ハセオ草紙!~銀のスプーンを守る大食い美少女と同居して格ゲーで世界を救います~ 作:兵藤晴佳
それでも、選手特権で無料となっている飲み物くらいは取って来られる。
紫衣里の分も売店で貰ってこようとしたところで、天然水のペットボトルが2本、目の前に突き出された。
いつも営業スマイルの佐藤一郎が、慇懃無礼に挨拶した。
「どうぞ、紫衣里さんにも」
それを当然のように受け取った紫衣里は、続けざまに2本とも一気に飲み干した。
それを穏やかな笑みで見下ろした佐藤は、僕の隣に腰を下ろす。
深々と頭を下げると、称賛の言葉を並べ立てた。
「脱帽いたしました。まさか、スプーンなしでここまでとは……」
どこかでスプーンを使わせてしまったら、紫衣里は僕の目の前から消える。
そういう約束になっているのを佐藤は知らない。
教えてやれば、そんなリスクのある大会に僕を誘いはしなかっただろう。
だが、僕と紫衣里だけの秘密を教えてやる気は最初からなかった。
「バカにするな……僕は長谷尾英輔だよ」
さっきの弁天小僧菊之助の真似をして、ちょっと大見栄を切ってみせる。
佐藤はそこで甲高く大笑いすると、楽しそうに手を叩いた。
「これはいい! あなたと銀のスプーンがまとめて手に入る!」
……そういう言い方は、面白くない。
勝ったほうがろくでもないことになるのだから。
専門学校への進学資金と全国の高校生への修学旅行費の援助は得られるが、僕も紫衣里もアルファレイドの籠の鳥だ。
負ければ自由の身だが、紫衣里には見限られるかもしれない。
それなのに、こう返事してしまった。
「……光栄です」
社交辞令で答えたつもりだったが、プロへの道に心がぐらつきかかった自分が怖かった。
もちろん、間違っても、紫衣里にスプーンを鳴らさせるきっかけを作ってはならない。
実力で勝てなかったら、アルファレイドが研究のためにスプーンを求めてくるだろう。
……それだけは、ダメだ。
佐藤は佐藤で、調子に乗ってまくしたてる。
「オリハルコン、賢者の石、閻浮檀金《えんぶだごん》……」
見上げた先の空の秋は、まだ遠い。
佐藤も再び、僕たちを見つめると大真面目に語りかけた。
「これらは皆、想像上の金属です。どれも、人知を超えた力を持つとされてきました」
話がいきなり大きくなった。
……とてもついていけない。
傍らの紫衣里をちらりと眺めると、真剣な目で佐藤を見据えていた。
その視線を真っ向から受け止めて、佐藤も見つめ返す。
「もしかすると、そのどれもが、紫衣里さんのスプーンを表していたのかもしれませんね」
僕一人が蚊帳の外だったせいか、佐藤は自分の夢物語に、いささか興奮しすぎているのが分かった。
これも、暑さのせいなのだろうか。
……ムチャクチャな賭けだ。
一介の高校生に、ビジネスの成否を委ねようというのだから。
そこで、分かりきったことを、語尾を上げて敢えて聞いてみた。
「僕が優勝……すると?」
念押しされてた佐藤は静かに頷いた。
「言ったでしょう、この計画に人生を賭けていると……」
低い声につい、すみませんと答えてしまって、紫衣里に肘で小突かれた。
それに気づいたのか、佐藤は苦笑した。
「大きな成果を得ようと思ったら、大きなものを失う覚悟をしなくてはなりません」
確かに僕も、紫衣里と暮らしていこうと思ったら、この勝負は受けなくてはならなかった。
そんな僕の思いが分かったのか、佐藤は小首をかしげて目を細める。
「それがバランスというものです」
一生に一度しかない板野さんの修学旅行は、佐藤の人生と同じ重さを持っていることになる。
だが、そこで厳しく冷たい声が口を挟んだ。
「μ πάντ ἐφίεσθαι κρατεῖν」
あとで書いてもらったところによれば、ギリシャ語らしい。
文字を見てもわからないのだから、聞いたときは魔法の呪文でも唱えたのかと思った。
奇跡は起こらなかったが、言葉の響きには、夏場だというのに僕も全身が凍り付いた。
「……紫衣里?」
佐藤もまた、その場に硬直していたが、やがて元の仮面のような営業スマイルに戻ると、楽しそうに告げてみせる。
「何もかも、思い通りにしようとしないほうがいい……ソフォクレス『オイディプス』ですね。心しておくことにしましょう。」
穏やかな声に覆い隠されたものを暴こうとするかのように、紫衣里は鋭い眼差しで佐藤を見据えた。
「あなたがたの思い通りにはなりません。私も、英輔さんも」
「私も、自分のものでなかったものに見捨てられたくはありませんので」
軽く受け流した佐藤が席を立つと共に、試合開始を告げるアナウンスが響き渡った。
慌てて振り向いた笑顔は、意外なことに仮面ではなかった。
生き生きとした顔で、言い忘れていたことを告げる。
「そうそう……あなたはこう言うべきだったんです、この勝負を受けるとき」
何のことか分からずに唖然としていると、試合を見ようと前の席へ詰める観客の群れへと歩き出す。
「もし勝ったら……俺の女に手を出すな、と」
あなたを尊敬します、の声が続いて聞こえたときは、もう、その姿はなかった。
……板野さんの修学旅行経費を要求したときは、「君」呼ばわりだった。
呆然としていた僕は、紫衣里の声で我に返った。
「決勝戦!」
そのとき、初めて気付いたことがあった。
「紫衣里、さっき、僕を名前で……」
そのとき、僕の名前がステージでコールされた。
おかげで、大事な一言は、寝坊して口にくわえた食パンのように飲み込まざるを得ない。
「早く!」
会社に遅刻しそうなダンナを送り出す奥さんのような口調で急かされて、僕はステージに駆け上がる。
おかげで、紫衣里が僕を「英輔さん」と呼んだことの意味は、確かめられずに終わってしまった。
僕が初めて、紫衣里を名前で呼び捨てにしたことも……。