【完結】少女忍法帖ミチルっち:忍法ブチギレの術 作:ていん?が〜
春の柔らかな日差しが降り注ぐ百鬼夜行の公園。色鮮やかな花々が咲き誇り、本来ならば絶好の行楽日和であるはずだった。
しかし、公園の一角に漂う空気は、重油のようにどろりと濁り、周囲の鳥たちさえも異変を察知して飛び去っていた。
「よーし! 絶好の逆光加減! ここで『忍法・木の葉隠れの術』の解説を入れるよ! イズナ、背景で桜の花びらをいい感じに散らして! ツクヨはローアングルから、私の忍びとしての威厳を強調する構図で頼むね!」
千鳥ミチルは、自分の背負った「悪名」など一ミリも気にする様子はなく、ウキウキとした足取りでハンディカメラの調整に余念がない。その瞳は、純粋な創作意欲でキラキラと輝いている。
一方、撮影補助を務める二人の姿は、まさにお通夜そのものだった。
久田イズナの顔は土気色を通り越し、もはや透き通るような白さになっていた。
昨日、ミチルが商店街の天井を破壊しながら三時間にわたってスケバンを説教した動画は、またしても誰かの手によってネットの海に放流されていた。
『百鬼夜行のタヌキ、ついに公共物を破壊』
『商店街の天井に人型の穴。被害者は現在、精神科で治療中』
『もはやテロ組織。ヴァルキューレは何をしているのか』
そんなコメントが数万件も書き込まれ、忍術研究部は今やキヴォトスで最も「触れてはいけないヤバい組織」としての地位を不動のものにしていた。
イズナは、自分が夢見ていた「主殿を守る正義の忍者」という理想が、音を立てて崩れ去っていくのを、ただ諦めの境地で見つめるしかなかった。
「……もう、どうにでもなればいいのです……。忍びとは、影の存在……。イズナは今、巨大な闇の一部になっているのですね……」
「(………………………………………………………………)」
大野ツクヨに至っては、もはや考えること自体を放棄していた。彼女の瞳からはハイライトが完全に消失し、焦点の合わない虚無の目でカメラを構えている。
心の中の声さえも無言。ただの精密な撮影機材と化した彼女は、ミチルの指示通りに機械的な動作を繰り返すだけの肉の塊となっていた。
撮影がいよいよ終わりに差し掛かろうとした、その時だった。
「――そこまでだ。忍術研究部、千鳥ミチル」
凛とした、しかし威圧的な声が公園に響いた。
振り返ると、そこにはヴァルキューレ警察学校の制服に身を包んだ、数人の警官たちが立っていた。
中央に立つのは、眼鏡の奥に厳格な光を宿した一人の女性警官。度重なる苦情と、ネット上での騒乱を重く見た警察がついに動いたのだ。
「ひ、ひぃっ!? け、警察……本物の警察です!」
イズナとツクヨの全身に電流が走った。ついに来るべき時が来た。だが、二人が抱いた感情は「捕まりたくない」という恐怖ではなかった。
「お、お巡りさん! お願いです! 取り調べなら、代わりに私が受けます!! 私を今すぐ連行してください!!」
イズナが悲鳴のような声を上げて警官の前に飛び出した。
「わ、私を……私を連れて行って……。部長は……部長は忙しいので……私が代わりに、一生……独房に入りますから……!」
極度の対人恐怖症であるはずのツクヨまでもが、ハイライトのない目のまま警官の前に立ち塞がり、必死に懇願する。
二人は理解していた。もし、この厳格そうな警官がミチルを取り調べ、その過程で不用意な「言葉」を発してしまったら。
その瞬間にミチルが警官に襲いかかり、事態が「暴行」から「国家権力への反逆」へと跳ね上がり、ミチルの罪が取り返しのつかないほど重くなる未来が、鮮明に見えていたのだ。
「あはは! なに二人とも、そんなに慌てて。ヴァルキューレの人たちが来るなんて、滅多にない体験じゃん! これ、動画のネタにできるよね? 『警察に突撃取材してみた!』みたいな!」
ミチルはケラケラと笑いながら、カメラを警官に向けようとした。
「……笑い事じゃありませんッ!!」
イズナの怒号が響いた。しかし、ミチルはその叫びを全く聞いていなかった。
「うっひょー!これ、本物の警官バッジ?ねぇ、触っていい?触っていい?」
ミチルはワクワクした顔でカメラを回したまま、警官たちにズイッと近づいていく。
レンズ越しに警官の顔をアップで捉え、「もっと威圧感出せるかな?」などと独り言を漏らすその姿は、危機感という概念が欠落した狂気そのものだった。
しかし、厳格な警官はイズナたちを押し除け、手帳を開いてミチルの前に立った。
「千鳥ミチル。君が動画サイトにアップロードされている暴行事件の主犯であることは、解析によって既に特定されている。大人しく署まで同行願いたい」
警官の言葉遣いは極めて慎重だった。彼女たちは、これまでの万バズ動画を徹底的に分析していた。
ミチルが「努力」「伝統」「趣味」といった、彼女のアイデンティティを規定し、固定化しようとする言葉に激昂する法則性を、警察のプロファイリングは完全に見抜いていたのだ。
「我々は君を刺激するつもりはない。君は、ただの『善良な市民』として、手続きに従えばいいのだ。分かったか?」
警官は、その法則を完璧に避けた「安全な表現」を選んだつもりだった。
ドクン、と。
イズナとツクヨの心臓が、冷たい氷の針で刺されたように跳ね上がった。
「善良な市民」。
それは、一見すれば最大限の配慮を込めた、安全な言葉に思えた。しかし、クリエイターとして、忍者として、「異端」であり「特別」であることを自負するミチルにとって、それは魂を去勢されるに等しい、最大の侮辱だった。
一瞬で、公園から鳥のさえずりが消えた。
ミチルの顔から光が消え、髪が怒りの静電気で逆立つ。空気の温度が急速に下がり、吐く息が白くなるほどの寒気が場を支配した。
「……善良な……市民……?」
地獄の底から響くような、重く、淀んだ声。
「ふざけるな……ふざけるなぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
ミチルの咆哮が公園を震わせた。その衝撃波だけで、周囲の並木が激しく揺れ、木の葉が舞い散る。
「私が……私が、どれだけの修羅場を潜り、どれだけの批判に晒されながら、唯一無二の表現を求めて戦っていると思っているッ!! それを……『善良な市民』なんていう、無個性で、凡庸で、型に嵌まった言葉で……私を殺すつもりかぁぁぁッ!!」
ドゴォォォンッ!!
目にも止まらぬ速さで、ミチルの右手が警官の胸ぐらを掴んでいた。そのまま、公園の太い桜の木へと警官を叩きつける。木がミシミシと悲鳴を上げ、大量の花びらが降り注いだ。
「な、何だこの力は!? 離せ! 公務執行妨害だぞ!」
ミチルに掴まれた警官は反射的に銃を引き抜き、目の前のミチルに引き金を引く。乾いた発砲音。放たれた銃弾は、ミチルの顔面を直撃する――はずだった。
ガキィィィンッ!!
ミチルは、飛来する銃弾をあろうことか「歯」で受け止めた。金属同士がぶつかる嫌な音が響く。
ミチルは蛇のように鋭い眼光を警官から逸らすことなく、そのまま銃弾をバリバリと噛み砕くと、地面に「ペッ」と吐き捨てた。
「……化け物……」
胸ぐらを掴まれた警官が、青ざめた顔で絶句する。
「化け物? 違うな。私は、クリエイターだ。……いいか、今からお前のその貧困な語彙力を、私の忍道でレンダリングし直してやる。覚悟しろッ!!」
【30分経過】
「いいかッ! 善良な市民が、一フレームのカット割りのために三日三晩不眠不休で作業するか!? 市民が、深夜三時にレンダリングエラーが出た瞬間に、モニタの前で絶叫しながら壁を殴るかッ!! 答えろッ!!」
胸ぐらを掴まれた厳格な警官、生活安全局の佐藤サキヨは、まだ厳格な態度を崩さず「暴行はやめなさい……っ!」と強気な声を上げているが、その瞳には隠しきれない恐怖が滲み始めていた。
「うわあああああああああああああああああぁぁぁっっっ!!!!!!!」
その時、恐怖で錯乱した同行の警官の一人である田中アユミが、震える手で銃を抜き、引き金を引いた。
ガキィィィンッ!!
ミチルは、飛来する銃弾をあろうことか振り返りもせずに「素手」で摘まみ取った。信じられない光景に、警官たちが絶句する。
ミチルは摘まんだ弾丸を、まるで粘土のように指先でぐにゃぐにゃとこねくり回し、ただの歪な鉛の塊に変えて捨てた。
ミチルはサキヨの胸ぐらを掴んだまま、アユミの方へと、ズカズカと地響きを立てて近づいた。
「お前もだ……! 私の忍道を、暴力で止められると思っているのかッ!!」
もう片方の手で、アユミの胸ぐらを鷲掴みにする。二人の警官は、ミチルの怪力によって宙に吊るし上げられた。
【1時間経過】
「お前の言った『善良』という言葉の裏には、『お前は体制に従うだけの歯車になれ』という傲慢な思想が透けて見えるんだよッ!! 表現者に向かって、そんな残酷な言葉を投げかけて、心が痛まないのかッ!!」
最初に発砲した田中アユミは、あまりの恐怖に既に泡を吹いて失神していた。
「おい、寝るなッ!! 私の色彩設計へのこだわりを説いている最中だぞッ!!」
ミチルが彼女を木に何度も叩きつけても、アユミは首がぐらぐらと揺れるだけで意識を取り戻さない。
しかしミチルは一向に手を離さず、気絶した肉体を「素材」として吊り下げたまま説教を続ける。
サキヨは、強気な口調こそ残っているものの、全身を激しく震わせながら絞り出すように言った。
「……わ、分かった。言い方が悪かった。謝る……だから……!」
「却下だッ!! そんな場しのぎの謝罪に価値はないッ! 私が欲しいのは、お前の魂の叫びだ! お前の辞書から『善良』という文字を削り取り、代わりに『忍道』と書き込めぇぇッ!!」
周辺にいた他の警官たちは、ただ立ち尽くすしかなかった。仲間が粘土のように銃弾を弄ばれ、二人が同時に吊るし上げられている光景を見て、助けに入る度胸など残されているはずがなかった。
【1時間30分経過】
イズナは、もはや現実を受け入れるしかなかった。彼女は震える手でスマートフォンを取り出し、実家の母親に電話をかけていた。
「……あ、お母さん? うん、イズナだよ。……ごめん、お母さん。イズナ、警察に捕まるかもしれない…。ううん、イズナが悪いんじゃないけど……でも、もう、止まらないの…。本当に……本当にごめんなさい……。お母さんの作ってくれたお弁当、美味しかったよ……」
忍びから、ただの怯える少女に戻ったイズナの頬を、涙が伝った。
【2時間経過】
ミチルの怒号の傍で、ツクヨは仰向けに倒れたまま、完全に硬直していた。死んだふりをしながら、彼女はこれから自分に起こるであろう未来を、冷静に、かつ絶望的に受け入れていた。
「(……身辺整理を、しなくては。盆栽の世話は、隣のクラスの子に。貯金は……忍術研究部の部費に。先生、今までありがとうございました……。遺書は、マフラーの裏に……)」
心の中で、自分の生涯の幕引きを書き連ねていた。
【2時間30分経過】
「……まだだ。まだお前の目は『動画の尺の重要性』を理解していない。一秒のカットのために、どれだけロケハンを繰り返したか。お前のような体制の歯車に、クリエイターの血尿の重みが分かってたまるかぁぁ!!」
「ひっ、あ、ああ……っ。わ、分かりました……あなたの言う通りです……。だから、もう許して……」
サキヨの口調は、今や完全に弱々しいものへと変わっていた。しかし、ミチルには一切の同情はなかった。
「分かっただと!? お前に私の何が分かるッ!! 一ピクセルを削る苦悩も知らずに、安易に同意するなッ!! 謝れッ! お前の存在そのものが、私の作品へのノイズであることに謝罪しろぉぉぉぉ!!」
ミチルの怒声はとどまることを知らずに加速する。アユミは吊るされたまま、時折ビクンと痙攣するだけだ。
【3時間経過】
「……うわぁぁぁん!! 助けて! お父さん、お母さん!! 誰か助けてぇぇぇ!!」
サキヨはもはや一人のヴァルキューレ生徒ではなく、10代の少女の姿に戻っていた。そして彼女はただの子供のように泣きじゃくり、家族に助けを求めて絶叫していた。
しかし、ミチルはその声を遮るようにさらに吠えた。
「親に助けを求めるなッ!! 表現の場において、頼れるのは己のセンスのみだッ!! お前も今、この孤独な創作の苦しみと対峙しろぉぉぉッ!! 家族が動画を編集してくれるのか!? 違うだろうがぁぁぁッ!!」
【3時間30分経過】
「聞こえるかッ!! 私の心拍数は、今、BPM200を超えているッ!! これが、クリエイターの情熱の鼓動だッ!! 市民という安っぽいレッテルで、この鼓動を止められると思うなぁぁぁッ!!」
「あ、あ、ああ……あ……」
サキヨはもはや言葉を失い、ただ壊れた人形のように首を振るだけだった。その横でだらり、と力なくぶら下がるアユミはポタポタと涎を垂らす肉塊と化していた。
【4時間経過】
太陽が傾き、公園がオレンジ色の夕闇に包まれた頃。
「……ふぅ。この辺で、勘弁してやるよ」
ミチルは、憑き物が落ちたようにパッと手を離した。
ドシャリ。
糸の切れた操り人形のように、2人の警官が地面に崩れ落ちた。その瞳に光はなく、ただ虚空を見つめたまま、ピクリとも動かない。
■佐藤サキヨ(3年生、17歳。ヴァルキューレ生活安全局所属)
エリート候補だったが、この事件で極度の対人恐怖症と「タヌキ恐怖症」を発症。後に自主退職し、ミチルに二度と会わないようキヴォトスから離れた遠い地方へと移住。二度と戻ってくることはなかった。
■田中アユミ(1年生、15歳。ヴァルキューレ警備局所属)
ミチルの超人的な膂力と銃弾を噛み砕く光景を目の当たりにし、精神が崩壊。警察学校を退学後、長期の療養生活を余儀なくされた。
「さあ! いい修行になったね、二人とも! 撮影も終わったし、こってりラーメンを食べに行こう!」
いつもの、明るく快活なミチルに戻った。
だが、その背後に、ずっと震えながら立ち尽くしていた残りの警官たちが、決死の覚悟で歩み寄った。
「……千鳥ミチル。君を……暴行罪、及び公務執行妨害罪で逮捕する」
カチャリ、と重い手錠の音が、静まり返った公園に響いた。
「んぇ? 逮捕? なんでー? 私、ただ熱心に話してただけなのにぃ?」
頭にハテナマークを出しながらキョトンとするミチルを連れて、警官たちは震える足取りで歩き出す。イズナとツクヨは、もはや涙も出ないまま、夕陽に向かって連行されていく部長の背中を、ただ黙って見送るしかなかった。
【千鳥ミチル、暴行罪及び公務執行妨害罪で逮捕】