血を吐く天才子役は、完璧な嘘で大人を殺す 〜25歳で壊された元・国民的妹、7歳の身体で芸能界の闇を喰い尽くす〜 作:アホ面オムライス
八月。ドラマの撮影は中盤に入っていた。
視聴率は第一話が十八パーセント、第五話で二十一パーセントに上昇し、掲示板の「コトネ考察スレッド」はパート三に突入していた。
撮影のない水曜日の夕方。
母がリビングのテーブルに書類を広げていた。加藤マネージャーがFAXで送ってきた契約書。サンライトとの専属契約の改定だ。
「ギャラが上がるのよ、雫。出演料のベースが今の倍」
母の声は弾んでいた。
私はソファに座ったまま、母から書類を受け取った。
A4用紙で十二ページ。
一ページずつ、読んだ。
八ページ目で、指が止まった。
「第十二条 専属マネジメント権の第三者委託に関する付帯条件」
文章は短かった。
要約すれば——サンライトは、雫のマネジメント権を第三者に委託できる。委託の際、母の同意は条件としない。
前世でも、この条項を使って橘への「引き渡し」が行われた。
気づいた時には手遅れだった。
「お母さん。ここ」
指で第十二条を示した。
「"マネジメント権を第三者に委託できる"って書いてある。お母さんの同意がなくてもいいって」
母は契約書を覗き込んだ。眉をひそめている。条文の上を滑る目。
「……委託? 何のこと?」
知らない。
「私の仕事を管理する権利を、知らない人に渡せるってことだよ」
母の表情が曇った。「突かれた」顔ではなく「聞いたことのない危険を突きつけられた」顔。
「そんな……でも、サンライトの契約書よ?」
「おかしいよ、お母さん」
声が七歳にしては冷静すぎた。母の目が鋭くなった。
「——私だって、わかってるわよ」
わかってる。
だが第十二条を「知らなかった」母が「わかってる」と言った。矛盾している。条文の意味は理解していない。だが「わかっている」ことが、別にある。
自分が誰かの駒であること。それを止める力が自分にはないこと。
「いいから。お母さんが決めるの」
母がボールペンを握った。
「お母さん、待って——」
母の右手が、私の左頬を打った。
*
パン、という乾いた音。
痛みが遅れて来た。
そして身体が崩壊した。
手足が震え始めた。全身。視界の周辺部から色が消える。呼吸ができない。横隔膜が硬直している。
前世で母に叩かれたことはない。
この身体はこの衝撃を「初めて」受けている。七歳の自律神経が全回路をシャットダウンしようとしている。
床にうずくまった。
一分。呼吸が戻り始めた。
母の足音。私から離れていく。近づいてこなかった。
五分。震えが収まる。
母が台所に行った。コップに水を入れている。足音が近づき、コップが床に置かれた。手の届く範囲に。
母の手が——私に触れなかった。水を置いて、離れた。
九分。水を飲んだ。
十分。壁に背をつけて座った。
母はソファに座っていた。リモコンを握りしめている。テレビは消えたまま。
母の横顔。恐怖。自分が何をしたのか理解した人間の顔。
母はボールペンを拾い上げた。
契約書に、サインした。
手が震えていた。
止められなかった。
*
翌朝。
台所に降りると、母が朝食を作っていた。
テーブルの上に——小さな皿に盛られた苺。八月の苺は高い。季節外れだ。
「ほら、食べなさい」
昨夜のことには触れない。
苺を一つ口に入れた。甘かった。
「おいしい」
「そう。よかった」
母の声は素っ気なかった。
苺の甘さと、頬の熱さが、同じ朝の食卓に同居している。
苺を買う手と叩く手が、同じ手だ。
テーブルの向こうに封筒がある。契約書が入っている。母はその封筒を見ないようにしている。
学校に行く時間になった。母は玄関まで送ってきた。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
三歩歩いて振り返った。
母が玄関に立っていた。ドアを閉めずに、こちらを見ていた。
その目に何があったのか。距離がありすぎて読めなかった。
*
放課後。自分の部屋。
ベッドに座って状況を整理した。
第十二条は成立してしまった。サンライトが——神崎が——私のマネジメント権を橘に渡す法的根拠が生きている。
だが発動のタイミングは、橘が「引き渡し」を要求した時だ。要求するには橘が私を「完成品」と判断する必要がある。判断は氷室の報告に基づく。
氷室が「まだ完成していない」と報告している間は、引き渡しは起きない。
法的な盾は失った。だが時間は——まだある。
ガラケーを開いた。蓮にメールを打った。
「昨日、お母さんに叩かれた」
送信してから——躊躇があったことに気づいた。蓮に家庭の問題を晒すことが正しい判断なのか。
だが蓮は手首に痣がある少年だ。
三分後、返信。
「大丈夫か」
「大丈夫。——契約書にサインされちゃった。私の仕事を管理する権利を、知らない人に渡せる条項が入ってた」
一分後。
「渡せる相手って、誰だ」
「まだわからない。——たぶん、橘聡一郎って人。この業界の裏にいる人間だと思う」
橘の名前を出すのは、蓮に対して初めてだった。
二分後。
「橘って、どこで知ったんだ」
「……噂で。業界にいると聞こえてくることがある」
嘘だ。胃が揺れた。前世の記憶からだとは言えない。
「そいつが、お前を管理するってことか」
「契約書的には、そういうことになった」
しばらく返信がなかった。
五分後。
「お前、昨日叩かれて、今日それを俺に送ってきたのか」
言葉の意味を、蓮が確認している。
「うん」
「……なんで」
なぜ送ったのか。
自分でも整理できていなかった。
「蓮くんは手首に痣があった。同じ場所にいる人間だと思ったから」
返信に時間がかかった。
七分後。
「そうか。——お前、頬は大丈夫か」
「腫れてない。昨夜より引いた」
「ならいい。——契約書の件、他に何かできることがあったら言え」
それだけだった。
解決策を出さなかった。同情もしなかった。「何かできることがあったら言え」だけだった。
この返し方が——蓮らしかった。
*
翌週。氷室のレッスン。
四階のレッスン室。パイプ椅子。鏡。
氷室が切り替え訓練の記録をつけている間、私は鏡の中の自分を見た。
左頬。腫れは完全に引いていた。だが昨夜の鏡では、うっすらと赤みが残っていた。今日は見えない。
氷室は気づかなかったか、あるいは気づいて黙っているか。
「今日は切り替え速度の記録が前回より〇・〇二秒改善しています」
氷室の声。事務的な確認。
「はい」
「ただし——笑顔の持続時間に、わずかなブレがあります。笑顔を維持している間に、別の感情が混入している。何を考えていましたか」
何を考えていたか。
母の横顔。震えていた手。「わかってるわよ」という声。サインした後の、リモコンを握りしめていた手。
「……何も考えてなかったです」
「嘘です」
氷室が言った。声のトーンは変わらない。
「笑顔の中に、悲しみが〇・〇三秒混入していました。悲しみの混入は、何か悲しいことを考えている時か——あるいは、今笑っていることへの違和感がある時に起きます」
氷室は私の目を見ていた。
「どちらですか」
どちらか。
両方だ。だがどちらとも言えない。
「……どちらでもないです」
氷室は三秒、私を見つめた。
それから、ノートパソコンに何かを打ち込んだ。
「もう一度」
レッスンが再開された。
笑顔を作りながら——氷室が「嘘です」と言った一言が、頭の隅に残っていた。
氷室は嘘を見抜く。声のトーンでも、顔の筋肉の動きでも。
それは当然だ。氷室は子供の感情を計測し続けてきた人間だ。
だが今日氷室が見抜いたのは——演技の嘘ではなく、私の内側の嘘だった。
何も考えていない、という嘘。
氷室は私の顔から、悲しみを読んだ。
*
レッスンが終わった。
氷室がパソコンを閉じた。
部屋を出る直前——足が止まった。
振り返らないまま、言った。
「一ノ瀬さん」
「はい」
「笑顔の中の悲しみは——消さなくていいです」
予想していない言葉だった。
「え……?」
「完璧な笑顔より、悲しみが滲む笑顔の方が、人の心に届くことがある。消すことは、誰にでもできます。滲ませることは——あなたにしかできないかもしれない」
氷室は振り返らなかった。ドアを開けて、出て行った。
ヒールの音が廊下を遠ざかっていく。
両足、均等だった。
一人のレッスン室で、鏡の中の自分を見た。
笑顔の中の悲しみ。
氷室はそれを消せと言わなかった。消さなくていいと言った。
前世の氷室は——何と言っただろうか。
記憶を探った。
前世の氷室は「不純です。消してください」と言い続けた。徹底的に。笑顔の中の悲しみも、泣き顔の中の怒りも、全て「不純」として排除した。
今世の氷室は——違う。
何かが、変わっている。
あるいは——変わったのは氷室ではなく、私かもしれない。
前世の私の笑顔の中の悲しみと、今世の私の笑顔の中の悲しみは——同じものではないのかもしれない。
答えは出なかった。
ドアを開けた。廊下に出た。
*
三階のロビーに降りた。
母がソファに座って待っていた。
目が合った。
母は視線を外した。
私はソファの隣には座らず、少し離れた場所に立った。
「帰ろうか」
「……うん」
二人で建物を出た。
外は夕暮れだった。八月の空に、夕焼けが広がっている。
母は先を歩いていた。私は半歩遅れて、その後ろを歩いた。
母が一度だけ振り返った。
私の左頬を、一瞬だけ見た。
それから、前を向いた。
何も言わなかった。
私も何も言わなかった。
夕焼けが、アスファルトを橙色に染めていた。
契約書の第十二条が成立した。橘への道が、一段近づいた。
だが今日——氷室が言った。
「消さなくていいです」。
前世の氷室が言わなかった言葉。
その一言が、第十二条と同じ日の記憶の中に、並んでいた。