ハセオ草紙!~銀のスプーンを守る大食い美少女と同居して格ゲーで世界を救います~ 作:兵藤晴佳
今になって考えても、不思議だった。
海風が吹き付けてくる、伊勢湾上の軌道エレベーター基盤の上とはいえ、炎天下だったことは覚えている。
「紫衣里!」
張り出しをぐるっと回りながら、あるいは軌道エレベーター基盤の東西南北、果ては海の彼方に向かって、どれほど叫んだことだろうか。
勝利の喜びをいちばん分かち合いたい人は、どれだけ呼んでも返事をしてくれない。
気が付けば、フィービーたちもいなくなって、僕は長い影を落としながら、夕日を背に立ち尽くしていた。
立っているのもやっとの疲れ切った身体を何とか支えながら、最後の力を振り絞って、涸れた声で最後の望みを懸けた。
「紫衣里! どこだ!」
「ここです」
求めてはいても思わぬ返事に、背筋が凍った。
紫衣里のものではないが、聞き覚えのある声だった。
「紫衣里は……?」
振り向いてみると、張り出しの端に、あの影が立っていた。
顔は、影になっていて見えない。
だが、僕を見据えるその目は、ひと月前に見たものと同じだった。
……鬼の目。
今日という期限を切って紫衣里を預けた、あの老人だった。
僕は息を呑んで、その目を見つめ返した。
両の拳を握りしめ、胸を張って、もう一度だけ尋ねる。
「紫衣里は、どこですか?」
つかつかと歩み寄ると、その骨ばった指が、僕の胸元に突きつけられた。
あの、古いバイオリンのような声が、僕の五感に粘りつく。
「あなたの心の中に」
30年や40年前のアニメや漫画に出てきそうな、使い古されたセリフだった。
「ふざけないでください!」
「ふざけているのはそちらです」
駄々をこねる子供の言い分を、一刀両断に斬り捨てるような口調だった。
「な……」
口をぱくぱくさせる僕を、老人は低い声で責めた。
「たったひと月、なぜ待てませなんだ。使わないで共に暮らせば……」
老人は、どこか悲しそうな笑顔で告げる。
そのとき、僕はもう紫衣里と暮らすことができないのを知った。
……ひと月の間、紫衣里に、胸元に下げた銀のスプーンを鳴らさせてはならない。
そういう約束だった。
だが、見苦しいとは思いながらも、僕は食い下がった。
「いや、僕は止めました!」
紫衣里がスプーンを使わなくてもいいよう、e-スポーツを辞めるつもりでさえいたのだ。
それから、喧嘩してでも親を説得して学校も辞めて、仕事を探して死に物狂いで働いて……。
……女の子が生まれても、こいつらには渡さないつもりだった。絶対に。
だが、老人は静かな、しかし厳しい声で問い返してきた。
「ならば、なぜあなたはここにいなさる?」
老人の言う「ここ」がどこなのかは、よく分からない。
この、伊勢湾上の張り出しのことなのか。
軌道エレベーターの基盤部のことなのか。
それとも、〈リタレスティック・バウト・ザ・ビヨンド〉エキジビジョンマッチの会場のことなのか。
いや、その勝者の立場のことなのか。
それとも……。
僕はうつむいて考えた。
……分からない。
分からないが、答えるしかない。
食いしばった歯をこじ開ける。
「それは……」
板野さんのためだ。それは多分、紫衣里の望んだことでもある。
だが、それは老人の知ったことではないだろう。
……選んだのは、僕だ。
張り詰めた心がしぼんで、肩が落ちる。
鬼の目をした老人は、あの古いバイオリンの声で、僕を諭すように言った。
「あのスプーンは、何があろうと使ってはならないものでした。その効果を知れば、使わないではいられなくなります」
だから、僕はアルファレイドと戦ったのだ。
だが、人間の業を斬った老人は返す刀で、その切っ先を僕に突きつけた。
「それは、あなたもご存知ではなかったのですか?」
学校で教員に叱られたことはない。
だが、何か抜き差しならない事情で校則を破って、問い詰められるときはこんな気持ちになるのだろうと思った。
この夕日が沈んで夜が明ければ、僕は再び、そんなことがあるかもしれない生活に戻るのだった。
……9月1日を、紫衣里と迎えることはない。
「知りたいですか? 紫衣里が、なぜあなたと共にここまで来たのか」
僕は大きく頷いた。
「たぶん、ここに来ることは僕の本心でした。でも、紫衣里を失うくらいだったら……」
紫衣里へのあふれる思いが胸につかえる。
だが、老人にそれ以上の言葉は必要なかったらしい。
「あなたは優しい。そして熱い心も持っている。だから紫衣里はあなたを選んだし、私も託されることを許したのです。ただ……」
海風が、どっと吹き付ける。
そこで老人は、悲しげに言葉を途切れさせた。
聞かないほうがいいのかもしれない。
だが、僕は思い切って訪ねた。
「教えてください……僕はどうすればよかったのか」
老人の寂しげなため息には、どこか、やはりあの開き直りにも似た、深い諦めが感じられた。
「どれかを捨てればよかったのです」
……何を?
勝ち続けた僕はすべてを手にしていた。
スポンサー契約。
修学旅行向け奨学金。
板野さんの解放。
……でも、紫衣里がいないなら、どうでもいい。
……勝てなくたって。
胸に大きな穴が開いて、その奥にある無限の暗闇が、僕の心も身体も吸い込んでいくような気がした。
目に溜まった熱いものがこぼれないように、顔を上げる。
まだ夏休みの最終日だから、水平線の向こうに日が沈むのは遅い。
だが、9月を前に、空にはもう、橙色をした薄い雲がたなびいている。
そこに、老人の声だけがバイオリンの独奏のように響いた。
「全てを手に入れることなど、誰にもできはしません」
どこかで聞いたようなセリフだった。
……何もかも、思い通りになると思わないほうがいい。
その意味を、老人は突き付けてみせた。
「紫衣里をあなたという人間に失望させてでも、スプーンを鳴らしてはいけなかったのです」
もっとも単純な答えは、しばしば真実を突いているものだ。
さらに、その続きがあった。
「言い換えれば……」
そこで老人は顔を上げると、僕を見据えた。
娘さんをください、と申し込みに来た男を見定めようとする父親の姿は、こんなものだろうか。
夕日が際立たせる輪郭は、京の都の朱雀門に現れたという鬼を思わせた。
何もかも見通しているかのような両の目に射すくめられて、背筋に寒いものが走る。
そのとき、記憶の底から蘇ったものがあった。
全てを、始まりに戻すかのように。
……少しでも、彼女に自由な時間をあげたい。
紫衣里を戦い取ろうとしたとき、確かに僕はそう思った。
だが、それは僕のものになるということだ。
……紫衣里は、紫衣里自身のものでしかない。
その単純な結論は、画面端に追い詰められたキャラを刺すときのように、身動きもできない僕の胸を真っ向から貫いた。
「紫衣里と心を共にすることで、他のものを選んでいたのです」
がっくりと、膝が落ちる。
僕にとどめを刺すように、あの燃えるような鬼の目をした老人は、低い声で言い切った。
「いずれ、忘れられても仕方がありますまい」
返す言葉もなかったが、それでも未練がましく、僕は尋ねた。
張り出しの上に手を付くと、少し涼しくなった海風が背中を撫でていく。
「それは、今すぐのことですか?」
海の向こうへと低く落ちていく夕日の中へと歩きながら、影となった老人の声だけが聞こえる。
「さあ……それは紫衣里次第ですが」
はっとして顔を上げると、その姿はもうない。
どこからか、古いバイオリンの音だけが聞こえる。
だが、その中には、確かに最後のメッセージがあった。
「必ずやってくる、とだけお知らせしておきましょう」……。
僕の心に、微かな期待の風が吹いた。
そこへ、夕日を遮ってやってきたものがある。
ゴトゴトというエンジン音に、聞き覚えがあった。
紫衣里と共にここへやってくるときに乗っていた、あの艀だ。
思わず駆け寄ったところで、果たして、目の前に現れた人影がある。
あの慇懃無礼な物言いが、ついさっき、ここであったことを、夕間暮れの中の一瞬の夢に変えてしまった。
「困りますね、先に帰られたかと思って、名古屋港じゅう探したんですよ?」
背広に羽織った黒いウィンドブレーカーが、海風にはためく。
その風をうるさげに手でよけた佐藤が、僕の前に一枚の板を渡した。
「ちょっと事情があって、閉会式も表彰式も端折ることになりましたが……帰りの交通費はお支払いします。お約束通りに」
だったら、と言い返そうと思って口を固く閉ざした。
……紫衣里は、もういない。
代わりに尋ねてみた。
「ひとり分ですよね?」
もちろん、と佐藤はあっさり答える。
どんな顔をしているのかは、水平線の向こうへ沈みかかる夕日の影になって、見えなかった。