ハセオ草紙!~銀のスプーンを守る大食い美少女と同居して格ゲーで世界を救います~ 作:兵藤晴佳
心が再び目覚めた。
「板野さん?」
観客の善意の声援が会場内に渦巻く風となって、内壁に仕込まれた疑似スプーンを発動させているのだ。
だが、今までとは板野さんの様子が違う。
インカムから聞こえてくる声は、半狂乱の悲鳴に近かった。
「いやだ! いやだいやだいやだいやだ……」
僕はインカム越しに、佐藤を怒鳴りつける。
「これもアルファレイドが残したバグだっていうのか!」
だが、正気を失いかかっていたのは板野さんだけではなかった。
叫び続ける板野さんの声に混じって、佐藤の声が遠いところから聞こえる。
「止めろ! 何かおかしい、止めろ止めろ止めろ!」
あの慇懃無礼さも冷静さもない。
ただ事ではない、と感じたとき、更に遠い声が苛立たしげに答えた。
「何言ってんですか……じゃあ主電源切ってきて下さいよ! 軌道エレベーターの!」
技術的なことは分からないが、これだけは言い切れる。
……止められない。勝たない限り。
ゲームオーバーにしてしまえば、この試合からもアルファレイドからも、板野さんは解放される。
だが、その悲鳴は急に止んだ。
代わりに、クリームヒルトの声は高らかに響き渡る。
「
それは、板野さん自身の声のようにも聞こえた。
封印されていた必殺技が発動すると、スクリーンにはイベントが発生した。
天から降り注ぐ光を浴びた、白いドレスのクリームヒルトの背後に、ひとりの偉丈夫が現れる。
涙に濡れた顔が振り向いた先には、金色の鎧をまとった勇者がいた。
ジークフリートだ。
その胸の中に、両手を広げて駆け寄ったクリームヒルトが飛び込む。
しっかりと抱き合う、ゲルマンの英雄と復讐の女王。
そのふたつの心が、今、ひとつになった。
今、シラノの前に立っているのは、プラチナのドレスをまとったクリームヒルトではない。
魔剣バルムンクを手に立ち尽くす、ジークフリートだ。
背後からは、クリームヒルトの大剣が襲いかかる。
……「
ジークフリートの影を身代わりにしてカウンターを狙う技だから、先制攻撃には意味がない。
だが、その身体は白い光に包まれたかと思うと、必殺の構えを取った。
その背後には、ニーベルンゲンの幻影が次々に現れる。
燦然と輝く玉座。
戦場から蘇った騎士たち。
そして、ジークフリートに倒された竜の咆哮が、スクリーンを震撼させた。
「
天の光に輝くバルムンクが、幻影の騎士たちと共に、シラノに向かって突き進む。
本当にダメージが来るのなら、逃げようがない。
自分で使った技だけに、その威力はよく分かっていた。
……ここは、「
スティックを掴んでコマンドを入れようとしたところで、手が止まる。
……耐えられるのは、一撃だけだ!
2対1では、反撃しようにも、その前にクリームヒルトの大剣がシラノを絶命させる。
……だったら、2対2だ!
召喚技には、召喚技だ。
シラノにも、「
シラノが愛するロクサーヌをめぐって友情に悩むことになる、親友クリスチャン・ド・ヌーヴィレットを出現させる技だ。
スティックを反対方向に入れようとして、はたと気づいた。
……コマンドは、右向きで左・下・ 右・左・下・右・右上+「強」攻撃。
すんでのところで、手を止める。
スティック操作は、
その上、「2回転」は、間違いなく指を壊して選手生命を絶つのだ。
……どうする?
その迷いが、命取りになった。
「
落下したところで、幻影の騎士たちが襲いかかる。
ここでシラノが立ち上がれば、その首を、クリームヒルトがパワー全開の三角切りで斬り飛ばすことだろう。
……ごめん、板野さん。
あの笑顔は、もう見られないかもしれない。
……紫衣里。
ゲームセンターで挑戦してきたときの、いたずらっぽい目つきを思い出す。
アパートにやってきたときの、気まずい空気。
極貧生活。
ワールドタイトルマッチで見せた食欲。
夏の太陽の下での励まし。
……「大丈夫」。
そこで気づいた。
気力ゲージ「武勲《いさおし》」は最高潮だ。
さらに、瀕死の状態でとどめを刺されかかっている。
こんなレアな条件が揃うのは、初めてだった。
……今なら。
幻影の騎士に押しつぶされかかったシラノが、身体を起こす。
クリームヒルトの三角斬りが一閃する。
観客席の歓声も、頂点に達していた。
そのとき、インカムの向こうで板野さんの絶叫が聞こえた。
「いやあああああ!」
身体が勝手に動く。
コマンドは、下・右下・右……。
……間に合わない!
絶望の中、僕の目は眼下の観客席へと落ちた。
紫衣里が僕を見上げていた。
あのガラスの瞳で。
出会ったときの、あの白いワンピース姿で。
遠目にも白い、しなやかな指が、豊かな胸元に向かう。
そこにあるのは……
……だめだ、紫衣里!
目で制したが、それが伝わったかどうか。
いや、きっと伝わっただろう。
……伝わったに決まっている!
だが、紫衣里の指は弾いていた。
胸元に下がるものを。
……銀の、スプーン。
澄み切った音が響き渡った。
軌道エレベーター基盤部に設けられたエキジビジョンマッチ会場を、観客席の歓声が揺るがしている。
それでも、僕の耳には、紫衣里の銀のスプーンが、清らかな残響を残していた。
頭の中が冴えわたる。
……紫衣里!
全身の神経に、火花が走る。
身体の底で燃え上がるものがあった。
心の叫びから断ち切られた指が、残りのコマンドを神速の動きで入力する。
……下・右下・右 + 強攻撃。
クリームヒルトの三角斬りが放たれることはなかった。
毅然として立ったシラノの声が、詩を紡ぎだす。
「俺の鼻がそんなに見たいか? 嘘と妥協と卑怯の亡者ども……」
スクリーン上には、その言葉が文字となって浮かぶ。
イベント発生だ。
シラノの詩はまだ続く。
「どうぞ仲良く……まっぴらごめんこうむる!」
胸の前で、レイピアを立てて構える。
「欲しくば持っていけ、月桂樹の冠も、バラの花束も……」
跳ね上げられたシラノの羽根帽子。
その下には、血染めの包帯で巻かれた頭がある。
詩は、まだ終わらない。
「だがな、貴様らにゃ持っていけんものがある」
振り上げられたシラノの剣が、月の光を浴びて輝いた。
「そいつはな……」
シラノのレイピアが、横薙ぎに一閃する。
「
画面が白くフラッシュした。
その光が収まると、ニーベルンゲンの伝説たちは抗う術もなく立ち尽くしていた。
ガード不能級の必殺技だ。
無限に広がる剣の衝撃波が、騎士たちも竜も玉座も、幻影をまとめて吹き飛ばす。
その破片が、刃となって一気に逆流する。
かのローレライが多くの船人を禍々しい歌で沈めたという、ライン川の激流のように。
それが向かう先は、ゲルマンの英雄だった。
金色の鎧に身を包んだジークフリートが、魔剣バルムンクを振るう間もなく消滅する。
残されたクリームヒルトは、それをただ見つめるしかなかった。
その目の前に、シラノ・ド。ベルジュラックは静かに歩み寄る。
胸の前に剣を構えて礼を示したかと思うと、悲劇の女王に最後の一突きを捧げた。
クリームヒルトは白いドレスの裾を引いて、ゆっくりと倒れ伏す。
その後に、ふわりと降ってきたものがある。
鍔広の帽子だ。
それを高く掲げた手で受け止めると、シラノはひょいとかぶって詩を締めくくる。
「……この俺の、