時よりも、声に硬さがある。
「うん」
「主役狙い?」
「ううん。私は三番手。コトネ役」
少女の目が細くなった。
「なんで」
「え?」
「なんで三番手なの。成瀬監督のCMの子でしょ。——なのに、なんで主役取りに行かないの」
少女の声は低かった。怒りではない。もっと根源的な、困惑に近い何かだった。
「私はね、死ぬ気で主役取りに来てるの。毎日台本読んで、鏡の前で練習して、お母さんに怒られながらやってきたの」
少女の手が台本を握りしめていた。指の関節が白い。
「あんたみたいに才能がある子が、三番手でいいやって——ふざけないでよ」
少女の目が赤くなっていた。
「本気で戦う気がない人間に"がんばってね"って言われるの、一番きついの。わかる?」
わかる。
前世の二十五年間で、何度も同じことを感じた。
だが——本当の理由は言えない。「あなたを守るため」とも「橘のシステムが動いているから」とも言えない。証拠もない。言ったところで、八歳の少女に理解できる話でもない。
それでも——何も言わないまま立ち去ることが、正しいとも思えなかった。
「……名前、教えて」
少女は一瞬、虚を突かれたような顔をした。
「佐倉愛衣」
「佐倉さん。私がコトネ役を選んだのは、スケジュールの都合だけじゃない」
「じゃあ何」
答えかけた。止まった。
説明できない。正確には、今は説明できない。
「……撮影が終わったら、話す。今は言えないけど」
愛衣が私を見つめた。三秒。四秒。
「信用してないんでしょ」
「そういうわけじゃない」
「同じことじゃん。——今言えないって、つまり今は信用できないってことでしょ」
反論できなかった。愛衣は正しい。「撮影が終わったら話す」は、今この場で何も渡さないという意味だ。信頼の担保が何もない。
「……そう聞こえるよね」
「聞こえるんじゃなくて、そうでしょ」
愛衣は台本に視線を戻した。会話を打ち切るように。
だがその目が、台本の文字を追っていないことはわかった。
何かを考えている。
「佐倉さん」
「何」
「撮影が終わったら話す。それだけは本当」
愛衣は台本から顔を上げなかった。
しばらくして、小さく言った。
「……約束ね」
約束の重さを確かめるような声だった。念押しではない。自分がその言葉に縛られることを、自分で選んでいる声。
「約束する」
愛衣はそれきり、台本に集中した。唇が小さく動いている。セリフを繰り返している。
*
オーディションは淡々と終わった。
コトネ役の審査室で、花壇のシーンを演じた。「これ、去年植えたやつ。まだ咲くんだね」。声を限界まで小さくした。
帰り際、廊下で愛衣とすれ違った。
お互い、何も言わなかった。
愛衣が前を向いて歩いていく背中を、少しだけ見た。
*
結果は三日後に届いた。
コトネ役、一ノ瀬雫。ハルカ役——
加藤マネージャーから母への電話で知った。母がリビングに向かって叫んだ。
「雫! 合格よ! コトネ役!」
私は自分の部屋で算数ドリルを広げたまま、母の声を聞いた。
「ハルカ役は誰だったの」
「佐倉愛衣って子。あなたと同じオーディションに来てた子じゃないの?」
佐倉愛衣。
愛衣がハルカ役を取った。
前世と同じキャスティング。
少しだけ、息を吐いた。
*
夜。
蓮にメールを打った。
「ドラマのオーディション、受かった。コトネ役」
三分後、返信。
「三番手? お前が? なんで」
「理由がある。今は言えないけど」
一分後。
「……また"今は言えない"か」
蓮の返信には、責める色がなかった。ただ確認している声に近い。
「ごめん」
「謝んなよ。——コトネって、最後どうなる役なんだ」
「最終回にハルカを裏切る。一番大事な物を盗んで逃げる」
二分後。
「裏切り役か。——そっちの方が難しくないか、主役より」
「そう思う」
「ならいいじゃないか」
蓮らしい返し方だった。
「ハルカは誰が取ったんだ」
「佐倉愛衣って子。私と同じオーディションに来てた」
しばらく間があった。
「知ってるのか、その子を」
「少し。——コトネの話、続きはいつか話す」
「わかった。——おやすみ」
「おやすみ」
*
ガラケーを閉じた。
窓の外を見た。梅雨の雨が、まだ降り続けている。
愛衣がハルカ役を取った。これで撮影の間、愛衣には全国区の注目が集まる。
私への注目は、コトネに留まる。
その間に——氷室のレッスンから橘の「仕様」を読み続ける。前の子のことを氷室から聞き出す。橘のシステムの弱点を探る。
計画通りだ。
だが愛衣の「信用してないんでしょ」という言葉が、頭の隅に残っていた。
正しい指摘だった。今この場で信用できる何かを渡せなかった。「撮影が終わったら話す」という言葉は、今日の愛衣には何の重さも持たない。
約束だけが残っている。
愛衣はその約束を、自分で選んで受け取った。
だからこそ——守らなければならない。
雨音が窓ガラスを打っている。六月の夜。
愛衣はこの雨の中で今、何を考えているだろう。台本を読んでいるかもしれない。ハルカのセリフを繰り返しているかもしれない。
あるいは——「信用してないんでしょ」という言葉を、まだ手放せずにいるかもしれない。
そうだとしたら——それは正しい。
今日の私は、愛衣の信頼に値することを何一つしていない。
窓ガラスの雨粒が、街灯の光を受けて滲んでいた。
撮影が終わったら話す。
その言葉の重さを、今夜から少しずつ積み上げていく。