【完結】少女忍法帖ミチルっち:忍法ブチギレの術 作:ていん?が〜
キヴォトス全域の悪質な生徒を収監し、その精神を「矯正」するための最果ての地、連邦矯正局。
重厚な石造りの壁と、幾重にも張り巡らされたバリケード、そして冷徹な看守たちが睨みを利かせるこの場所に、希望の光など存在しない……はずだった。
その矯正局の面会室。厚い防弾ガラスを隔てた向こう側に、千鳥ミチルの姿があった。
彼女が着ているのは、白と黒の横縞模様が鮮やかな、いかにもな囚人服だ。サイズが少し大きいのか、袖口がだぼついているが、本人は全く気にする様子はない。
それどころか、ガラス越しにイズナの姿を認めるなり、キャッキャと両手を振ってはしゃぎ始めた。
「やっほー! イズナ! 久しぶりー! 元気にしてた? 私はね、もう最高に元気だよ! ここ、意外と居心地が良くてさ!」
ミチルの声は、スピーカー越しでも分かるほど弾んでいた。逮捕され、収監された人間の態度とは到底思えない。
「ぶ、部長……。その格好……本当に、捕まってしまったのですね……」
ガラスのこちら側で、久田イズナは幽霊のように青ざめた顔で座っていた。彼女の瞳からは光が消え、尻尾は力なく床に垂れ下がっている。
部長が逮捕されたという現実に、彼女の心はとっくに砕け散っていた。
「これ、いいでしょー?昔の映画に出てくる囚人服みたいで面白いよね!囚人少女ミチルっち!なんつって!あはは!」
「……」
イズナは言葉を失った。この人は、自分が置かれている状況を理解しているのだろうか。
ここは刑務所だ。その格好はコスプレじゃなくて犯罪者の証だと言える勇気はイズナにはない。
「あ、そうだ! イズナに、ここに来てからの面白い出来事を教えてあげるね! もうね、ネタの宝庫だよ!」
ミチルは身を乗り出し、ガラスに鼻を押し付ける勢いで語り始めた。
「まず一つ目! ここに入る時の身体検査でさ、看守の人たちが私のハンディカメラを没収しようとしたんだよ! 『持ち込み禁止だ』って! でもね、私はちゃんとわかってもらうために看守さんとしっかり話し合ったんだ!」
「はぁ……話し合い、ですか……?」
「そう! 最初は聞く耳を持ってくれなかったんだけど、私の情熱が通じたみたいでさ! 最終的には、持ち物全部の持ち込みを許可するって、手荷物検査をスルーさせてくれたんだよ!やっぱり人間話し合いだよね!」
「……」
イズナは薄々、その「話し合い」の実態を察した。おそらく、物理的な「誠意」(壁の破壊や、看守の吊るし上げ)が伴っていたに違いない。看守たちは、彼女のNGワードに触れる恐怖に屈したのだ。
「そして二つ目!収監された部屋に行く途中で他の生徒たちがゾロゾロと私を囲んできたんだよ!『新入りの歓迎会をやるぜ』とか、『ここでのルールを教えてやる』とか言うの!みんな良い人だなーって思って、みんなと話し合ったんだ!」
「また……話し合い、ですか……?」
「そ!私の動画制作への情熱とか、ミチルっち流忍法の素晴らしさを、みんなに語り聞かせたんだ! そしたらさ、みんな最初は怖がってたみたいだけど、私の話を聞いて、最後には『姐さん、一生ついていきます!』って、私のことを姐さんと呼ぶようになったんだよ! 忍法・人心掌握の術だね!」
「……」
人心掌握の術、というよりは、恐怖による支配の術、であろう。彼女の説教を数時間浴びせられれば、どんな極悪生徒も精神が崩壊し、恭順するしかなくなる。
姐さんと呼ぶのは、彼女を刺激しないための、生存本能による選択だ。
「最後、三つ目! これが一番おかしかったんだけどさ、昨日、この矯正局の局長のミスズさんっていう人が、わざわざ私の部屋まで来て、私の前で土下座したんだよ! 『どうか、ここでは加減してください……! 建物の修理費が、もう限界なんです……!』って、泣きながらお願いされたの!」
「局長が……土下座……?」
「そう! 私、何言ってるか全然分からなくてさ! 『加減って、何の? 私、何もしてないよー?』って、おっかしー、と笑ってたんだ! あはは!」
「……」
イズナは、もはや驚く気力さえ湧かなかった。連邦矯正局のトップが、一人の生徒に土下座して命乞いをする。そんな異常事態が、このミチルにとっては「おかしな出来事」として処理されている。
「でね、イズナ! それらの出来事と、私の刑務所での1日を、全部カメラで撮ったんだよ! 題して『実録! ミチルっちの刑務所潜入取材!』! これ、絶対バズると思わない?」
「え、えぇ……撮影……ですか……?」
「そう! だから、昨日イズナにスマホで『面会に来て』って連絡した時に、『パソコンも一緒に持ってきて』ってお願いしたでしょ? 差し入れとして、それをもらいに来たんだよ!」
ミチルは、ガラスの下にある受け渡し口を指差した。
「あ、はい……部長の指示通り、持ってきましたけど……」
イズナは、おどおどと自分の鞄からノートパソコンを取り出した。
「よし! じゃあ、それをもらうね! これで編集作業ができるよ! ありがとう、イズナ!」
ミチルは、イズナが差し出したパソコンを受け渡し口から堂々と受け取った。
「……」
イズナは、その光景を虚ろな目で見つめていた。
・矯正局内での撮影。
・差し入れとして、堂々とパソコンを持って来させて、それが検問されることなく面会室に通されたこと。
・看守の目の前で堂々と受け渡しをしていること。
それらの事実から、ミチルが収監されてからの24時間で、この矯正局で何が起きたのかは、イズナに薄々想像がついた。
彼女は、この「地獄のるつぼ」さえも、自身の力(暴力と説教)によって支配下に置いたのだ。
看守も、囚人も、局長でさえも、彼女の逆鱗に触れることを恐れ、彼女の全てのわがままを受け入れている。
だが、その答え合わせを、目の前の元凶に聞くのは、イズナには怖すぎた。
「あ、そうだ! イズナに、お土産のメロンパンを持ってくるの忘れてた!ここのご飯ってすっごく美味しいんだ!ごめんね、次回の面会の時には絶対に持ってくるから!」
「いえ……そんなことより、部長……。少しは……反省して欲しいのです……。主殿も、心配していると思いますし……」
イズナは、消え入りそうな声で訴えた。ゴマ一粒ほどでもいい。今までの自分の行動が、周囲にどれだけの恐怖と迷惑を与えてきたか、それを反省して欲しかった。
「反省? えー、何で? 私、何も悪いことしてないよ? ただ、自分の忍道を追求してるだけなのにー!」
ミチルは、キョトンとした顔で首を傾げた。その瞳には、一点の曇りもない。
「……」
イズナは、深く、長いため息をついた。この人に反省を促すのは、石に説法を説くよりも無意味だ。
「あッ! もう3時のおやつの時間だ! 今日のメニューは、最高級カスタードクリームを使ったシュークリームなんだよ! 早く戻らないと、鮮度が落ちちゃう!」
ミチルは、時計を見て慌てて立ち上がった。
「それじゃあ、またねイズナ! 編集終わったら、動画アップするから見てね! バイバーイ!」
ミチルは、パソコンを小脇に抱え、元気よく手を振って面会室を出て行った。
「……主殿……。イズナは……どうすればいいのでしょう……」
イズナは、面会室に取り残された。そして彼女は、生まれたての子鹿のように全身を震わせながら先導する看守に連れられてズルズルと力なく尻尾を引き摺りながら面会室を後にした。
ミチルが収監されている檻。しかし、そこはもはや檻としての体をなしていなかった。
鉄格子など存在せず、普通に個室であり、かつホテルのスイートルームのような豪華な作りの部屋。
ふかふかのクッションに座り、ミチルはイズナから差し入れられたパソコンで、動画編集作業に勤しんでいた。
「ふんふふーん♪ 昨日の局長の土下座シーン、意外と画質がいい感じ! これ、サムネイルに使ったら絶対バズるよ!」
ミチルは、自身の「悪行」を動画の素材として処理しながら、片手間に最高級食材をふんだんに使ったシュークリームやマカロン、ケーキなどの数々のスイーツを口に運んでいた。
外にいた時よりも、はるかに良い暮らしをしているミチル。彼女にとって、ここでの生活は、ただの「豪華なロケ」に過ぎない。
「よっし!編集もひと段落ついたし、体ごなしに少し運動して気分転換しよう!」
ミチルは、囚人とは思えないほどの自由な行動で、豪華な装飾の扉を開けて部屋を出た。
地獄の一丁目の代名詞でもある矯正局。手のつけられない極悪生徒たちが収監されている悪魔の館。
しかし、千鳥ミチルが来てからは、何もかもが変わった。
凶悪な生徒は、ミチルの姿を目に入れた途端に短い悲鳴と共に背筋を伸ばし、きっちりと90度のお辞儀をして、ミチルが通りさって姿が見えなくなるまで頭を上げない。
「姐さん! お疲れ様です!」
「あ、おはよー! 今日も元気がいいね!」
冷酷な看守たちは、まるで付き人のようにペコペコと頭を下げながら、ミチルの世話を甲斐甲斐しく見ている。
「ミチル様、お飲み物はいかがですか? 最高級の紅茶をご用意しておりますが」
「お、ありがとう! ちょうど喉が渇いてたんだ!」
彼女たちは、わずか1日で分からされた。目の前の怪物の逆鱗に触れることは、人生からの出監(つまりは死)を意味することを。
そんなことを気にしてないミチルは、カメラを回しながら矯正局内を撮影していた。
「よし! ここが矯正局の中庭だよ! ここで、みんなと忍術の修行をするんだ! 題して『実録! 刑務所で忍術修行してみた!』!」
ミチルが撮影に夢中になっていると、ボフンと誰かに当たる。
「あはは、ごめんごめん! 撮影に夢中で前を見てなかっ――」
ミチルが愛想笑いを浮かべながら見上げると、そこには陽光を背に受けた、巨大な影が立っていた。
更科リク。ゲヘナ学園を停学中の身であり、七囚人の栗浜アケミにも劣らぬ膂力を持つとされる規格外の女生徒だ。
身長は170センチを優に超え、黒いライダースジャケットの下からは、鍛え上げられた褐色の肌と露出の多いインナーが覗く。
顔には過去の死線を物語る無数の傷跡が刻まれ、その瞳には冷酷な、獲物を定める肉食獣のような光が宿っていた。
彼女はこの矯正局において、手のつけられない極悪生徒たちを力でねじ伏せ、囚人のボスとして君臨していた。
しかし、千鳥ミチルという「ふざけた異分子」が収監されてからの24時間で、その絶対的な立場は崩れ去った。
看守も囚人も、誰もがミチルの顔色を伺い、自分への畏怖は霧散した。その屈辱と、ミチルの実力への懐疑心が、リクを突き動かしていた。
「おい……てめえ、何様のつもりだ?」
リクの声は、地を這うような重低音だった。周囲にいた囚人たちが、その殺気に気づき、蜘蛛の子を散らすように距離を置く。
「え? あ、私? 私は千鳥ミチル! 忍術研究部の部長にして、新進気鋭の動画配信者だよ! 君も私の動画、見てくれる?」
ミチルは全く怯むことなく、いつもの人懐っこい満面の笑みでハンディカメラを向けた。
「忍術……動画……? ふざけるなッ!」
リクの堪忍袋の緒が切れた。彼女は電光石火の早業でミチルの制服の胸ぐらを掴み上げ、その小さな体を自分の目線の高さまで強引に引きずり上げる。ミチルの足が地面から離れ、宙にぶら下がった。
「てめえみたいなチビが、ヘラヘラと……。この場所を支配するなんて……許せねえんだよ……。殺してやる……」
リクは顔を至近距離まで近づけ、わざとミチルの「逆鱗」に触れそうな、侮辱的な言葉を選び、吐き捨てた。
「てめえのやってることは、ただの遊びだ……。てめえの血と汗の結晶だか知らねえがな、その作った動画も、てめえ自身も……ただの『データのゴミ』なんだよ!!」
『データのゴミ』。
その瞬間。
矯正局の空気が、絶対零度まで凍りついた。
周囲で遠巻きに見ていた囚人や、監視していた看守たちは、その言葉を聞いた瞬間、自分たちの生存本能が最大級の警報を鳴らすのを聞いた。
彼女たちは一斉に顔を真っ青にし、阿鼻叫喚の地獄絵図が展開されることを察する。
「ひ、ひぃぃぃ! リクの馬鹿野郎! なんてことを言いやがった!!」
「逃げろおおお!!! 悪魔が目覚めるぞ!! ここにいたら死ぬぞ!!!」
「壁に埋められる!!! 精神を破壊されるぞ!!! 局長おおお!!!」
彼女たちは、プライドも職務も捨て、無様に、しかし全速力で逃げ出した。少しでも「彼女」の視界に入らないように。少しでもその怒りの火柱に巻き込まれないように。
そして。
ミチルの顔から、一切の表情が消失した。
瞳から光が消え、深淵のような闇が宿る。それは、数時間前の、お人好しで明るいタヌキ娘とは完全に別種の、悍ましい怪物の目だった。
「……今。なんて言った?」
ミチルの声は、先ほどまでの「ふにゃふにゃ」とした柔らかさが跡形もなく消え失せていた。地獄の底から響くような、低く、重く、そして残忍な響き。
「あ? 何度でも言ってやるよ! てめえの動画も忍道も、ゴミだ! データの――」
リクが言い終わるより早く。
ミチルの両手が動いた。
彼女は自分の胸ぐらを掴んでいるリクの分厚い右腕を、自分の両手で下から包み込むように掴んだ。
ミチ、ミチミチミチ……嫌な、硬いものが軋む音が、静まり返った中庭に響く。
「あ? なんだてめ――ぐ、あ、がはっ!?」
リクの顔が、驚愕と激痛に歪んだ。ミチルの指先が、鋼鉄の万力のような力でリクの腕に食い込んでいく。
リク自慢の筋肉が、まるで粘土のように容易く潰され、骨が悲鳴を上げている。
そして。
ブシュッ!!!
「ギャァァァァァァァァァァァァッッ!!!!」
生々しい破裂音と共に、ミチルの指先がリクの皮膚を突き破り、筋肉の深部へと突き刺さった。
亀裂からは鮮血が噴水のように吹き出し、ミチルの顔と囚人服を真っ赤に染める。
「ふざけるな……ふざけるなよ……!! データのゴミ……? 貴様、今、何と言った! その薄汚い口から出た言葉を、もう一度言ってみろッ!!」
矯正局内にミチルの絶叫が響き渡った。それは怒号というよりも、魂の底からの咆哮であり、神への冒涜に対する憤怒だった。
リクはあまりの激痛と恐怖に、ミチルの胸ぐらを掴んでいた力を失い、手を離してしまった。ミチルの体が地面に着地する。
しかし、ミチルはその瞬間に身を屈め、リクの懐へと飛び込んだ。忍法・絶叫タックル。
ドゴォォォォォォンッ!!
重戦車が衝突したかのような衝撃音が響き、リクの巨大な体が「くの字」に折れ曲がる。
「がはぁッ……!!!!」
リクは胃の中身を、血混じりの嘔吐物としてブチまけ、そのまま地面に仰向けに倒れ込んだ。
ミチルはその上に即座に馬乗りになり、リクの褐色の肌を、自分の血濡れた手で押さえつける。
「謝れッ!! データのゴミと言った、その汚い言葉を! 私の血と汗と涙の結晶である動画制作に対する、その不敬を! 論理的に! 簡潔に述べろぉぉッ!!」
ミチルは血走った目でリクを見下ろし、吠えながら、その小さな拳をリクの顔面に叩き込み始めた。ドカッ、ボカッ、という生々しい衝撃音が、終わりのない拷問の幕開けを告げた。
【1時間経過】
「データのゴミ……? 私がこの一振りのクナイを投げるモーションに、どれだけのフレーム調整を重ねていると思っているんだ! 貴様、レンズの絞り値が生み出すボケ味の情緒が、どれほど視聴者の情緒を揺さぶるか理解しているのかぁぁッ!! データのゴミと宣う貴様の眼球には、私のこだわりが1ピクセルも映っていないのかぁぁッ!! 答えろッ!!」
「くそッ! なんで……なんで……効かねえんだ……!」
リクは、ミチルに反撃で殴り返している。その拳は、ミチルの顔面に何度も命中している。
見た目は、顔が腫れ上がり、血が流れている。ダメージを喰らってるはずだ。なのに、ミチルはまったく怯まずに、リクを殴り続けている。
「なんで効かない、って? それは、私の忍道が、お前の暴力よりもはるかに強いからだぁぁぁッ!! お前のその貧困な語彙力こそ、ゴミなんだよッ!! 私の色彩設計へのこだわりを説いている最中だぞッ!!話を聞けええええぇっ!!!!」
【2時間経過】
「貴様が口にした『ゴミ』という単語は、この世の全ての無名なクリエイターに対する宣戦布告なんだよッ!! 創造の苦しみを知らぬ者が、完成した果実を泥靴で踏みにじるような真似をして、五体満足でいられると思うなよッ!! 私が、1秒のテロップを置く位置にどれだけの深夜を費やしたと思っているんだ! 画面の隅々にまで私の命を注ぎ込んでいるんだよッ!! それをゴミ!? 貴様の安直な脳細胞で私の情熱をカテゴライズするなぁぁッ!!」
「……うぅ……あぅ……」
時間経過と共にパワーとスピードが増していくミチルのパンチラッシュに、更科リクは徐々に勢いを削がれて殴る手数が減っていく。
ダメージが蓄積していくリクの口からは、弱々しい喘ぎしか漏れなくなっていた。
【3時間経過】
「……もう……いい……。私が……悪かった……。私が……ゴミだ……。この世で一番……無価値なのは……私だ……。忍研は……至高……。ミチル様は……神だ……。だから……解放して……」
更科リクは、ついに精神の防衛ラインを突破された。ミチルの狂気的な要求に従い、自分自身を卑下する言葉を吐き続ける人形へと成り果てる。
「甘いッ!! そんな上辺だけのへりくだりに、私のクリエイター魂が納得するわけがないだろうッ!! 画面右上のノイズ除去を1フレームずつ手作業で行った私の執念を、貴様はその程度の言葉で片付けるつもりかッ!! お前には、私のPCが強制終了した瞬間の、あの絶叫したくなるような絶望を心臓に直接叩き込んでやる必要があるようだなッ!! 議論を再開するぞッ!!」
ミチルの熱量は、もはや誰にも止められない。特定のワードに触れられたことで、彼女の精神は日常を捨て去り、純粋な「憤怒の化身」へと昇華していた。
【4時間経過】
「貴様の今の態度はなんだッ! 私がエフェクトの透明度設定の重要性について語っている時に、白目を剥くなど許されると思っているのかッ!! おい、逃げるなッ! 意識をこちらに繋ぎ止めろッ! 私の最高傑作である第14話の、水面に映る月影の表現がいかに画期的だったか、今すぐ三つの感動ポイントを論説しろッ!! できないなら、貴様の骨格を私のカメラ三脚のパーツに組み替えてやるぞッ!!」
もはや、そこにはゲヘナの猛者としての面影はなかった。リクは幼児のように激しく泣き喚き、鼻水と涎を垂らしながら地面をのたうち回る。
「……いやぁぁぁぁぁッ!! 助けて、誰か助けてぇぇぇッ!! 反省します……絶対に、二度と言いません……データのゴミなんて……言葉自体を忘れます……!! ミチル様、あなたは宇宙一の映画監督です……だから、お願いだから止めてぇぇぇ!!」
「神に祈るなッ!! 私の作品に神の助けなど不要だ、必要なのはレンダリングの成功のみだッ!! クリエイターの孤独な戦いを、貴様もその身で味わえぇぇッ!! 親や神が代わりに動画を仕上げてくれるか!? 違うだろう、すべては己の孤独なクリックの結果だろうがぁぁぁッ!! 謝罪の前に、貴様の軽率な言葉が私のサーバー容量をどれほど無駄に消費させたか説明しろぉぉッ!!」
リクの悲鳴が中庭に虚しく響くが、ミチルの拳と説教は止まない。執拗なまでの殴打は、肉体だけでなく、その魂の核までを粉々に砕き続けていた。
【5時間経過】
「……まだだ。まだ貴様の眼球には、1秒30フレームの重みが刻まれていない。完璧なエンディング曲との同期のために、私がどれほどの睡眠を犠牲にしたか。刹那的な快楽に耽る貴様に、クリエイターが流す血尿の温度が分かってたまるかぁぁ!! 跪けッ! お前の存在というノイズが、私の作品世界を汚したことを心底から呪いながら謝罪しろぉぉぉぉ!!」
ミチルの怒声は、もはや超音波のように大気を震わせる。リクは言葉を紡ぐ機能さえ失い、ただ壊れた玩具のように首を左右に振り続ける。
「……あ、う……あ……。わ、わかり……ました……。すべて、おっしゃる通りです……。ゴミと言ったのは……私の、存在の卑小さゆえ……。データのゴミなんて……この世に……ありません……すべてのファイルが……宝物です……」
もはや機能停止寸前のリクが、かろうじてミチルの問いに答えようとする。しかし、ミチルは妥協を許さない。
「抽象的で退屈だッ!! そんな定型文は私の動画のコメント欄にも不要だッ!! 撮り直しだ!! もっと具体的に、どのカットのエフェクトに自身の無知を恥じたのか、ミリ秒単位で指定しろッ!! 第3話の炎のパーティクルか!? 第8話のフィルターワークか!? 答えろッ!! さもなくば、貴様の脳内ストレージを私の無慈悲なフォーマットで埋め尽くしてやるぞッ!!」
そして。
【6時間経過】
地平線の彼方に太陽が沈み、矯正局が紫煙のような夕闇に沈む頃。
「……ふぅ。ようやく、動画の尺に対する理解が少しは深まったみたいだね。でも、まだまだロケハンが足りないよ」
ミチルは、憑き物が落ちたようにスッと拳を下ろし、立ち上がった。
ドサリ。
重力に従い、更科リクの肉体が泥濘の上に崩れ落ちる。その目は虚空を見開いたまま焦点が合わず、手足は不規則なリズムでピクピクと痙攣し続けていた。もはやそこに、自我の光は灯っていなかった。
ヒュー……ヒュー……
血の泡が混じった、微かな呼吸音だけが、彼女がまだこの世に踏みとどまっていることを証明していた。
■更科リク(3年生、17歳。ゲヘナ学園所属、停学中)
矯正局の絶対的なボスとして恐れられていたが、本事件を機に深刻な対人恐怖症と、あらゆるデジタルデータに対する強迫観念を発症。
後に「タヌキの影が見える」と泣き叫び、局長に泣きついて最下層の独房へと自ら監禁された。
彼女の脳内には、千鳥ミチルの烈火のごとき怒号が、死ぬまで続く無限レンダリングのように刻まれ続けることとなった。
「……ふぅ。いい運動になったね! これで気晴らしできたから、動画編集に戻ろー!」
ミチルは、額の汗を爽やかに拭い、何事もなかったかのようにパッと明るい笑顔に戻った。
ミチルは、ハンディカメラを小脇に抱え、自分の部屋へと戻った。
「よし! 編集作業の続き!」
返り血で汚れた囚人服のまま、ミチルは鼻歌を歌いながら自室の豪華な扉を勢いよく開けた。
しかし、その足は敷居を跨いだ瞬間にピタリと止まった。
部屋の中央。本来なら誰もいないはずの応接用ソファーに、一人の少女が深く腰掛けていた。
金色のふわふわとした長い髪を波打たせ、露出の極端に少ない淑女のような黒いドレスを纏った小柄な少女。
彼女は手に持ったティーカップを静かに置くと、糸のように細い目で不気味な、それでいてどこか誘うような笑みを浮かべた。
「……あら。お帰りなさい、千鳥ミチルさん」
「……誰? 私の部屋で何してるの?」
ミチルは咄嗟にハンディカメラを構え、レンズ越しにその正体不明の侵入者を鋭く捉えた。6時間に及ぶ説教を終えた直後だというのに、彼女の指先にはまだ微かな昂揚が残っている。
「……ほむ。私は、どうしてもあなたに直接お会いしたくて、ここまで足を運んだのですよ」
少女は優雅な所作でソファーから立ち上がり、床を引きずるようなドレスの裾を揺らしながら、ミチルの前までゆっくりと歩み寄った。
彼女の放つ独特の威圧感は、先ほどまでミチルが叩き伏せていたリクのような剥き出しの暴力とは異なり、底の知れない知性の深淵を思わせるものだった。
「……お会いしたくて……って、私のファンの方? それとも、動画の出演希望かな?」
「ええ、その通りです。私は、あなたの生み出す作品の、熱狂的な理解者の一人。……素晴らしいですね、ミチルさん。あなたの動画には、既存の枠組みを根底から覆すような『唯一無二の独創性』と、見る者の魂を激しく揺さぶる『革新的な芸術性』が満ち溢れています。まさに、新時代のエンターテインメントの夜明け……。あなたの才能は、このキヴォトスという狭い世界に留めておくには、あまりにも惜しい」
「え……えへへ……。そ、そんなに褒められると照れちゃうなー。独創性に芸術性……。やっぱり分かる人には分かるんだね! ミチルっち流忍法の真髄が!」
ミチルは頬を赤らめ、頭の後ろを掻きながら「えへへ」と相好を崩した。今までの敵対者たちが投げつけてきた無理解な罵倒とは対極にある、甘美なまでの称賛。
クリエイターとしての自尊心を的確に射抜く言葉の数々に、ミチルのガードが僅かに緩む。
「……ほむ。私には見えるのです。あなたが、私の描く『最高のシナリオ』という舞台の上で、さらなる高みへと昇華していく姿が。……その圧倒的なまでの表現力、私のために貸してはいただけませんか?」
少女は至近距離まで近づくと、白手袋に包まれた細い指先をミチルの頬へと伸ばした。その細められた瞳の奥で、冷徹な計算と不気味な愉悦が渦巻いている。
「……えっと、嬉しいお誘いだけど……。えへへ、それで、あなた……さっきから誰なの?」
ミチルは照れ笑いを浮かべたまま、しかし撮影の手は休めず、無邪気な好奇心を込めて問いかけた。
少女は、その不気味な笑みをいっそう深く湛え、恭しく一礼した。
「……失礼いたしました。申し遅れましたね。……私のことは、そうですね……『ニヤニヤ教授』とでもお呼びください。キヴォトスの未来を、ほんの少しだけ書き換えようとしている……ただのコンサルタントですよ」
キヴォトス犯罪界のマスター。クロノスでさえその尻尾を掴めぬ知の怪物。ニヤニヤ教授。
その歪なまでの知的好奇心に満ちた笑みが、ミチルの瞳に、そしてカメラのレンズに、色濃く焼き付いた。