【完結】少女忍法帖ミチルっち:忍法ブチギレの術 作:ていん?が〜
翌朝、百鬼夜行連合学院の一角にある忍術研究部の部室。
そこには、昨日の地獄のような光景が嘘であったかのように、鼻歌を歌いながら動画の編集作業に勤しむ千鳥ミチルの姿があった。
「ふんふふーん♪ 昨日の限定スイーツの食レポ動画、意外と画質がいい感じ! これなら再生数3ケタも夢じゃないかもね。イズナ、ツクヨ、見てよこれ! 私がクリームを鼻につけちゃったところ、あざとくてバズる予感がしない?」
ミチルはくるりと椅子を回転させ、満面の笑みで後輩たちに画面を見せた。
その表情には一点の曇りもなく、昨日、一人の生徒を1時間にわたって宙吊りにし、人格が崩壊するまで罵倒し続けた狂気など微塵も感じられない。
「あ……は、はい……。部長……とっても……可愛らしい、です……」
返事をした大野ツクヨの顔は、幽霊のように真っ白だった。180センチの大きな体は、いつになく小さく丸まっている。彼女の目の下には深い隈が刻まれていた。
昨夜、目を閉じれば昨日のミチルの真っ赤な形相が網膜に焼き付いて離れず、うなされては飛び起きるという生き地獄を繰り返していたのだ。
「い、イズナ……イズナも……そう思うですよ……。主殿に……見せるのが……楽しみ、で……うぅ……」
久田イズナに至っては、返事の途中で声が震え、最後には嗚咽が漏れそうになっていた。
彼女もまた、夢の中でミチルに胸ぐらを引きちぎられ、「忍法・猛省の術!」と叫ばれながら無限に説教される悪夢にうなされていた。
「二人とも、どうしたの? なんだか元気ないね。あ、分かった! 修行のしすぎで筋肉痛かな? 忍術研究部たるもの、体調管理も忍法のうちだよ! 今日は外の空気を吸って、リフレッシュしながら街頭ロケに出よう!」
ミチルは屈託のない笑顔で二人の背中をバシバシと叩いた。その手の温かさが、二人にとってはいつ牙を剥くか分からない猛獣の肉球に触れているような恐怖を抱かせる。
ミチルにとって、昨日の出来事は「ちょっとした教育」に過ぎない。彼女の基準では、日常の延長線上にある些細な出来事なのだ。
その認識のズレこそが、同行する二人にとっての最大の恐怖であった。
午後の百鬼夜行の商店街。
ミチルはハンディカメラを片手に、軽快な足取りで歩いていた。その後ろを、怯える子鹿のような足取りでイズナとツクヨがついていく。
「よし、今日はこの賑やかな通りで『忍者の隠密・食べ歩きの術』を撮るよ! ツクヨ、マイクの準備はいい? イズナは通行人のフリをして、私の背後に映り込んで忍者の気配を演出してね!」
ミチルが撮影の指示を出していた、その時だった。
「――いたぞ。あのチビのタヌキだ」
低く、野太い声が背後から響いた。
振り返ると、そこには昨日のスケバンとは比較にならないほどの屈強なスケバンが立っていた。身長はツクヨに近いほどあり、その腕はミチルの太ももほども太い。
首筋には不気味な刺青があり、手に持った鉄パイプがアスファルトを削って不快な音を立てている。
背後には、昨日ミチルに泣かされたスケバンが、腫らした顔を歪め、怯えながらも恨みがましい目でこちらを指差していた。
「あ、昨日のお姉さん! また会ったね! 昨日はちゃんと反省できたみたいで良かったよー! あ、こっちの大きいのはお友達かな?」
ミチルは人懐っこい笑みを浮かべて手を振った。煽っているわけではない。彼女は本気で「和解した」と思っているのだ。
「ふざけるな。うちの妹分をあんなボロ雑巾みたいにしやがって……。落とし前、つけてもらうぞ」
屈強なスケバン――姉貴分は、ミチルの胸ぐらを強引に掴み、軽々と持ち上げた。
「わわっ! 乱暴はダメだよ! 話し合えば分かるってば!」
「話し合いだぁ? てめえみたいなイカれたタヌキには、暴力で教え込むのが一番なんだよ!」
姉貴分はミチルの顔面に強烈な頭突きを食らわせた。ゴッ、という嫌な音が響き、ミチルの鼻から鮮血が飛び散る。
「……っ! あうぅ……」
「部長!!」
イズナが叫び、クナイを構えようとしたが、姉貴分の連れてきた手下たちが一斉に銃を構えた。
「動くんじゃねえよ、小娘。てめえらが昨日何をしたかは聞いてんだ。一歩でも動いたら、そのデカいウサギの耳から風穴空けてやるよ」
「ひっ……! ご、ごめんなさい、ごめんなさい……!」
ツクヨは極限の恐怖に震え、その場にうずくまってしまった。
姉貴分はミチルを地面に叩きつけると、その腹部を容赦なく踏み抜いた。
「がはっ……!? げほっ、げほっ……」
「昨日みたいに暴れてみろよ。ほら、どうした? てめえの得意な忍術とかいうので、私の腕を折ってみろよ」
ミチルは土まみれになりながら、必死に弱々しい声を絞り出す。
「……ま、待って……。私は……喧嘩しに来たんじゃ……。動画の……素材を……」
「あはは! 見てよ姉貴、こいつ、昨日あんなに威張ってたのに、今は泣きそうな顔してやがる! ただの運が良かっただけのチビじゃん!」
昨日泣かされたスケバンが、勇み立ってミチルの顔を蹴り飛ばした。ミチルの頬が腫れ、ハンディカメラが地面に転がり、レンズにヒビが入る。
「あっ……カメラが……。やめて……お願い……」
ミチルは必死にカメラに手を伸ばすが、姉貴分がその手を鉄パイプで踏みにじった。
「あぐぅぅッ!!」
「いい声だねえ。昨日みたいなイカれた力は出せないのか? あ? それとも、あの『キレる』ってのはただのハッタリだったのか?」
イズナは、涙をボロボロと流しながらその光景を見ていた。
「(……だめだ、昨日の部長じゃない……。あんなに強そうな人、部長が昨日みたいになったって、絶対に勝てませんよぉ……。殺される……みんな、殺されます……!)」
ツクヨも、ガタガタと歯を鳴らして震える。
「(部長……ごめんなさい……私、何もできなくて……。でも、あんな恐ろしい人……昨日の部長が束になっても、きっと……どうしようもないです……終わりだ……部室に、もう帰れないです……)」
絶体絶命。ミチルは地面に這いつくばり、血と泥にまみれて弱々しく喘ぐ。姉貴分は勝ち誇ったように、ミチルの髪を掴んで無理やり顔を上げさせた。
「おい、最後に言い残すことはあるか? そのタヌキ耳、記念に引きちぎってやろうか」
ミチルは腫れた目で、必死に姉貴分を見上げた。
「……ま、待って。……お詫びに、缶コーヒー……奢るから……。だから……許して……」
「黙れ、この『地味な努力家』が! 小細工ばっかりしてんじゃねえぞ!」
ドクン、と。
イズナとツクヨの心臓が、同期するように跳ね上がった。
その言葉。他人が聞けば「努力家」という、むしろ褒め言葉に近いようなフレーズ。しかし、ミチルの時が、止まった。
倒れていたミチルが、ゆっくりと立ち上がる。その動作には一切の無駄がなく、物理法則を無視したような静謐さがあった。
「……今、なんつった」
声のトーンが数オクターブ下がる。地獄の底から響くような、残忍な響き。
「あ? 地味な努力家っつったんだよ! お前の動画、見たぜ? あんな再生数もいかない地味な努力、ゴミ同然なんだよ――」
ドゴォォォォォンッ!!
轟音が響き渡った。
姉貴分の腕が、ミチルの肩を突き飛ばした瞬間、逆にミチルの右手が鋼鉄の万力となって姉貴分の胸ぐらを捉えたのだ。
「な……ッ!? なんだ、この、力……!?」
先ほどまで弱々しく喘いでいたミチルが、垂直に立ち上がり、自分より二回りも大きい姉貴分を片手で軽々と持ち上げた。
ミチルの顔は、もはや赤を通り越してどす黒い怒りに染まっている。
「地味……? 努力家……? ふ、ふざけるな……。ふざけるなぁぁぁぁぁッ!!」
ミチルの絶叫が、商店街の窓ガラスを震わせ、通行人たちを硬直させた。
「私の! 忍道は! 華麗で! ダイナミックで! エキサイティングな! 最先端のエンターテインメントなんだよッ!! それを……『地味』だと!? 『努力家』だと!? 私がただコツコツ頑張ってるだけの凡人だとでも言いたいのかッ!!」
「が、はっ……!? な、なんだこの力……離せッ!」
姉貴分はパニックになり、ミチルの顔面に何度も拳を叩き込んだ。ドカッ、バキッ、という生々しい音が響く。
普通の少女なら鼻骨が砕け、意識を失うような衝撃。
しかし、ミチルは微動だにしなかった。
殴られた衝撃を無視し、逆にスケバンを掴む手に力を込める。ミチルの指がスケバンの鎖骨に食い込み、ミシミシと音が鳴った。
「痛くないのか!?化け物めッ!!」
「痛い?そんなことよりお前の言葉の方が、私の魂を傷つけてるんだよッ!!」
ミチルは吠えながら、スケバンを掴んだまま近くのレンガ壁へと突進した。
ドゴォン!!
「あがはっ!?」
スケバンの背中が壁に叩きつけられる。衝撃で壁に蜘蛛の巣状の亀裂が走った。
「答えろッ! 地味とはなんだ! 努力家とはなんだ! お前は私の動画のコンセプチュアルな芸術性を1ミリでも理解して口にしたのかッ!!」
ドゴォン!!
二度目。さらに深い亀裂。スケバンの口から血混じりの唾液が飛ぶ。
「い、嫌だ……助けて……!悪かった、悪かったから!!」
「何が悪かったか言えッ!私の動画を『地味』という言葉で括ったお前の貧困な語彙力と、クリエイティビティに対する不敬を!論理的に!140文字以内で! 簡潔に述べろぉぉぉッ!!」
ドゴォン!!
三度目。もはや壁の一部が崩落し、レンガの破片が地面に散らばった。スケバンは白目を剥きかけ、体から力が抜けていく。
「ひ、ひぃぃ……部長……もう、もうそれくらいで……あ、相手が死んじゃいます……! お願い、誰か止めて……誰か、警察を……!」
ツクヨがガタガタと震えながら、顔を覆って叫んだ。
「い、イズナ……怖いです、昨日の比じゃないです……! 部長が、部長がまた壊れちゃいました……! 部長の目が、もう人間じゃありませんよぉ……!」
イズナも、恐怖で失禁しそうになりながら、腰が抜けてその場から動けない。
「あ、あんなに強そうな人が……ただのゴミみたいに……。部長、もういいです、もう許してあげてくださいですよぉ!!」
しかし、ミチルには二人の悲鳴など届かない。
彼女の脳内は、特定のワードによって引き起こされた異常な興奮状態に陥っていた。
「ツクヨ! イズナ! 黙って見てろ! これは、忍術研究部の尊厳をかけた思想教育だッ!! この無礼者に、真の忍道……『少女忍法帖ミチルっち』の真髄を叩き込んでやるんだッ!!」
ミチルは宙吊りにした姉貴分の鼻先に自分の鼻を押し付け、目を血走らせて怒鳴り続けた。
「おい、死ぬな! 死んで逃げるなッ! 反省文を書くまでは意識を保て! 私の動画チャンネル『少女忍法帖ミチルっち』の、第14話の演出について、どこが派手だったか今すぐ3つ挙げろッ!! 挙げられないなら、また壁の強度を測らせてやるぞッ!!」
「ご……ごめん……なさい……き、綺麗でした……派手、でした……うぅ……たすけて……」
「抽象的だッ!! そんなのはテロップのミスプリントより価値がないッ!! やり直し!! もっと具体的に、どのフレームの、どのエフェクトが心に響いたか答えろ!! 第3話の爆破シーンか!? それとも第8話の夜景シーンか!? 答えろッ!!」
そこから、地獄の時間が始まった。
【30分経過】
ミチルは壁際に姉貴分を固定したまま、動画編集の苦労と、自身のセンスがいかに「地味」とは対極にあるかを延々と熱弁していた。
「いいか! 私が一本の動画にどれだけの情熱を注いでいると思っているんだ! カット割り一つに三徹するのは当たり前なんだよッ!! それを地味な努力!? そんな安っぽい言葉で私の情熱をパッケージ化するなぁぁッ!!」
「うぅ……部長、もう三十分も怒鳴りっぱなしですよぉ……。あの人の顔、もう紫になってます……!」
イズナが泣きながらツクヨにしがみつく。
「イズナちゃん……私、もう見てられない……。部長のあの声、鼓膜が破けそうだよ……。怖い、怖いよぉ……先生、助けて……!」
ツクヨは自分の巨大な耳を塞ぎ、蹲って震え続ける。
【1時間経過】
通行人たちは警察を呼ぶことすら忘れ、ただただ「銀髪の悪魔」による公開処刑に立ち尽くしていた。ミチルは時折、相手が気を失いそうになると壁に叩きつけて強制的に覚醒させた。
「起きろッ!! まだ私の色彩設計についての話が終わっていないぞッ!! 私の動画の青色は、単なる青じゃない! 忍びの孤独を表現した『ミチル・ブルー』なんだよッ! それを地味だと言った貴様は、私の色彩感覚への侮辱……万死に値するんだよぉぉッ!!」
「……ひ、ひっ……うぅ……」
姉貴分の仲間たちは、とっくに逃げ出すか、その場で恐怖のあまり失禁して動けなくなっていた。
「ぶ、部長……。もう……声が枯れてるのに……まだ怒ってる……。イズナ、もう見てられませんよぉ、夢に出ますよぉ……!!」
イズナはもはや言葉にならず、その場でお経を唱え始めていた。
【1時間30分経過】
屈強だった姉貴分は、今や幼児のように泣きじゃくり、涎と涙で顔をグチャグチャにしていた。
「私は……ゴミです……クリエイティビティの欠片もない……地味なのは……私の方です……。ミチル様は……最高のエクスプローシブ・エンターテイナーです……」
ミチルに教え込まれた通りの言葉をブツブツと繰り返すマシーンに変貌していた。
「……まだだ。まだ、心の底から『地味』という言葉を憎んでいるようには見えないな。お前のその『地味』という思考回路そのものを、私が物理的にフォーマットしてやるッ!!」
「やめて……部長、もうやめてぇぇぇッ!!」
ツクヨの悲痛な叫びも虚しく、ミチルの教育的指導はさらに苛烈さを増していく。
「ツクヨ殿……もう、部長は……私たちの知ってる部長じゃありません……。昨日のスケバンさんも、今日のあの人も……みんな、部長の手の中で壊れていくんだ……。次は……次はイズナたちの番かもしれないよぉ……!!」
イズナは、絶望のあまり虚空を見つめ、ガタガタと膝を打ち鳴らした。
そして、2時間が経過した。
夕闇が街を包み始めた頃、ようやくミチルはスケバンの胸ぐらを離した。
スケバンは壁に沿ってズルズルと崩れ落ち、ピクリとも動かなくなった。命はあるようだが、精神的な再起には年単位の時間を要するだろう。
「……ふぅ。いい運動になったね」
ミチルは額の汗を爽やかに拭い、乱れた衣装を整えた。
「さあ! イズナ、ツクヨ! お腹空いちゃったね。今日は部長の奢りで、こってりラーメンを食べに行こう! ニンニクたっぷりで、明日も元気に動画撮影だよ!」
ミチルは何事もなかったかのように、満面の笑みで後輩たちを振り返った。
「あ……あぅ……」
ツクヨはもはや声も出せず、震える足でミチルの後を追うのが精一杯だった。
「い、イズナ……もう……お家、帰りたい……よぉ……」
イズナの尻尾は力なく垂れ下がり、地面を引きずっていた。
翌日の部室で、またミチルが笑顔で「おはよう!」と言うだろう。
そして、いつ、どの言葉が、彼女を再び「あの姿」に変えるのか。
二人に安息の日は、まだ来そうになかった。