ハセオ草紙!~銀のスプーンを守る大食い美少女と同居して格ゲーで世界を救います~ 作:兵藤晴佳
どこかで聞いたような、高い金属音だった。
細い針で鼓膜をなぞるような……。
身体の中で、何かがぞくぞくと動きはじめた気がする。
おかしな言い方だが、気持ちの悪い快感とでも言おうか。
20歳になっていないからよく分からないが、煙草や酒は、嫌いな人にはこんなふうに感じられるものなのだろうか。
もっと極端な表現が、頭の中に浮かんだ。
……麻薬?
そこで、思い出した言葉があった。
……「目覚めますね、人類が……それなしじゃいられなくなるくらい」
どこかに影を宿した佐藤の営業スマイルが頭に閃く。
僕は怒りで、奥歯を強く噛みしめた。
……そうか、これが!
風速80㎞の風に晒された軌道エレベーターに仕込まれた、疑似スプーンの金属が奏でる音なのだ。
この音が聞こえる限り、すべての人類には、あの感覚と力が保証される。
高揚感と、自分を縛っている何かが消し飛んだかの様な解放感。
頭の中で火花が走り、それまで失われていた力が一気に指先に流れ込む感覚。
紫衣里と会ったあの日、鬼の目をした老人の技を破ったコントローラー操作は、自分でもどうやったのか未だに分からない。
……みんなは?
会場に目を遣ると、誰もが拳を突き上げ、歓声を上げて、手間のかかるクリームヒルトの鎧装着プロセスに熱狂している。
いわゆる、ゲーム内イベント発生というやつだ。
おかげで、疑似スプーンの金属が発する微かな音には誰も気づかないらしい。
……この辺り、アルファレイドも抜かりがない。
そこで、インカムが佐藤の声を拾った。
「本来、試合中に運営は口を挟まないものですが……ゲーム内イベント終了までだいぶん間がありますので、お許しください」
……ふざけるな。
ゲームへの干渉そのものよりも、それができる余裕が気に食わない。
イベント発生時にはコントローラーが利かないと分かっているので、腹立ちまぎれにボタンを連打する。
弱中強投げ蹴り防御。
その間にも、クリームヒルトの変身は続く。
美しく均整の取れた身体が、燃える炎に包まれる。
それは足元から胸元へと、新たなドレスに変わっていった。
赤は黒に、黒は深い紫に。
それに合わせて、佐藤は板野さん……いや、HILDE育成プロセスを語りはじめた。
「真面目な方ではありますが、その分、疲れるのも早い。1週間で歌やダンス、プロゲーマーのテクニックを習得するには、この音が必要でした。雑音の入らない空間では、集中力と記憶力、反射速度を極限まで高めてくれるのです」
ドレスをまとったクリームヒルトの身体に、黒い霧が煙のようにまとわりつく。
何かの意志を持って捕らえこんだものを、放すまいとしているかのようだ。
霧はドレスも素肌も構わず這い上るそばから、漆黒の金属と化していく。
さらに、佐藤はご丁寧にも、この軌道エレベーター基盤部の仕組みまで説明してくれた。
「本来はケーブルを振動させるのですが、完成までどれほどかかるか分かりません。代わりに、内壁に疑似スプーンの金属を使用いたしまして、強い風の代わりに音波を使います。つまり……お分かりでしょう?」
僕は興奮のるつぼと化した会場を見渡した。
オタクたちが絶叫する。
それは、眺めてみたスマホの向こうのユーザーまで熱狂させていた。
「Erwache, Königin!」(目覚めよ、女王!)
「Zeige uns dein Gericht!」(断罪を示せ!)
「Königin der Rache, führe uns!」(復讐の女王よ、我らを導け!)
僕は紫衣里を見下ろした。
白いワンピースの膝に、握りしめた拳を置いて、ぴくりとも動かない。
僕の返事がないので、佐藤は手品の種明かしを始めた。
「この熱狂を会場のマイクが拾いまして、場内を囲むアンプで増幅いたします。これが音響スタッフとプログラマーによる絶妙なプリセットで、一種の音の渦……いや、竜巻を作るわけですね。ワールドタイトルマッチのときのような……」
あのとき感じた熱狂の上昇気流は、単なるイメージではなかったのだ。
この会場にいる人たちを巻き込んで、巨大な怪物のように荒れ狂っている。
同調するフォロワーを、フィービーさえも止められないようだった。
配信動画に映る顔が、恐怖でこわばっている。
「CHAT WAIT—WAIT—STOP!! Something’s WRONG!!」
(みんな待って――待って――止まって!! なんかおかしいって!!)
「Guys?? No no no no this isn’t normal!!」
(ねえ、そこの人たち? だめだめだめだめ、これ絶対普通じゃない!!)
返信コメントはもう、追うのがいやになるほど意味不明なものになっていた。
会場のユーザーにこれを見る余裕があったところで、何の制止にもならない。
佐藤は、この現象を淡々と説明した。
「まあ、一種のエコーチェンバー効果ともいいましょうか。狭い部屋の外の人間には、中のことなどどうでもいいでしょう」
頭の中で、ワールドタイトルマッチの客席に見たものと、この観客の熱狂ぶりがつながった。
佐藤に尋ねる声が震えていた。
「つまり、この音が、時速80㎞の風の代わり?」
ちょっと考える声を鼻に共鳴させるのが聞こえて、返事があった。
「今はそこまでじゃありませんが、とにかく、これが内壁を振動させて、その音が板野さんのインカムだけに入っているわけです」
クリームヒルトの肩当ては銀から黒紫へ変わる。
ガントレットは赤黒い炎を宿し、大剣は血のような深紅に染まった。
その足元を中心として、血の色をした輪がひとつ、波紋のように走る。
気力ゲージは、「復讐」から「断罪」に変わった。
発生イベントはもうすぐ終わる。
僕は筐体のコントローラーに手を置いた。
佐藤は、釈明で話を締めくくった。
「これだけうるさいと、疑似スプーンの音はじかに聞いても役に立ちません。また、効果があるのは最初に音の影響を受けた人だけです。私どもの至らなさに、恥じ入るばかりですが」
そこで、僕はインカムで板野さんに向かって叫んだ。
「外せ! 外すんだ、このインカムを!」
板野さんは答えない。
代わりに、佐藤の声が面倒臭そうに戻ってきた。
「意志確認は、事前にしてありますので悪しからず……あ、そうそう」
いつになく低い声が、始めて聞く真剣さで尋ねてきた。
「長谷尾さんが何も感じないということは……もしかして聞きました? 紫衣里さんのスプーンの音」
そこで佐藤は口を閉ざしたようだった。
暗紫色の鎧に身を包んだ「断罪」モードのクリームヒルトが、決めのセリフに入ったのだ。
「――罪ある者よ。私の裁きの中に沈みなさい。」