血を吐く天才子役は、完璧な嘘で大人を殺す 〜25歳で壊された元・国民的妹、7歳の身体で芸能界の闇を喰い尽くす〜   作:アホ面オムライス

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第8話 計算がバレる

 七月。撮影が始まった。

 

 スタジオは世田谷区の外れにある、テレビ局の第三スタジオ棟だった。築三十年の建物で、廊下の壁には過去のドラマのポスターが色褪せたまま貼られている。

 

 初日は顔合わせと読み合わせだった。

 

 主演の橋本英里子は、ブラウスにジーンズという飾らない格好で現場入りし、スタッフ一人ひとりに「よろしくお願いします」と頭を下げて回っていた。

 

 子役は四人。ハルカ役の愛衣、コトネ役の私、施設の年上の少年役と、幼い妹役の子。

 

 愛衣は——私と目を合わせなかった。

 

 控え室で台本を広げている愛衣の横を通った時、「おはよう」と言った。愛衣は「おはよう」と返した。声は普通だった。だが目は台本に落ちたまま、一度も上がらなかった。

 

 オーディション控え室での「信用してないんでしょ」が——透明な壁になっている。

 

 

 第一話の撮影。施設の食堂シーン。

 

 メインは橋本と愛衣の二人芝居。コトネは食堂のテーブルで他の子供たちと食事をしている「背景」だ。セリフはない。

 

 メインカメラは橋本と愛衣を正面から捉えている。だが、サブカメラが左斜め後方から全体を撮っている。

 

 ドラマの編集では、メインの芝居の合間に「空気カット」を挟む。食堂の全景、窓の外の風景、そして——背景にいる子供たちの日常の仕草。

 

 サブカメラのフレームの端に、私の席が入る。

 

 味噌汁を飲む動作の途中で、ほんの一瞬だけ——愛衣の方を見た。

 

 〇・五秒。表情は変えない。味噌汁を飲んでいる「普通の子供」のまま。だが、視線の方向だけが、一瞬、メインの芝居に向く。

 

 この一瞬を編集で使うかどうかは、監督次第だ。だが使われた場合——視聴者は「この子はハルカを見ている」と無意識に記録する。

 

 

 翌日。

 

 助監督が私のところに来た。

 

「一ノ瀬ちゃん、昨日の食堂のシーン。サブカメの端に映ってたんだけど、あの視線——わざと?」

 

「え? ただ、愛衣ちゃんの演技がすごいなって思って見ちゃっただけなんですけど……」

 

 助監督は笑った。

 

「子供の自然な反応が一番いいんだよね」

 

 成功だ。

 

 だが同時に——背中に冷たいものが走った。

 

 「わざとじゃない」は嘘だ。胃が揺れた。七歳の内臓が抗議している。

 

 助監督はクリップボードを手に、自分のポケットにそれをしまった。何かを書いて——ポケットに入れた。

 

 メモ帳ではなく、ポケット。

 

 助監督の個人的な記録だ。現場の正式な記録ではない。

 

 

 第二話の撮影。施設の庭でブランコに座っているシーン。

 

 メインは別の場所で回っている。コトネは「背景」だ。

 

 前日の成功が頭にあった。

 

 ブランコを漕ぎながら、足元の地面を見つめた。微かな寂しさを乗せた。鎖を握る手に、一瞬だけ力を込めた。

 

 撮影後、監督に呼ばれた。

 

「一ノ瀬ちゃん。このシーン。ブランコのところ」

 

 モニターにサブカメラの映像が映っている。

 

 映りすぎていた。

 

 コトネがフレームの中央寄りに入ってしまっている。鎖を握る手の力の入り方が鮮明に見える。「寂しさを含んだ表情」が、背景として溶け込む濃度を超えていた。

 

「一ノ瀬ちゃん。何をしていた?」

 

 監督の声は穏やかだった。だが、目が笑っていない。

 

「……ただ、ブランコ漕いでただけです」

 

「ぼーっとしてた割には、手に力が入ってるね。この力の入り方は——何かを考えてる時の手だよ」

 

 返す言葉がなかった。七月の撮影で「鎖が冷たい」は通らない。別の理由も思いつかない。

 

 監督は三秒ほど私を見つめて、小さく頷いた。

 

「まあ、いいよ。使えるかどうかは編集で判断する。——ただ、セリフがないシーンで、あんまりやりすぎないようにね。背景の子が目立ちすぎると、メインの芝居が死ぬから」

 

「はい。すみません」

 

 頭を下げて、その場を離れた。

 

 廊下を歩きながら、心臓が速くなっているのを感じた。

 

 食堂の視線は「自然な反応」として処理された。ブランコは——計算が見え始めている。

 

 次から方法を変えなければならない。

 

 カメラの位置を計算するのではなく、「セリフの間」だけに集中する。台本のセリフの「読み方」の範囲内であれば、カメラの画角を計算したわけではない。疑いは残らない。

 

 廊下の向こうで、助監督が手元のクリップボードを閉じるのが見えた。

 

 こちらに気づいて、目が合った。

 

 助監督は何も言わなかった。ただ、視線を外した。

 

 クリップボードを——ポケットにしまった。

 

 また、ポケットだ。

 

 正式な記録ではない。個人の記録。

 

 助監督は昨日も今日も、私の動きを個人的に記録している。

 

 

 その夜。自分の部屋。

 

 ガラケーを開いた。蓮からメールが来ていた。

 

「ドラマ見たよ。食堂のシーン、お前だろ。あの視線」

 

 心臓が跳ねた。

 

「掲示板にも書いてあった。"あの目つきヤバい"って。俺は最初からわかった。カメラの位置を把握して入れてるだろ」

 

 蓮は——助監督と同じ結論に、テレビの画面越しに辿り着いていた。

 

「気のせいだよ」と返しかけた。

 

 止まった。

 

 蓮への嘘は——胃が揺れる。試着室で母に嘘をついた時と同じ種類の揺れ。

 

 蓮は前世の地図にない人間だ。計算の外にいる人間だ。その人間に嘘をつくことと、審査員や監督に嘘をつくことは、身体の反応が違う。

 

 なぜ違うのか、まだわからない。

 

 だが違う。

 

「……黙っててね」

 

 送信した。

 

 一分後、返信。

 

「誰にも言わない」

 

 四文字だった。それだけだった。

 

 「なぜ黙るのか」も、「何を黙るのか」も、確認しなかった。

 

 蓮は——私が計算で動いていることを、すでに知っている。今日の返信で改めて確認した。それだけのことだ。

 

 もう一通来た。

 

「掲示板では"監督の演出か役者の判断か"って議論になってる。俺は最初からわかる。お前の判断だ」

 

 全部見抜かれている。

 

「ブランコのシーンもだろ。あの手の力の入り方、普通の七歳はやらない」

 

 返信を打った。

 

「やりすぎた。監督にも言われた」

 

 二分後。

 

「だろうな。——次はどうするんだ」

 

「セリフの間だけにする。カメラを計算しない」

 

「それで足りるのか」

 

 足りるかどうかは、わからない。

 

「やってみないとわからない」

 

「そうか。——ちなみに、掲示板で"化け物"って書いてるやつがいた」

 

 化け物。

 

「知ってる」

 

「知ってんのか」

 

「成瀬監督にも同じこと言われた」

 

 しばらく間があった。

 

「……お前さ」

 

「うん」

 

「化け物って言われて、どう思うんだ」

 

 どう思うか。

 

 考えた。

 

 前世では、そう言われるたびに何かが削れた。「化け物」は賞賛ではなく、「人間ではない何か」への言葉だ。人間でない何かは、傷つかないと思われる。傷ついても誰も気にしない。

 

 だが今は——「化け物」と言われることより、「計算が見え始めた」という事実の方が重い。計算が見えることは、計算が機能しなくなることを意味する。

 

「怖いというより、まずいと思う」

 

「まずい?」

 

「計算がバレたら、使えなくなる」

 

 蓮はしばらく黙った。

 

「……お前って、自分のことを道具みたいに言うな」

 

 予想していなかった返しだった。

 

「……そうかな」

 

「そうだよ。"計算が使えなくなる"って、道具の言い方だ」

 

 返す言葉がなかった。

 

 蓮は続けた。

 

「俺もよく思うけどさ。——道具として使われてる間に、道具の言葉しか覚えなくなる。そういうことがある」

 

 換気扇の音が、電話越しに聞こえるようだった。

 

 蓮は電話をかけてきたわけではない。メールのやり取りだ。だが蓮の声が聞こえる気がした。

 

「……気をつける」

 

「気をつけてもなかなか変わらないけどな」

 

 自分に言い聞かせているのか、私に言っているのか、どちらともつかない一行だった。

 

「おやすみ、蓮くん」

 

「おやすみ。——次の撮影、気をつけろよ」

 

 ガラケーを閉じた。

 

 

 天井を見上げた。

 

 道具の言葉。

 

 計算が使えなくなる、と私は言った。確かに道具の言い方だ。

 

 前世でも同じだった。前世の私は、自分を「製品」と呼んでいた。完璧な笑顔の中に、私がいなかった。

 

 今世の七歳の私はまだ、鏡の中に私がいる。洗面所でそれを確認した。この顔はまだ、私のものだ。

 

 だが蓮の言葉が、何かに触れた。

 

 道具として使われている間に、道具の言葉しか覚えなくなる。

 

 今夜の私の「計算が使えなくなる」という言葉は——橘のシステムの語彙で考えた言葉ではないか。

 

 使えるか、使えないか。価値があるか、ないか。

 

 それは——橘が人を評価する時の言葉だ。

 

 目を閉じた。

 

 助監督のポケット。蓮の「道具の言葉」。愛衣の「信用してないんでしょ」。

 

 三つが、暗闇の中で並んでいた。

 

 撮影はまだ続く。最終話まで、あと多くの時間がある。

 

 セリフの間だけに絞る。カメラを計算しない。それは正しい修正だ。

 

 だが蓮の問いには、まだ答えが出ていない。

 

 道具の言葉しか使えなくなった人間は——何を失うのか。

 

 雨の音が、窓の外から微かに聞こえていた。

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