血を吐く天才子役は、完璧な嘘で大人を殺す 〜25歳で壊された元・国民的妹、7歳の身体で芸能界の闇を喰い尽くす〜   作:アホ面オムライス

9 / 10
第9話 第十二条

 八月。ドラマの撮影は中盤に入っていた。

 

 視聴率は第一話が十八パーセント、第五話で二十一パーセントに上昇し、掲示板の「コトネ考察スレッド」はパート三に突入していた。

 

 撮影のない水曜日の夕方。

 

 母がリビングのテーブルに書類を広げていた。加藤マネージャーがFAXで送ってきた契約書。サンライトとの専属契約の改定だ。

 

「ギャラが上がるのよ、雫。出演料のベースが今の倍」

 

 母の声は弾んでいた。

 

 私はソファに座ったまま、母から書類を受け取った。

 

 A4用紙で十二ページ。

 

 一ページずつ、読んだ。

 

 八ページ目で、指が止まった。

 

「第十二条 専属マネジメント権の第三者委託に関する付帯条件」

 

 文章は短かった。

 

 要約すれば——サンライトは、雫のマネジメント権を第三者に委託できる。委託の際、母の同意は条件としない。

 

 前世でも、この条項を使って橘への「引き渡し」が行われた。

 

 気づいた時には手遅れだった。

 

「お母さん。ここ」

 

 指で第十二条を示した。

 

「"マネジメント権を第三者に委託できる"って書いてある。お母さんの同意がなくてもいいって」

 

 母は契約書を覗き込んだ。眉をひそめている。条文の上を滑る目。

 

「……委託? 何のこと?」

 

 知らない。

 

「私の仕事を管理する権利を、知らない人に渡せるってことだよ」

 

 母の表情が曇った。「突かれた」顔ではなく「聞いたことのない危険を突きつけられた」顔。

 

「そんな……でも、サンライトの契約書よ?」

 

「おかしいよ、お母さん」

 

 声が七歳にしては冷静すぎた。母の目が鋭くなった。

 

「——私だって、わかってるわよ」

 

 わかってる。

 

 だが第十二条を「知らなかった」母が「わかってる」と言った。矛盾している。条文の意味は理解していない。だが「わかっている」ことが、別にある。

 

 自分が誰かの駒であること。それを止める力が自分にはないこと。

 

「いいから。お母さんが決めるの」

 

 母がボールペンを握った。

 

「お母さん、待って——」

 

 母の右手が、私の左頬を打った。

 

 

 パン、という乾いた音。

 

 痛みが遅れて来た。

 

 そして身体が崩壊した。

 

 手足が震え始めた。全身。視界の周辺部から色が消える。呼吸ができない。横隔膜が硬直している。

 

 前世で母に叩かれたことはない。

 

 この身体はこの衝撃を「初めて」受けている。七歳の自律神経が全回路をシャットダウンしようとしている。

 

 床にうずくまった。

 

 一分。呼吸が戻り始めた。

 

 母の足音。私から離れていく。近づいてこなかった。

 

 五分。震えが収まる。

 

 母が台所に行った。コップに水を入れている。足音が近づき、コップが床に置かれた。手の届く範囲に。

 

 母の手が——私に触れなかった。水を置いて、離れた。

 

 九分。水を飲んだ。

 

 十分。壁に背をつけて座った。

 

 母はソファに座っていた。リモコンを握りしめている。テレビは消えたまま。

 

 母の横顔。恐怖。自分が何をしたのか理解した人間の顔。

 

 母はボールペンを拾い上げた。

 

 契約書に、サインした。

 

 手が震えていた。

 

 止められなかった。

 

 

 翌朝。

 

 台所に降りると、母が朝食を作っていた。

 

 テーブルの上に——小さな皿に盛られた苺。八月の苺は高い。季節外れだ。

 

「ほら、食べなさい」

 

 昨夜のことには触れない。

 

 苺を一つ口に入れた。甘かった。

 

「おいしい」

 

「そう。よかった」

 

 母の声は素っ気なかった。

 

 苺の甘さと、頬の熱さが、同じ朝の食卓に同居している。

 

 苺を買う手と叩く手が、同じ手だ。

 

 テーブルの向こうに封筒がある。契約書が入っている。母はその封筒を見ないようにしている。

 

 学校に行く時間になった。母は玄関まで送ってきた。

 

「行ってらっしゃい」

 

「行ってきます」

 

 三歩歩いて振り返った。

 

 母が玄関に立っていた。ドアを閉めずに、こちらを見ていた。

 

 その目に何があったのか。距離がありすぎて読めなかった。

 

 

 放課後。自分の部屋。

 

 ベッドに座って状況を整理した。

 

 第十二条は成立してしまった。サンライトが——神崎が——私のマネジメント権を橘に渡す法的根拠が生きている。

 

 だが発動のタイミングは、橘が「引き渡し」を要求した時だ。要求するには橘が私を「完成品」と判断する必要がある。判断は氷室の報告に基づく。

 

 氷室が「まだ完成していない」と報告している間は、引き渡しは起きない。

 

 法的な盾は失った。だが時間は——まだある。

 

 ガラケーを開いた。蓮にメールを打った。

 

「昨日、お母さんに叩かれた」

 

 送信してから——躊躇があったことに気づいた。蓮に家庭の問題を晒すことが正しい判断なのか。

 

 だが蓮は手首に痣がある少年だ。

 

 三分後、返信。

 

「大丈夫か」

 

「大丈夫。——契約書にサインされちゃった。私の仕事を管理する権利を、知らない人に渡せる条項が入ってた」

 

 一分後。

 

「渡せる相手って、誰だ」

 

「まだわからない。——たぶん、橘聡一郎って人。この業界の裏にいる人間だと思う」

 

 橘の名前を出すのは、蓮に対して初めてだった。

 

 二分後。

 

「橘って、どこで知ったんだ」

 

「……噂で。業界にいると聞こえてくることがある」

 

 嘘だ。胃が揺れた。前世の記憶からだとは言えない。

 

「そいつが、お前を管理するってことか」

 

「契約書的には、そういうことになった」

 

 しばらく返信がなかった。

 

 五分後。

 

「お前、昨日叩かれて、今日それを俺に送ってきたのか」

 

 言葉の意味を、蓮が確認している。

 

「うん」

 

「……なんで」

 

 なぜ送ったのか。

 

 自分でも整理できていなかった。

 

「蓮くんは手首に痣があった。同じ場所にいる人間だと思ったから」

 

 返信に時間がかかった。

 

 七分後。

 

「そうか。——お前、頬は大丈夫か」

 

「腫れてない。昨夜より引いた」

 

「ならいい。——契約書の件、他に何かできることがあったら言え」

 

 それだけだった。

 

 解決策を出さなかった。同情もしなかった。「何かできることがあったら言え」だけだった。

 

 この返し方が——蓮らしかった。

 

 

 翌週。氷室のレッスン。

 

 四階のレッスン室。パイプ椅子。鏡。

 

 氷室が切り替え訓練の記録をつけている間、私は鏡の中の自分を見た。

 

 左頬。腫れは完全に引いていた。だが昨夜の鏡では、うっすらと赤みが残っていた。今日は見えない。

 

 氷室は気づかなかったか、あるいは気づいて黙っているか。

 

「今日は切り替え速度の記録が前回より〇・〇二秒改善しています」

 

 氷室の声。事務的な確認。

 

「はい」

 

「ただし——笑顔の持続時間に、わずかなブレがあります。笑顔を維持している間に、別の感情が混入している。何を考えていましたか」

 

 何を考えていたか。

 

 母の横顔。震えていた手。「わかってるわよ」という声。サインした後の、リモコンを握りしめていた手。

 

「……何も考えてなかったです」

 

「嘘です」

 

 氷室が言った。声のトーンは変わらない。

 

「笑顔の中に、悲しみが〇・〇三秒混入していました。悲しみの混入は、何か悲しいことを考えている時か——あるいは、今笑っていることへの違和感がある時に起きます」

 

 氷室は私の目を見ていた。

 

「どちらですか」

 

 どちらか。

 

 両方だ。だがどちらとも言えない。

 

「……どちらでもないです」

 

 氷室は三秒、私を見つめた。

 

 それから、ノートパソコンに何かを打ち込んだ。

 

「もう一度」

 

 レッスンが再開された。

 

 笑顔を作りながら——氷室が「嘘です」と言った一言が、頭の隅に残っていた。

 

 氷室は嘘を見抜く。声のトーンでも、顔の筋肉の動きでも。

 

 それは当然だ。氷室は子供の感情を計測し続けてきた人間だ。

 

 だが今日氷室が見抜いたのは——演技の嘘ではなく、私の内側の嘘だった。

 

 何も考えていない、という嘘。

 

 氷室は私の顔から、悲しみを読んだ。

 

 

 レッスンが終わった。

 

 氷室がパソコンを閉じた。

 

 部屋を出る直前——足が止まった。

 

 振り返らないまま、言った。

 

「一ノ瀬さん」

 

「はい」

 

「笑顔の中の悲しみは——消さなくていいです」

 

 予想していない言葉だった。

 

「え……?」

 

「完璧な笑顔より、悲しみが滲む笑顔の方が、人の心に届くことがある。消すことは、誰にでもできます。滲ませることは——あなたにしかできないかもしれない」

 

 氷室は振り返らなかった。ドアを開けて、出て行った。

 

 ヒールの音が廊下を遠ざかっていく。

 

 両足、均等だった。

 

 一人のレッスン室で、鏡の中の自分を見た。

 

 笑顔の中の悲しみ。

 

 氷室はそれを消せと言わなかった。消さなくていいと言った。

 

 前世の氷室は——何と言っただろうか。

 

 記憶を探った。

 

 前世の氷室は「不純です。消してください」と言い続けた。徹底的に。笑顔の中の悲しみも、泣き顔の中の怒りも、全て「不純」として排除した。

 

 今世の氷室は——違う。

 

 何かが、変わっている。

 

 あるいは——変わったのは氷室ではなく、私かもしれない。

 

 前世の私の笑顔の中の悲しみと、今世の私の笑顔の中の悲しみは——同じものではないのかもしれない。

 

 答えは出なかった。

 

 ドアを開けた。廊下に出た。

 

 

 三階のロビーに降りた。

 

 母がソファに座って待っていた。

 

 目が合った。

 

 母は視線を外した。

 

 私はソファの隣には座らず、少し離れた場所に立った。

 

「帰ろうか」

 

「……うん」

 

 二人で建物を出た。

 

 外は夕暮れだった。八月の空に、夕焼けが広がっている。

 

 母は先を歩いていた。私は半歩遅れて、その後ろを歩いた。

 

 母が一度だけ振り返った。

 

 私の左頬を、一瞬だけ見た。

 

 それから、前を向いた。

 

 何も言わなかった。

 

 私も何も言わなかった。

 

 夕焼けが、アスファルトを橙色に染めていた。

 

 契約書の第十二条が成立した。橘への道が、一段近づいた。

 

 だが今日——氷室が言った。

 

 「消さなくていいです」。

 

 前世の氷室が言わなかった言葉。

 

 その一言が、第十二条と同じ日の記憶の中に、並んでいた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。