ハセオ草紙!~銀のスプーンを守る大食い美少女と同居して格ゲーで世界を救います~ 作:兵藤晴佳
シートにもたれて、僕はふう、と息をついた。
しばらく天井を眺めていると、ぱらぱらと拍手の音が聞こえた。
やがてそれは、店内を揺るがす大合唱に変わっていく。
「ハセオ! ハセオ!」
「シラノ! シラノ!」
我に返って辺りを見渡すと、客が総立ちで手拍子を打っている。
呼んでいるのが僕とシラノ・ド・ベルジュラックの名前だと分かるのには、また少し時間がかかった。
声に釣られて店にやってくる客の姿も、ちらほらと見える。
あっと気づいて掌を開いてみると、汗でびっしょり濡れていた。
……ええと、スティックすぐ拭いてアルコール消毒して、と。
佐藤はというと、シートから降りることもできずに、オタクっぽい少年たちに取り囲まれていた。
ときどき白い歯を見せては、あの営業スマイルで巧みに笑いを取りながら、何やら話し込んでいる。
給湯室から雑巾とアルコール噴霧器を取って戻ると、佐藤はようやく帰り支度を始めたところだった。
激闘の中でわずかに曲がってしまったネクタイをまっすぐ直しながら、あの慇懃無礼な口調で軽く挨拶する。
「では、私はこれで」
ええ、と答えそうになったところで、はたと思い出した。
佐藤に突き出した両手を振りながら、引き留めに掛かる。
「あっと、そうだ、そもそも、何か用があったんじゃ」
ゲームに熱くなってすっかり忘れていたが、何か条件を付けられていた気がする。
佐藤はちょっと首を傾げて、さらりと答えた。
「いえ、ついでに寄っただけですから」
そう言いながら踵を返そうとするのを、その顔の前に回り込んで押しとどめる。
「えっと……いいんですか、こんなとこであんな話をして」
板野さんを無理に「ゲーマー系アイドル」に仕立て上げてまでぶつけてきた理由だ。
そんな話を再びここで持ち出すのは、佐藤にしては不用心すぎる。
「私はもう、アルファレイドの職員ではありませんので」
……え?
あまりのことに、僕は口を開くこともできなかった。
佐藤は佐藤で、立て板に水を流すように、さらさらと事情を簡潔に述べ立てる。
「秘密を洩らした咎で解雇されると分かっていたので、逆に企業を脅して退職金がわりに奨学金をせしめたんです、内部告発してやるぞって」
そこで、僕の頭の中でもようやく、ひとつひとつの出来事や言葉が、それぞれに結びついていった。
「じゃあ、ついでってもしかして……」
「就職活動です」
この男なら何でもないことだろうが、それだけに、最も必要ないことのような気がした。
「いつから、そんなことを?」
「2週間くらい前からですかね」
店長に聞かれないように、佐藤に肩を寄せて囁く。
「そうじゃなくて、いつからそんな……」
「いい人になったかって?」
アルファレイドの走狗が、飼い主の手を噛むとは。
佐藤は思わぬ返事をした。
「あなたが、賞金代わりに板野さんの修学旅行費を負担しろとおっしゃったときから」
だいたい、2ヵ月ほど前のことだ。
「もしかして……アルファレイド傘下の旅行会社っていうのは?」
そういえばあのとき、僕の要求に応じる前に、少し間があった。
佐藤は深くうなずいてから、きっぱりと答えた。
「嘘です」
あまりにも堂々とした態度に、返す言葉がなかった。
佐藤はというと、息も継がせず、さらさらとまくし立てる。
「最初は自腹切ってでも、あなたと紫衣里さんをこっちへ引っ張り込むつもりだったんですが……」
そこで初めて、ガチガチに固められた営業スマイルが解けた。
ようやく肩の荷が下りたといった顔で、佐藤は言葉を結ぶ。
「あの電話を切った瞬間、全てが頭の中でつながったんです」
その説明はなかったが、こういうことだろうと見当がついた。
奨学金という名目で、12万円は佐藤が肩代わりする。
僕を〈リタレスティック・バウト・ワールドタイトルマッチ〉に参加させる。
そこで勝っても負けても、内部告発をちらつかせて元を取るつもりだったのだ。
だが、そこで、さらに分からないことがあった。
では、と僕の脇をすり抜けていく佐藤を、再び呼び止める。
「どうして……わざわざ、ゲームなんかで……紫衣里を?」
つい、口をついて出た言葉だったが、そんなことを知りたいんじゃない。
それでも、佐藤は簡潔に、大真面目に答えた。
「腕ずくでというなら、それなりの連中を雇えば済むんですが……ひとり残らず、あのご老人に八つ裂きにされまして」
とんでもないことを笑顔で答えたところで、僕はさらに尋ねた。
「もしかして……知ってるんじゃありませんか? 紫衣里がどこにいるか」
本当に聞きたいのは、そこではなかった。
しかも、返ってきたのは見当はずれの答えだった。
「そうそう、言い訳に聞こえるかもしれませんが……相手があなただと伝えたら、寝食も惜しんでレッスンに励んでいましたよ、ご友人は」
胸がずきりと痛んだが、聞きたいのは板野さんの話ではなかった。
「しかし……惜しいことをしました。『長靴を履いた猫』、声優としてもゲーマーとしても、磨けばきっと光ったのに」
店を出ようとする佐藤に、僕はしつこく追いすがる。
「僕は紫衣里の話をしてるんです」
佐藤は背中を向けたまま、歩き続ける。
「板野さんを動かしていたのは、アルファレイドでも、疑似スプーンでもありません……あなたと同じ地平に立ちたい、ただそれだけの気持ちです」
そうじゃない。
……何のために? 何のために、ここまでするんだ?
そう聞こうとしたところで、店の出入り口までたどりついた佐藤はため息をついてみせた。
「ああ……」
そこで何かつぶやいたが、日本語ではないので聞き取れなかった。
ただ、ワールドタイトルマッチで会ったコスプレ……じゃない、フォーコンプレの言葉に似ているような気がしたばかりだ。
問い詰めようとしたところで、再び口を挟んできた者がある。
駆け寄ってきた店長だった。
「ああ、ちょっと待ってください!」
振り向いた顔には、あの営業スマイルが貼り付けられている。
「何か?」
いつになく大真面目な顔で、店長は用件を切り出した。
「職をお探しなら、とりあえず、うちで……」
こいつが入るなら、僕は辞める。
佐藤は佐藤で、具体的な話を始めた。
「時給は?」
店長は即答する。
「とりあえず、1500円」
ちなみに、僕のは1,050円だ。
佐藤は、遠慮がちに答えた。
「いえ、業務委託で2500円くらいと思って、派遣契約でよそも回ったんですが……1800円くらいが現実かと」
こいつのスキルから考えたら、安い。
だが、店長は深々と頭を下げた。
「……ご健闘をお祈りします」
その一礼は、ただ、その背中を見つめるだけの僕の代わりに、佐藤への見送りとなった。