【完結】少女忍法帖ミチルっち:忍法ブチギレの術 作:ていん?が〜
ピピッ、とスマートフォンの通知音が鳴り、久田イズナは眠い目を擦りながら画面を覗き込んだ。
時刻は早朝。しかし、SNSのタイムラインは異常な熱気に包まれていた。
「……んん? 何やら、イズナたちの動画が話題になっているような……」
画面の一番上に表示されていたのは、昨日、何者かが遠巻きに撮影した「千鳥ミチルのブチギレ動画」だった。再生数は、一晩で数百万を超えている。
『これ、CGじゃないの? 壁にヒビ入ってるんだけど……』
『殴られても全く怯んでない。痛みを感じてないのか?』
『2時間ずっと説教してたってマジ? 拷問よりエグいだろ』
『なんでこんな普通の言葉でキレてるの…? 怒りのツボが分からなさすぎて怖い……』
目まぐるしく流れるコメントの数々に、イズナの目玉は文字通り飛び出さんばかりに見開かれた。
「ひ、ひぃぃぃっ!? 万バズ……万バズしてるぅ…!? いや、それ以上に中身が最悪の内容です! これでは忍術研究部が、ただの暴力集団だと思われてしまいます!」
イズナは慌てて飛び起き、震える手で身支度を整えた。
どんよりとした重い雲が、百鬼夜行連合学院の空を覆っていた。いや、そう見えているのは、久田イズナの心象風景だけかもしれない。
イズナの足取りは、まるで鉄球でも引きずっているかのように重かった。普段なら「主殿の護衛任務!」と叫びながら軽やかに跳ね回るはずの彼女の尻尾は、力なく地面を擦り、耳は限界まで伏せられている。
「……はぁ。忍び……忍者……。イズナが目指していたのは、こんな姿だったのでしょうか……?」
きっかけは、今朝見たあの動画だ。部長である千鳥ミチルが、屈強なスケバンを片手で吊るし上げ、壁を粉砕しながら二時間にわたって「思想教育」を施す映像。
それが爆発的な拡散を遂げた結果、忍術研究部の「悪名」は、キヴォトス全域に響き渡ってしまった。
そしてイズナは登校途中に、転んで荷物をぶちまけてしまった一般生徒を見かけた。困っている人を助けるのは、正しき忍びの務め。イズナは「お助けします!」と笑顔で駆け寄った。
だが、次の瞬間、その生徒はイズナの顔を見るなり、ひっと短い悲鳴を上げて顔を真っ青にさせた。
『ひ、ひぃっ!? 忍術研究部の……あの、動画の……! た、助けてください! お金なら、お金ならこれだけしかありません! だから、壁にだけは埋めないで!』
生徒は震える手で財布から全財産の千円札と小銭をむしり取ると、イズナの手の中に無理やり押し付け、脱兎のごとく逃げ去ってしまった。
「イズナはただ、お荷物を拾おうとしただけなのに……。これじゃ、忍者じゃなくて、ただの悪党……。いえ、悪魔の使い魔です……」
「イズナちゃん……」
背後から、消え入りそうな声がした。振り返ると、そこには同じく魂の抜けたような顔をした大野ツクヨが立っていた。
「ツクヨ殿……。ツクヨ殿も、何かあったのですか……?」
「うぅ……。私……さっき、コンビニで……お客さんたちが一斉に道を空けて……『サービスです! だから、部室の壁に私を埋めないでください!』って、メロンパンを三つも余分に押し付けられて……」
ツクヨの手には、恐怖の証であるメロンパンが詰まった袋が握られていた。
「もう……外を歩くのが怖いです……。私たち、ただの忍術好きの生徒だったはずなのに……。どうして、歩く大量破壊兵器みたいに思われてるんでしょう……」
「それは……あの日、部長が見せた『あの姿』のせいですよぉ……」
二人は顔を見合わせ、深く、長いため息をついた。
「……そろそろ、部室に行かなければなりませんね……」
二人は重い足取りを揃え、忍術研究部の部室へと向かった。
ようやく辿り着いた部室の扉。普段なら、共に夢を語り合い、修行に励む希望への入り口だった。
しかし、今の二人には、その扉がどす黒い霧を纏った「地獄の門」のように見えていた。心なしか扉の隙間からは、禍々しいまでのプレッシャーが漏れ出ているようだ。
「帰り、たいです……。でも、顔を出さなければ、部長が心配して街中に探しに来てしまいます……。そうなったら、遭遇した一般の方々が不意にNGワードを発して……百鬼夜行が消滅するかもしれません……」
「そう、ですね……。行かなければ……。でも、開けたくない……開けたくないなぁ……」
イズナは震える指をドアノブにかけ、ギィ…と、扉をゆっくり開けた。
部室の扉を開けると、そこには昨日の惨劇など一ミリも引きずっていない、キラキラした笑顔のミチルがいた。
「あ! イズナ、ツクヨ! おはよー! 見て見て、昨日の動画のコメント欄、またすごいことになってるよ! 登録者十万人突破だよ!」
「ぶ……部長……。おはよう、ございます……」
「今日も、元気、ですね……」
二人は部室の隅に這うようにして入り、壁から距離を取って座った。今の彼女たちにとって、壁は墓標にしか見えなかったからだ。
「よし! この勢いに乗って、今日も新作の撮影に行こう! 街に出てロケハンだよ!」
「ひっ!? ロケハン!? あ、あの、部長! 今日は外に出ない方が……」
ツクヨの制止も虚しく、ミチルは意気揚々と外へ飛び出した。
午後の百鬼夜行、商店街。
ミチルがカメラを構えて歩き出すと、周囲の空気が一変した。道ゆくスケバンたちが、ミチルの姿を視認した瞬間、阿鼻叫喚の地獄絵図が展開される。
「ひ、ひぃぃぃ! あ、悪魔だ!! 悪魔が来たぞ!! 壁に埋められるぞ!!」
あるスケバンは悲鳴を上げて全速力で逃げ去り、あるスケバンはその場にへたり込んで「ごめんなさい! 伝統なんて言いませんから!」と失禁しながら命乞いを始める。
しかし、ミチルは「みんな、今日も元気がいいねー!」と、全く気にする様子がない。
そんな異常な静寂と恐怖が支配する商店街の角で、運悪く、その動画を見ていない、他校から流れてきたばかりのスケバン三人衆がミチルを見つけた。
「おい、見ろよあのチビ。タヌキ耳なんかつけちゃって、バカ面さらしてんなぁ。いいカメラ持ってんじゃん、ちょっと貸せよ」
リーダー格の女が、ニヤニヤしながらミチルに歩み寄る。
「あ、あの! そこのお方、止まってください!」
イズナが顔を真っ青にして割って入った。
「お願いです、この人に絡んではいけません! 死にたくなければ、今すぐここから離れてください!」
「そ、そうです……! 部長は……その……触れてはいけないものなんです……!」
ツクヨも巨大な体を震わせながら必死に懇願する。その鬼気迫る様子にスケバンは一瞬引いたが、すぐに鼻で笑った。
「あ? なんだお前ら、気味悪い。どけよ」
スケバンはイズナとツクヨを乱暴に突き飛ばし、ミチルの目の前に立った。そして、ミチルの頭をぐりぐりと乱暴に撫で回しながら、あざ笑うように言い放った。
「いい年して忍者ごっこか? まあ、『趣味の延長線上』で楽しむ分には勝手だけどよ。そのカメラ、置いていけよ」
カチリ、と。
世界の温度が、一瞬で絶対零度まで凍りついた。
「……今。なんて言った?」
ミチルの声から、一切の感情が消え失せる。それは深淵から響く呪いの言葉のようだった。
「あ? だから、趣味の延長――」
ドゴォォォォォォォォンッ!!
爆音と共に、スケバンの体が一瞬で宙に浮いた。ミチルの右手が、鋼鉄の万力のような力でスケバンの胸ぐらを掴んでいた。
「ふざけるな……。ふざけるなぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
ミチルはそのまま、スケバンを頭上のアーケードの天井へと叩きつけた。
メキメキバキッ! という破壊音と共に、頑丈な天井に人型の穴が開き、瓦礫が降り注ぐ。
スケバンは天井に半ば埋まった状態で、ミチルの手によって吊り下げられていた。
「趣味……? 延長……? 私の、血と汗と涙の結晶である動画制作を、そんな安い言葉で片付けるつもりかぁぁぁ!!」
「ひ、ひいぃぃ! ごめんなさ……がはっ!」
「却下だッ!! お前は私のクリエイティビティに対する冒涜を働いたんだよ! その罪の重さを、一フレーム単位で理解させてやるッ!!」
そこから、地獄の思想教育が始まった。
【30分経過】
「趣味……? 延長……? 私の、血と汗と涙の結晶である動画制作を、そんな安い言葉で片付けるつもりかぁぁぁ!! 貴様、このカメラのセンサーサイズがどれだけ光の階調表現に寄与しているか知っているのか! 趣味でこんな解像度を追求すると本気で思っているのかぁぁッ!!」
「ひ、ひいぃぃ! ごめんなさ……がはっ! わかりました、プロです! あなたはプロの忍者ですぅぅ!」
「却下だッ!! 思考が停止している謝罪に価値はない! なぜ『趣味』という言葉がクリエイターの魂を削り取るのか、その言語的暴力性について今すぐ140字以内で述べろぉぉぉッ!!」
【1時間経過】
イズナは震える手でスマートフォンを握りしめていた。ヴァルキューレの警察学校を呼びたい。しかし、呼んだところでどうなる? 警察官がミチルに「落ち着いてください」なんて言おうものなら、次の瞬間にはその警察官が壁の一部になる未来しか見えない。
「……呼べない。呼べるわけがない……。警察の方々が部長の怒りの火に飛び込んで、キヴォトス全域が火の海になります…。イズナは、静観するしか……うぅ、忍びの道とは、これほどまでに残酷なものだったのですか…?」
ミチルの怒声はさらにヒートアップし、もはや周囲の看板が振動で落ちるほどの音量になっていた。
【1時間30分経過】
「お前のさっきの態度はなんだ! 私の動画のタイトルロゴのフォントに、どれだけの忍道が宿っているか、今すぐ三つの観点から述べろッ!! 一つ目は色彩、二つ目は可読性、三つ目は……私の情熱だッ!! さあ言えッ!!」
「ひっ、え、ええと……か、格好いい……古風……あ、赤い……情熱が、すごいです……」
「浅いッ!! 表面的な言葉で取り繕うなと言っているんだよッ!! 3フレーム目から5フレーム目にかけてのフェードインの滑らかさに、私のどれだけの不眠不休が詰まっているか……お前には、私の深夜三時のレンダリングエラーの絶望を追体験させてやる必要があるようだなッ!!」
ドゴォン! と再び天井の穴が広がる。スケバンはもはや涙も出ず、痙攣しながらミチルの顔を凝視することしかできなかった。
【2時間経過】
ツクヨはもはや限界だった。恐怖が飽和し、彼女の防衛本能は「存在の抹消」を選択した。
ツクヨは白目を剥き、そのまま硬直した状態で仰向けにバタンと倒れた。
「(私は……透明な空気……。私は、ここにはいない……。死んだふりをするのです……。私は、ただの床の一部……誰にも見えない……空気の塊……)」
心の中では「私は透明な空気」という言葉を呪文のように連呼し続け、完全に植物のような沈黙を保っていた。
その巨体が床を塞いでいるが、誰もそれに触れる勇気はなかった。
【2時間30分経過】
「……まだだ。まだお前の目は『動画の尺の重要性』を理解していない。一秒のカットのために、どれだけロケハンを繰り返したか。お前のような刹那的な快楽に生きる人間に、クリエイターの血尿の重みが分かってたまるかぁぁ!! 謝れッ! お前の存在そのものが、私の動画へのノイズであることに謝罪しろぉぉぉぉ!!」
「……もう……むり……たすけて……お母さん……」
「母親に頼るなッ!! 今は私と向き合えと言っているんだよぉぉぉ!!」
そして、3時間が経った。
周囲はすっかり暗くなり、商店街の照明が虚しくミチルの影を伸ばしていた。
「……まったく。ようやく、少しは誠意が見えたかな。でも、まだまだ修行が足りないよ」
ミチルはようやく胸ぐらを離した。スケバンは天井から力なくずり落ち、地面にボロ雑巾のように転がった。
瞳孔は開き、白目を剥いてビクンビクンと不規則に痙攣している。その顔には、もはや理性のかけらも残されていなかった。
このスケバンが、この後病院に運び込まれ、精神科の閉鎖病棟から数ヶ月、あるいは数年にわたって出られなくなるであろうことは、その場にいた誰もが容易に想像できた。
彼女の脳裏には、千鳥ミチルの叫び声が永久ループで刻まれてしまったのだ。
「……ふぅ。いい運動になったね! さあ二人とも、撮影の続きに行こうか!」
ミチルは爽やかな笑顔で汗を拭い、カメラを構え直した。
「……」
イズナはもはや声も出ず、ただ呆然と空を見上げた。
「……ツクヨ殿。イズナ、もう……何が正解なのか分からないです……」
「……イズナちゃん……。私は……まだ、空気……ですか……?」
千鳥ミチルの「逆鱗」。
それは今日も、キヴォトスの平和を(物理的に)粉砕しながら、新たな獲物を探し続けるのだった。