その後、長い時間が流れたような気がした。
目が覚めたあと、ぼやけた視界を瞬きで整えていく。
木目が見えた。天井だ。浅黒く、年季の入った。
記憶が正しければ、森の中で倒れていたはずだが、残念ながら今の自分の記憶はあてにならない。
まるで夢の中で進む物語のように、理解のできないことが多すぎる。
いま確かなことは、小さな部屋でベッドに横たわっているということだけ。
ベッドの隣にある窓の外は林だ。自分が気を失った場所に似ている。
「あ、目を覚まされましたか」
窓の反対側、ドアのあった場所から声がした。
振り返るとそこにいたのは、シスターの姿をした、金の長髪が綺麗な女性だった。
話を聞くと森で気を失っていた俺を、水を汲みにきた彼女がたまたま見つけ、助けてくれたという。
彼女の名前はイリオ・ハイメイン。見ての通り教会のシスター。
「日本、ですか。すいません、聞いたことのない地名です」
「ああ、そうですか」
場所を変えて、キッチン隣にある机に座る二人。
俺は温かい豆のスープを前にして、頭を垂れて落胆する。
「ここはライロルドのキヌリ村です。まあ、村から教会は少し離れてるんですけど」
ライロルド。聞いたことがないし、そもそも知っていたうえで記憶からなくなっているのか、どちらかもわからない。
「記憶ですから、ちょっとずつ思い出せるはずですよ。いまは食べて体を回復させましょう」
気を使ってそういうイリオに、俺は軽く微笑んで返した。
「ありがとうございます。じゃあ、いただきます」
「そんなかしこまらなくてもいいですよ。きっと、歳も同じぐらいだし」
いわれれば、自分もイリオも二十代ほどの年齢だろう。
「そっか、それじゃあ……ありがとう、じゃあいただきます」
俺はスプーンを手にとって食事を始める。
スープの味はお世辞にも美味しいとはいえなかった。
香辛料の使われていない、無味に近い味。
近くに一緒に置かれたバゲットを食べているとき、ふと気がつくとこちらをじっと見つめるイリオが見える。
目線は自分にじゃない。スープとバゲットにだ。
「あの、よかったらイリオさんも食べてよ、一人じゃ食べにくいし」
「え! 私ですか。い、いえ私は先程食べてお腹いっぱいですんで、大丈夫ですよ」
パチパチと素早く二回瞬きをしたイリオは、その言葉とは裏腹に、ぐーっと腹の虫がなると、顔を赤くして下を向いた。「あ、あの、鳴りやすい体質でして、お気になさらずに。それに、いま食べるべきなのは弱っているあなたなので」
空腹なのは明白だ。
よく考えれば、自分が寝ていた部屋も、ここに来る途中で見た教会内も、キッチンも、すべて作りが古い。掃除は行き届いているが、それでは隠せない劣化が見える。
生活は困窮しているのがすぐに分かった。
「思い出した、俺って確かすごい少食で、すぐにお腹いっぱいになるんだ」
「え、ホントですか」
彼女の顔が一瞬だけ明るくなる。
「だから、これ二人で分けて食べよう」
自分が少食かどうかなんて、いまはよくわからない。
ただ少なくとも、他人に優しくできる人間なのは間違いないようで、ちょっとだけ安心した。
「ザイロ、というのはどうでしょう。ライル経典の第六章に現れる使者の名前なのですが、彼は突如として現れ、信者たちを風の災害から救うんです」
名前をなくしたことがある人間ならわかるかもしれないが、ないとかなり不便だ。
なので、とりあえずザイロという名前をもらった。
自分がなぜここにいるのか、果たしてどんな人間だったのか。
それはおいおい思い出すとして、とりあえず助けてくれた恩を返すため、教会の手伝いをすることにした。
数年前に両親は他界して、それからはイリオ一人でここを保っているらしい。
仕事は主に教会内の掃除。近くに作った畑で農業。たまに村に降りて祈り、布施を貰いに行く。
残念ながら、それで楽に生きていけるほどこの世は甘くなかった。
「昔はもっときらびやかだったんですけど、お金になりそうなものはすべて売っちゃいました」
教会内を掃除していたとき、イリオは悲しげな表情でそういった。
一緒にいてよく見ると体の線が細い。色白、というより顔色が悪いように見える。
それなのに自分に食事をくれようとしていたのを思い出し、胸が痛くなった。
近くのキヌリ村は二百人程度の小規模の村だ。
山で鉄鉱石がよく取れていたときは、もっと活気があったのだが、鉱山が倒壊してからは一気に廃れてしまったのだという。
住民たちは親の代からの昔なじみが多く、祈りへの対価、というよりかはイリオの生活費のために、金銭を恵んでくれることが多い。
それでなんとか食いつないでいる。そんな様子だった。
「すいませーん、屋根の修理なんか頼んじゃって」
イリオが教会の下で叫んだ。ザイロは教会の屋根にあがり、木の板を空いていた穴に打ち込んでいる。
「素人仕事だから、そんなに期待しないでね」
そう返事をした後、なんとなく周りを眺めた。
小さな建物とはいえ、屋根に上ればそれなりに周りを見渡せる。
快晴だった。
青く透き通った空に、ところどころ純白の雲が見える。
自然の多くのどかな景色だった。視界の端のほうにはキヌリ村があり、生活の様子が見て取れる。
黄色の小さな鳥が前を横切り、それをちょっとだけ視線で追う。
なんとも心地のよい気分だった。こんな綺麗な場所は、俺が元いた場所ではあったのだろうか。
なんとなく下を見る。教会の隣に作られた畑が見えた。
「その畑、もうちょっと増やさない」
ザイロが指さしてそういうと、イリオは何度か、ザイロの顔と畑を往復して見た。
「え、でも、これ以上増やしても管理が」
「俺が頑張るよ。だからさ、もうちょっと俺をここにおいててほしい。迷惑かな」
イリオは強く、首を横に振った。
「いえいえ! 私も助かります、記憶が戻るまでいてくださって大丈夫です!」
「ありがとう」
俺はザイロ。
元の名前はわからないし、本当はどこにいて、どんな人間だったのかも記憶にない。
それでも、いまはなんだか充実感に溢れている。
もしかすると俺は、困窮する彼女を助けるために、神様がよこした使者ってやつなのかもしれない。
ーーそれが見当違いな考えとわかったのは、少し時間が経った後のこと。
「ザイロさん、起きてください!」
このよくわからない世界に落ちてきて、早くも三ヶ月が経った。
流石にそれだけの時間が経つと、自分がどんな人間だったのか少しずつ分かってくる。
まず俺は、朝が弱い。
イリオの声を聞いて、動きの鈍い瞼を開けるも、せっかちなエレベーターのようにまたすぐに閉じてしまう。
「もー、すぐに寝ないでください、ご飯ができてますよ!」
体を強く揺さぶられ、やっと重い腰をあげる。
「ごめん、顔洗って来る」
といって外に出ていくと、桶の水を手ですくい顔を洗った。
顔を上げ、朝日を眺めるもまだ頭の中は晴れない。
このまま、またベッドに直行してもう一眠りしたい気分だったが、そんなことはいってられない。
教会にはザイロが住み込みになり、必要な食費は倍になっているが、だからといって収益が倍になったわけじゃない。
畑を広げようとしているが、素人が簡単にやろうと思ってできるものでもないし、広げたとてすぐに収穫もできない。
そのため、いまザイロは村に毎日出向いて、農家の手伝いで日銭を稼いでいた。
週に一度の休みもミサの準備に追われる。正直いって休みがない。
それでも、いまは頑張るしかない。
少なくとも、二人で満足のいく食事ができるまでは。
日が完全に昇り切る前には、村に出向かなければならない。
いつもの朝食。パンと焼き豆をかきこみ「いってくる」と教会を出ようとしたとき、
「ザイロさん、手! 手!」
そういわれ、ハッとして手を見ると、まだ灰色のスプーンを握っていた。
これもよくある。手のコントロールができないのか、掴んだものを握ったままにしていることが多い。
危うく、何度か店の物を盗みそうになったことがある。
すぐにスプーンを皿において、忙しない様子で教会を出た。
村に向かう道中には、昔の鉄鉱山が稼働していた名残か、道端にチラホラと落ちている鉄鉱石に躓かないように村にかけていく。
これが、いまのザイロの、朝のルーティーンだった。
その駆ける様を、森の中から観察する男が一人。
「今日はもうこんなところでいい」
農家を営む老人。ハインツがまだ日も高いときにそういった。
村で一番大きな麦畑を持っている老人。口調はぶっきらぼうで、嫌味っぽいことをよく言うが優しい人だ。
「え?」
頬についた土を手の甲で拭ったザイロは、思わず天を仰ぐ。「いや、まだ早いですけど」
「もうすぐ忙しくなる。そのときは夜まで作業だ。今日は早く帰れ」
そういって布袋を無理やりザイロに手渡してきた。
それにはズッシリとした重さがあった。
すぐにいつももらう賃金より明らかに多いことを理解する。
「あの、これーー」
疑問を口にしようとすると、ハインツは「いい」といって、袋を持っていたザイロの手を、押し付けるように握り込んだ。
「何もいうな、今日はこれを持って帰れ」
ハインツは真剣な眼差しでザイロを見る。「イリオちゃんに、よろしくな」
すぐにこれは自分へのものだけではなく、イリオのことを案じたものだと分かった。
彼女は多くの施しを貰おうとはしない。
もし自分ではなく、イリオに渡そうとしたら突っ返されただろう。そういう人だ。
「ああ……はい」
その思いを察したザイロは、そういって頷き、袋をもらった。
帰りに立ち寄った小さな露店街。
まあ、この小さな村で買い物をするとなると、この場所以外ないのだが。
村で唯一の果物屋。
腰の曲がった老人が営んでいるそこに、ザイロは来ていた。
リンゴは万病を防ぐ、という言葉をおぼろげに覚えている。
イリオに聞いても、なにも知らなかった。どうやら前の世界でいわれていた言葉らしい。
信憑性はどうかはわからないが、とりあえず二つ買って帰ろうとしたとき、
「ここのリンゴは美味しいのかな」
ふらりと、隣に立ってきた男からそういわれると、ザイロは顔を向けた。
背格好はザイロより少し高い。
髪の毛は金髪で、その下には優しい雰囲気を思わせる目がある。
上質な生地のロングコートを羽織った、綺麗な身なりだ。この村の人間ではない。
敵意を感じはしない。それでも、ザイロにはただならぬ感覚があった。
心臓を鷲掴みにされたような、そんな気配。
その男の瞳の奥、それを覗くとザイロと同じ状態であることがわかる。
男は微笑んでいった。
「ちょっと、お話いいかな」
「やっぱり美味しいね。いいリンゴだ」
そういって男、オールは、村から少し離れたなにもない草原で、岩に座ってリンゴをかじる。
「それは、どうも」
ザイロはぎこちなくそういった。
敵意がないと直感した。ただ、あの目があった瞬間に感じた異質感からどこか壁を作っていた。
それともう一つ。これはなんとなくではなく、確信を持っている。
「君は、この世界に来る前はどこにいたのかな」
オールにそう問いかけられると、初めての出会いに緊張が走る。
自分以外の、別世界からやってきた人間。
この三ヶ月の間で想定はしていた。自分があるということは、他にも同じような者がいてもおかしくない。
ただ、こんなに早く出会えるとは思ってもなかった。
「日本です」
ザイロが答えると、オールは首をかしげた。
「日本か、知らない名前だな。僕はフランスという国にいたんだ。もしかしたら、元いた世界は別の世界だったかな」
「いや、俺はフランスという国名をなんとなく覚えているんで、多分同じ世界です」
「あ、それは……」
オールは困ったように頭をかいた。「どうも失礼」
「いや、いいですよ。俺も前の記憶はそんなに強く残ってないですし」
そういうと「ありがとう。優しいんだね」とオールは笑ってみせた。
そこから二人は、この世界にやってきてからの身の上話を語り合った。
双方とも前の世界の記憶は薄かった。
オールはザイロよりも少し早い、四ヶ月前にここから少し離れた場所のベリアルという大きな街で目覚め、一人で何とか生きながらえた。
ただザイロとは違い、良い仕事につけたのか、身なりからして金銭には困っていないようだ。
「なるほど、近くの教会で二人か」
ザイロの話を聞いたオールがポツリと答えた。「なかなか大変だっただろう」
「まあ、飢えてはいないし、生きられてはいます。村の人たちは優しいんで」
「そうだね。リンゴも美味しいし、不自由はなさそうだ」
そういってリンゴをまたかじった。
シャクっという、快活な音がなった後、口の中の物を飲み込む。
「それで、君はどうするつもりだろう」
その曖昧な問いかけに、ザイロは首を横にふった。
「どうするもなにも、どうして俺がここに来たのか、意味もわからないんですよ。まあ、何にせよイリオのところに俺はきた」
ザイロは目を凝らして山の方を見た。凝らすとこぢんまりとした教会が見える。「困ってる彼女を助けろってことなんだと思います。だから、とりあえずは教会をーー」
ザイロは言葉をつまらせた。
リンゴをかじろうとしていたオールの手。それが止まり、口を開けたまま停止している。
「君は、何も聞いていないのか?」
その問いかけに、首をかしげる。
聞く? 一体何を。どこの誰に。
本当にザイロが何もわかっていないことを察したオールは、納得したかのように軽く頷いてみせた。
「なるほど、そういうこともあるか」
「あなたは知ってるんですか。俺達がここにきた理由を」
「ああ、知っているさ。君も聞いたはずだ『転生者、ただ一人となったものに……神の力を授ける』」
小さく風が吹いた。頬を撫でるそれが、どこか不快に感じた。
覚えていない。だが耳にしたような気がする。
嫌な予感。
「それって、どういう意味ですか」
恐る恐るザイロは伺う。
「そのままの意味さ。残った一人は神になれる。転生者同士のバトルロワイヤル。僕たちは殺し合うために、ここにやってきたのさ」
今日のスープは、いつもより具材が多く彩りが豊かだった。比較的ーーいや、いままでの食事からするとかなり豪華な夕食だ。
そのため、イリオの表情はいつもより明るい。相対的に、ザイロの表情は暗かった。
スープを何度か口に運んだ後、考え込んだかのように手が止まる。
殺し合うため? 俺達が、いったい何のために。
その疑問が常に頭をもたげる。
そんなことならいっそのこと知らずに、イリオを助けるために来たと思いこんでいたほうが、ずっと良かった。
「あの、ザイロさん」
考え込んでいるとイリオに話しかけられ、ハッとしてザイロは顔をあげた。
「あ、なに」
「お口に合いませんでしたか。あまり手が進んでいないようで」
「いやぁ、すっごい美味しいよ。ほんとに……ほんとにさ」
そこまでいうと、続きの言葉がでなくなってしまった。
「ザイロさん」
イリオは力強く、誠実な眼差しをザイロに向けた。「いつもザイロさんには助けていただいています。なにかあったのならいってください。私のできる限りをします」
ザイロは鼻から重いため息を漏らす。
俺は、隠し事が苦手だな。
今日はデザートも用意していた。
皿に盛り付けられたリンゴを見ながら、また昼の会話を思い出す。
あっ、とザイロは短く声を出した。
オールが食べかけのリンゴを、空に向かって投げたからだ。
少し先の地面に落ちようとしたとき、オールが宙のリンゴに向かって手刀を構えた。
瞬間、ギンっという、金属音のようなものを聞いた。
すると強烈な風が巻き起こり、宙のリンゴは真っ二つに切断され、下の地面には大きな切れ込みが発生していた。
その跡は、まるで巨人の大ナタが突き立てられたかのようだった。
「これが僕の能力だ。真空を作って物体を切断する……というより、すりつぶしているというのが正しいか。この世界に魔法として名前があるようでね。『ギルラト』というらしい。これはかなり強力な魔法なんだとか」
「な、なるほど」
魔法の存在はなんとなくイリオから聞いていた。それを目の当たりにした驚きもあるが、それより殺傷能力の高さ。
いうなれば、オールは人ひとりを簡単に殺害できる能力があるということだ。
不意の恐怖にさっと血の気が引く。
その様子を察してか、オールは敵意のない笑顔を作ってみせた。
「安心してくれよ。君に使うことはないし、それに君も何かしら魔法を使えるはずだ。心当たりはないかい?」
一間、逡巡するも、それらしき力は思いつかない。
「気がついてないだけかもね。発動にもコツがいるんだ。まあ、そのうち使えるさ……さあ、教えられることは教えた、ここからが本題だ。君は、この先どうする」
「どうするって」
そういってザイロは言い淀む。
急にそんな事いわれても、すぐに返答ができるわけがない。
いまはもう、理解のできないことが多すぎる。
ただ、一つだけ確かなことがある。
「俺は、殺し合いなんてしたくないです。たとえ力があろうと。神の力なんていらない。俺は普通に暮らしたい」
ザイロの言葉に、オールは困ったような顔を見せた。
「確かにそのとおりだ。僕も最初はそう思っていた。ただ問題があってね、僕ら転生者同士はどうあがいても引かれ合う運命なんだ。僕は君のことを知ったうえでここに来たんじゃない。たまたま、旅をしているとここに来ていた。そんなふうに、無意識に出会うようにできてる。出会った瞬間にも違和感があっただろう。転生者同士の共鳴って僕は呼んでるよ」
ザイロの目が動揺を表すように揺れた。
「殺し合いからは、逃げられないということですか」
オールは現実を伝えるよう、重い口調でいった。
「そのとおりだ。だから、僕から君に提案がある。僕と一緒に来ないか?」
「オールさんと一緒にですか」
ことの始終を聞いたイリオはそういった。
「そう。オールさんも、別に殺し合いがしたいわけじゃないんだ。でも俺たちは引かれ合う。だったら二人でいたほうが安全じゃないかって」
「なるほど。確かにその通りですね」
その後、なんとも歯切れの悪い間が流れた後、
「ザイロさんは、どうしたんですか」
と問われる。
「そうだな……俺は、できればここにいたい」
そう答えると、イリオの表情に少し明るさが見える。
「そうですか! 全然いいですよ、ザイロさんのおかげですごく助かっていますし」
「ここに転生者がやってくるかもしれない」
ザイロがそういうと、イリオは口を横一線にして黙った。「それは、俺を殺しに来るかもしれないんだ。イリオさんを……巻き込むかもしれない」
「ザイロさん」
目を伏せるザイロ。その右手を、身を乗り出したイリオが両手で強く握った。「この数ヶ月、ザイロさんにたくさん助けていただきました。この美味しい料理もザイロさんのおかげです。今度は私がザイロさんを守ります。安心してください……ザイロさんはここにいてください。」
いま思い出しても、吹き出してしまいそうになる。
大の男が、自分より見るからにか弱い女性に、手を握られ、守りますといわれたのだから。
ただ、その気持が、なによりも嬉しかった。
あの後、味覚が一気に復活したかのように、スープが美味しく感じ、食事を一瞬で終わらせてしまった。
いまは水汲みに来ていた。
イリオに、湖の奥は傾斜が激しいから、絶対にいかないように、といつもの念押しをされて。
ここは自分が転生してきた場所だ。
夕暮れの空が水面に反射し、綺麗な光を作る。その奥には山上から流れてくる滝が、大小の飛沫をあげていた。
思わず、じっとそれを眺めてしまう。
俺は、ここが好きだ。この場所に転生できて、イリオと出会えて、ほんとに良かった。
それがここに残る何よりの理由だ。
だが、イリオにはいわなかったが、それとは別にオールと一緒には行けないーーいや、行きたくない理由があった。
「もったいないですよ、それ」
たいして食べられもせず、真っ二つに分かれたリンゴ。
オールとの別れ際、それを見ながらそういった。
「ん、ああ、そうだね。食べたかったかい? よかったら買ってこようか」
「いや、そうじゃなくて」
バツが悪そうにザイロはそういった。
いま、イリオもザイロも、満足な食事をしているとは言い難い。
それなのに目の前で食べ物を、遊びのように使われると、あまりいい気はしなかった。
「大丈夫だよ、そのうち虫や動物が食べるさ」
そういってザイロに背を向けるオール。
やはりだ。この人は最初に会ったときから覚える違和感。
どこか信用できない。そんな感覚があった。
翌日は農家仕事が休みの日だ。
朝からミサの準備のため、せっせと動いていると、いつもより早い時間に門を叩く音があった。
「やあ、こんにちは」
ドアを開けると、そこに見えたのはオールだった。
「近くによったもんでね、ついでに返事を聞きに来たんだ」
返事は今日の昼にする予定だったが、どうも早まるようだ。
「どうも、お名前は伺っています。イリオさんですね、はじめまして」
オールがニコッと笑って挨拶すると、戸惑いながらもイリオは軽く会釈をした。
準備があるので少しの間、待ってもらった後、オールと二人で教会から少し離れた場所へと歩いた。
「ずいぶん村から離れた場所に教会があるんだね」
「昔はもう少しこのあたりにも家があって、人もいたみたいですよ」
「なるほどね」
雑談もそこそこに、オールは足を止める。「じゃあ、聞かせてもらおうか。僕と一緒に来るかい」
オールの問いかけ、それに対し、ザイロは遠くの方を眺めた後、はっきりとした声で言った。
「すいません、俺はいけません。ここに残ります」
想定とは違う返事だったのか、オールは明確に戸惑いを見せた。
「うーん、それはどうしてだろうか」
オールは軽く頭をかいた。「僕と一緒にいるのは、君にとって最善の選択だと思うんだけどな」
「そうかも知れません。それでも、俺はここに残ります。ここが好きなんです」
転生者 ただ一人となったものに 神の力を授ける。その言葉が脳裏をよぎる。「俺は殺し合うために、ここに来たのかもしれません。それでも、俺はここで生きていきたいです。少なくとも、イリオが……彼女が問題なく過ごせるようになるまでは」
決心が硬いことを察したオールは、諦めたようにため息を漏らした。
「そうか、強制はしないさ。ただ、一人では色々と危険だろう、もしもの時のためにこれを渡しておこう」
近づいてくるオール。
手を、といわれて右手を前に出したーーその刹那。
オールはその手首を掴むと自らのそばへと、ザイロを引っ張った。
肩と肩がぶつかる。同時に、オールの左手がコートの懐へ滑り込むのが見えた。
突然のことに驚き目が見開く。そしてーー
「オール……さん。なにを」
「なにって決まってるだろ」
オールは耳元で囁いた。「言っただろ、これは神になる椅子をかけた、殺し合いなんだ。利用価値のない奴は……殺す」
とっさに両手でオールの体を押すと、二人は数歩離れた。
オールの手には血に濡れた短剣。そして、ザイロの腹部にはそれが刺された跡から、鮮血が溢れる。
激痛。
刺されたことを認識していくほど、焼けるような痛みが左腹部から湧き出て、脂汗が額を濡らした。
痛む傷口を左手で押さえると、熱い血が吹き出る感覚があった。
本能でわかる。俺は元の世界でも、刺された経験などない。
「そんな焦るなって。一応、即死はしない場所を刺したはずだよ」
オールは手についた血を嫌悪するでもなく指先でこすり合わせると、ナイフを無造作に森の茂みに投げ捨てた。
そうだ。本当に殺すつもりなら、魔法で一瞬で殺せるはずだ。
「いったい、なにが目的だ」
痛みをこらえながら問う。
「決まってるだろ、うさぎ狩りだよ。ただ殺すのは簡単だ。それも、能力の覚醒していない奴なんてな。それじゃあつまらない。ちょっとは遊びたくてね」
オールの声には、一切の怒りも殺意も混じっていなかった。新しいおもちゃを見つけた子供のような歓喜。先ほどまでの温厚な表情は消え失せ、吊り上がった口元から白い歯を覗かせる。
サッと、頭から血の気が引く感覚があった。
こいつ、イかれてる。
ほくそ笑むオールは、手で襟元をさげ、鎖骨のあたりを見せつけてきた。
そこには蛍光色の青で、ローマ数字の「Ⅰ」と描かれていた。
「転生者を殺すと、体のどこかに数字が入る。君で二人目だよ。これでまた一歩、神に近づく」
フフフと笑うオール。「なにやってるんだよ。ほら、逃げなよ。十秒だけ待つからさ。もしかしたら、命の危機に能力が覚醒するかもしれないぞ? 割と期待してるんだ。そっちのほうが楽しいだろ」
クソ。
心で悪態をつきながら、オールに背を向けて木々の中を進んでいく。
痛みでうまく歩けない。それでも、歯を食いしばりこらえながら進む。
その心中にあったのは自責の念。
神になれる権利。
得たいと思う人間は少なくないはず。目の前の同じ転生者が、自分と同じ神の力に興味などないと、信じ切ってしまった。
遠く後ろから、オールの足音が聞こえてくる。
もう十秒が経ったのか? いや、あいつが本当に待ってくれる保証など、どこにもない。
視界がかすみ、体に力が入らなくなってくる。
ナイフは急所を外したというが、この出血ではどれだけ命が持つというのか。
オールの視界から外れるように、木の裏に回って座り込んだ。
死ぬのか。また、俺は。
目を閉じ、額から汗が一筋流れると、その瞼の裏に映るのは、この世界にやってきたときからの、短いながらも色濃い記憶。
毎朝、決まった時間に鳴く鳥。
クワを振るい、少しずつ広がっていく畑の匂い。
無味乾燥だったはずが、いつの間にか美味しく感じられるようになっていた豆のスープ。
無論、そこにはイリオの顔がよく見えた。
思えば、彼女のちゃんとした笑顔をみていなかったと気がつく。
気丈に振る舞い微笑むことはあっても、気がつくといつも悲しそうな顔をしていた。
こんなところで、孤独に一人暮らしていたらそうもなるだろう。
もらった大量の金は自分の部屋においてきている。イリオはそのうち見つけるだろう。
急にいなくなるのは申し訳ないが、十分に借りは返せた……か?
悔いがないかといわれれば嘘になるが、どうせ二度目の人生。それなりにやれたんじゃないだろうか。
半ば諦めの感情。それが、ザイロを無理矢理に納得させていた。
「どこだ、ザイロー」
後ろの方からオールの声が聞こえてくる。
まるで、かくれんぼを楽しんでいる子どものように。
ザイロはなにもいわず、木にしっかりと隠れるように体を小さくした。
「君たちは本当に間抜けだよ。神から力と命をもらったっていうのに、わざわざ前の世界と同じような、貧相で惨めな暮らしを望むなんてな。愚かとしか言いようがない」
なじり言葉をかわしながらも、ゆっくりとザイロの方へと近づいてくる。
クソ、血の痕を追われている。
逃げる力も、もう残ってなんていない。
その運命を感じたザイロは、ゆっくりと目を閉じたーーが、
「あの小汚い女がそんなに良かったか」
その瞼はすぐに開かれ、空を穿つかのように血走った。
「都市に来るといい。いい女はたくさんいるぞ。青白い、品の低いきゅうりのような女のほうが少ない。能力があったのなら、好きにし放題だったのにな」
怒りとは、ここまで脳を焼くか。
マグマのような煮えたぎる感触が、腹の底から脳天に向かって貫くように登っていくのを感じた。
自然と、ぐっと握り込んだ右の拳に、何かが当たる感覚があった。
あまりの窮地に気が付かなかった。
そばには純度が悪いから捨てられたのか、鉄鉱石が散らばっていた。
その一つ、握り込める大きさの石を一つ持った。
自分のことはまだよくわかっていない。わかっているのは、朝が弱くて、りんごが好き。そしてーー
鉄を握る手に渾身の力が入った。
こういうクソ野郎は一発ぶん殴らないと、気がすまない。
ナイフは深く刺さっていた。
森の中では少し見にくいが、目を凝らせば逃げた先を追うのは難しくない。
オールは足を止めた。血の痕跡が数メートル先の木で止まっていたからだ。
追い詰めた獲物を弄ぶように、ゆっくりとそれに近づく。
「まあ、君みたいな愚鈍な男は、たとえいま死ななかったとしても、別の転生者に殺されてたさ。運命だと思いなよ」
その木に向かって、縦に手刀を構える。
もう少し遊びたかったが、あの出血ではそう長くはもたない。潮時だ。
「三度目があることを祈るんだな」
耳をつんざくような金切り音。
風が巻き起こり、木は凄まじい勢いで縦に分断された。
瞬間、血しぶきが上がり、赤い雨が降るーーはずだった。
分断された木の奥に、ザイロの姿はなかった。
逃げた? あの傷で? いや、早すぎる。どこかにーー
「うおおおおぉ!」
突然、頭上に影が現れる。
とっさに顔を上げると、いたのは叫び声をあげるザイロ。
そして、その右手に黒い塊。
鉄鉱石越しに伝わる、顔が潰れる感触。ぐしゃ、っという異質な音。どちらも初めてで気色が悪かった。
でも、こんなに心地の良い気色悪さは、きっとこの先に味わうことはないのだろう。
木登りは得意じゃない。
それでも、怒りとは不思議なものだ。
腸が飛び出たって構わない。そう思いながら、全身に力を込めて大して持つ部分もない木を登りきった。
冷静に見ればザイロが木の上にいることはわかったはずだ。
しかし、オールは血の痕を追うあまり、視線が常に下の方にあった。
木が分断され、倒れそうになる。
その瞬間、跳躍しオールの顔面に鉄鉱石をぶち当てた。
後ずさるオールに、地面に尻もちをつくザイロ。
顔の左半分を手で抑えているが、その隙間から大量の血が流れだす。
「このっ…虫けらが!」
「ハハっ」
怒り心頭のオールに、自然とザイロは笑っていた。「その虫けらに、顔を潰された気分はどうだよ」
オールの額にわかりやすく青筋が立った。
「ほざくなよ。あの世で後悔するといい。お前を殺した後は、教会の娘も殺す」
ザイロは息をつまらせる。
「お前っ彼女はーー」
「死ね」
オールが手刀を構えると、ザイロの目の前から、かすかな金属音が流れ出す。
身を守るためにザイロが両腕を前に出すと同時、強烈な金切り音が響いた。
暗い。
目を閉じているからか、とも思ったが違う。瞬きをする感触があったから。
そして、それは完全な暗闇ではない。
黒い色。それが目の前を覆っていた。
徐々に、時間とともに、理解していく。
それはあのとき周りに転がっていた大量の鉄鉱石。それが固まり、ザイロの視界を覆うほどの石の壁になっていた。
それが、間一髪で『ギルラト』を止めた。
少しの間、理解が追い付かずにそれを眺めていると、再度放たれた『ギルラト』によってはじけ飛んだ壁は、真ん中部分が砕け散り、そこからオールの不愉快そうにしている顔が見えた。
「なるほど、それが君の能力かい」
瞬間、巡る記憶。分析する状況。
鉄。浮いてる。固まった。つながる。手から離れなかった。つまりーー
「俺の魔法は……磁力か!」
分かる。
まるでそこに神経が張り巡らされたかのように、周りに散らばった鉄鉱石の一つ一つを知覚することができた。
意識ではなく、直感で動かすことができる。
再度、こちらを目掛けて構えられる手刀。
魔法が発生する前に、両腕を交差させて、周りに散った鉱石を再集結させると、また『ギルラト』によって散った。
いける……やれる。
『ギルラト』は一撃で人を倒せる力はあれど、連射はできない。
短くはあるが、タメがいる。
その隙にーー
生死の間。震える体と心を無理やり動かす。
その右手を、水をかき分けるかのように左へ流すと、小さな鉄鉱石達は流れる川のように動き始めた。
磁力を空中に発動すると、そこに鉄鉱石が浮かぶ。
大きいものは重さで無理だが、小石程度の大きさなら自由に動かせる。
ならば、このまま。
ザイロが右手をあげると、フラフラと揺れていた鉱石たちが、ピタっと止まる。
「貴様、まさか」
察したオールが後ずさるが、もう遅い。
目標はオール。
「ウオオオオォォ!」
怒号と共に、力のままに磁力をそこに向けて勢いよく流す。
宙を舞う鉱石は一斉にオールへと発射され、その速度のまま肉体を穿つーーはずだった。
石は想定よりはるか手前で減速すると、一つたりともオールに当たらず、その足元にポトポトと落ちた。
「クク、アッハッハッハ」
オールは肩を震わせたかと思うと、口を大きく開けて笑って見せた。「なんだその力は。石を浮かせたのには驚いたが、しょせんはその程度か」
ギリっと奥歯を噛みしめるザイロの額に、冷たい汗が流れる。
力が磁力なのはわかったが、この程度となると倒すことはおろか、逃走すら難しい。
「どうも、渡される能力には当たりハズレがあるようだ。石を浮かすしか能のない君の能力で何ができる。上手にジャグリングをするぐらいか?」
嬉々として語るオール。その言葉は殆ど耳に入ってこなかった。
どうすればこの状況を打破できる……どうすれば。
ゆっくりと手刀を構えるオール。
「恨むのなら、自らの運のなさをーー」
『ギルラト』を発動しようとしたそのとき、うめいたような声を漏らすと、顔を抑えてその場で膝をついた。
顔を潰したときのダメージだ。
やはり重傷。簡単に治まるものじゃない。今なら逃げられる。
すぐに踵を返し、走った。
「待て!」
後からオールも追ってくるが向こうも手負い、距離はなかなか縮まらない。
ふと見慣れた景色になった。その後、木々を抜けるとすぐに湖が見える。
いつも水を汲みにくる場所だ。
真っすぐは行けない。迂回するか?
そう思い、後ろを肩越しに確かめると、見えたのはこちらに手を構えるオール。
とっさの判断で湖に入ると、ザイロの少しとなりの水が裂け、水流が巻き起こる。
それに抗いながらも水中を前に進み、対面の岸までついて水から顔を上げた。
ここはイリオによく注意されていた場所。
湖沿い、奥側の道は人ひとり分の幅しかなく、傾斜がある。
そして、その先は二〇メートルほどの緩やかな崖。傾斜角は四五度以上はある。絶壁では無いにしろ、怪我なく降りることはできない。
だが、いまはーー
「クソ」
湖からすぐに上がったザイロは、悪態をつきながらも、角度の鋭い傾斜を足から滑っていく。
一応、背面の土から離れないよう滑り落ちていくが、感覚としては落下しているように思える。
なるべく障害なく下に行けるルートを選んでいた。だが、崖に完全な安全など存在しない。
下に見える突き出た岩。当然、避けられるはずもない。
「ウガッ」
腹。ちょうど刺された部分の少し上に、岩がめり込む。
息が……できない。
体勢を崩し、転げるように落ちていき、そのまま地面に落ちた。
衝撃が全身をめぐり、激痛で数秒、うずくまったまま動けないでいた。
逃げないと。
その思いにかられ顔を上げると、変わった風景が見えた。
落ちた少し右側に洞窟のような、大きな穴があった。
そして、その中には木で作られた壁。隙間からかすかに奥が見え、岩が敷き詰められているのがわかる。
湧き出る何かを抑え込むように作られている。
その岩の向こうから少量の水が、地面を這って流れ出ており、ザイロの足元も雨の翌日のように濡れている。
湖は人為的に作られていたのか。それとも、決壊した部分を補強したのか。
理由はわからない。だが、長い時間を経てそれは忘れられた壁は、老朽化し、今にも崩れ落ちそうだった。
これが壊れたのなら、果たしてどれだけの量の水が流れる。下には村がある。木々が緩衝材になるとしても、一定の被害が出てしまうのではないか。
そんなことを考えていると、ハッとしてザイロは上を向いた。
こちらを見下ろし、睨みつけるオールが見えた。
数秒の間、二人は目を合わしていると、ここを落ちるのは得策ではないと考えたのか、オールが奥へと消えていくのが見えた。
いまはこの壁のことを考える暇はない。
オールがどうするかはわからないが、イリオが心配だ。
幸い、崖から降りたこちらのほうが教会に早くつく。
早くイリオの元へ……。
足早にその場をさろうといくつか進んだあと、ある考えがよぎり、ふと振り返り、壁を再度確認した。
いや……いまはいい。無駄だ。
どうしてだろうか。なぜ、そんなことを考え出したのか。
いまはオールから逃げるのが最優先。
だが、どうしてもある考えが、瞼の裏に入ったゴミのように、ザイロの頭に不愉快に存在感を放った。
イリオ……もしかして、君は……。
「どうしたんですかその怪我は!」
開口一番、ザイロの様子を見たイリオはそう叫んだ。「血だらけで……大丈夫なんですか」
「大丈夫」
そんなわけがないが、とりあえずそう答えた。いまはその話をしている暇はない。
ザイロは経緯をかいつまんで説明する。
「オールさんが?」
「そう、あいつがここに来るかもしれない。だから、とりあえずいまは逃げて」
「でもザイロさんは」
「俺は……大丈夫」
バカの一つ覚えのように、それを繰り返した。それ以外、何をいえばいいのかわからなかった。「魔法も使えるようになったし、たぶん逃げられるから」
イリオから返答はない。
ただ心配そうに口をへの字に曲げて、今にも泣き出しそうにするだけだった。
「こうしてる間にもあいつが来るかもしれない。だから、早く」
イリオは強く頷いてみせた。
「わかりました。ザイロさん、絶対に死なないでくださいね。私、待ってますので」
ザイロも頷いてみせると、イリオはすぐに出口に向かおうとした。
「ちょっと」
その背中を見て、ザイロは思わず呼び止めていた。
いや、いまじゃない。でも……それでもーー
「どうかしましたか」
イリオが振り返ってそう問う。
ザイロは一度、右側のなにもない空間を見た後、イリオに向き直って聞いた。
「近くの……湖の下に、木で作られた壁があった。たぶん、水をせき止めてるんだと思う。それが潰れたら、村が危ない」
「えぇ!」
イリオは驚きの声を上げ、素早く瞬きを二回した。
それを見たザイロは、視線を下に落とす。
「村の人達に伝えたほうがいい」
「そうですね。すぐに村にいってそのことをーー」
「知らなかったのか」
言葉を遮ったザイロの問い。それにイリオは戸惑いの表情を見せる。
「えっと、何がでしょうか」
「壁のこと。ここにずっと住んでたんだろ。気づくタイミングは、いくらでもあったはずだ」
ザイロの頭から離れなかったのはその疑問。
ここに住んでいるというのに、あれにまったく気が付かずにいままでいたというのは、考えにくい。
わかっていて黙っていたのなら、一体どんな目的があったのか。
オールがいつ来るかもわからない、危機的状況。
それでも、イリオがもし黙っていたというのなら、その心中を伺わずにいられなかった。
もしかしたら、ザイロは明日を迎えることができないかもしれないから。
「いや、私……気が付きませんでした」
イリオはゆっくりと語りだした。言葉を選ぶように。「やめてくださいよ。そんな、黙ってたら村の人達が危ないじゃないですか」
「わかってるさ。だから、なんでそんなことしたのか知りたかったんだ」
イリオの目が見開かれた。初めて見る、彼女の怒りに満ちた顔だった。
「適当なこといわないでください! わたっ……私は、知ってたら皆さんに伝えていました。こんなときに変なことを」
ザイロは目を閉じ、眉間に深いシワを寄せる。
そう、俺の勘違いなら、どれだけいいか。
でも、どうやら俺はーー
「イリオ、ごめん」
人の嘘を見抜くのが得意みたいだ。「君は嘘をつくときに、素早く瞬きをする。二回だけ」
すうっと、イリオが限界まで息を吸うのが聞こえた。
その瞼はピクピクと痙攣している。
「初めてあったときと……それから何度か、それを見てる。嘘をつくときの……癖だ」
言葉の一つ一つを発するのが重く、うまく出てこない。「俺に……心配をかけないように、嘘をつくとき……絶対にそうする」
数秒の間、自分の強く脈打つ心拍が綺麗に聞こえるほどの静寂が訪れる。
「ザイロさん……ザイロさんは、神様を信じますか?」
小さな震える声でそういうイリオの声は、今にも消え入りそうで、見開かれた瞳は暗く、どこまでも続く闇に見えた。「私はもう、わからなくなりました」
その顔は、笑っているような、それとも泣いているような。
魂の込められていない人形のように、淡々と、事の顛末を語り始めた。
イリオの両親は敬虔なライル教の信徒だった。
父は教の内部でもそれなりの地位にいたようだったが、イリオが生まれてすぐ、都市にある本部から離れ、この遠くの小さな村に移り住んだ。
その心中は完全にはわからないが、人間関係に疲れて来たのだろうと思う。
正直、生活は貧しかった。しかし、絶望はなかった。
両親も、村の人々も優しく、幸せに満ち溢れていた。
でも、物心がついてきたイリオは知り始めてしまった。貧富の差というものを。
父は顔が広く、よく遠方の人から祈りを頼まれる事があった。
その際は親子で出向くのだが、多くの人は家が大きく、権力と財力のある者だった。
病に伏せている地主のために、祈ってほしいという依頼。
ライル教には祈りに大きな力が宿るといわれ、特に敬虔なる信徒の祈りには価値が有る。
イリオも父と一緒にそばで祈った。その地主が健康になれるよう。
だが、その祈りのさなか、疑問があった。
果たしてこの行為に、どれだけの意味があるのか。
家は大きく、庭も広い。
横たわっているベッドは自分たちがいつも使っているものと違い質が高く、部屋は掃除が行き届いている。
食事も肉中心の豪勢なもの。
祈らなくても、この環境でゆっくり休んでいるのなら、自然と治るのではないか。
祈りに力が有るとするのなら、もっと持たざるべき人たちのために行ったほうが良いのではないか。
生まれた小さな疑念。それは連鎖し、大きな疑問へとつながっていく。
祈り。人。運命。天国。神。
それらすべてが偽りなのではないかと、うっすらと思い始めてしまった。
数日後、地主は元気になったと連絡があったが、祈りの成果とは思えなかった。
そんなとき、母が床に伏せた。
原因はわからない。ただもともと体は丈夫な人ではなかった。
母のために、毎日、一心不乱に祈った。
それ以外、イリオにやれることはなかった。
一ヶ月足らずで母は息絶え、その半年後、まるで後を追うように、父は流行り病にかかり死んだ。
あっけなかった。過ぎ去る風のような、一瞬の出来事に思えた。
なぜ両親はこんな簡単に死んでしまったのだろうか。
祈りは無意味なのだろうか。神はいるのだろうか。
もっとお金があれば、栄養のある食事があれば、清潔な寝床があれば、両親は死ななかったのではないか。
その時には、イリオは限界だった。
父が死んで少ししてから、自害をしようと考えていた。
だがライル教に自害は許されていない。
体に染み込んだ信仰心は、疑念があれど消えることはない。
彼女の過酷な境遇は、いつの間にか神を信じきれぬが、それでも離れられぬ歪な信仰者を生み出していた。
意味はあるのか。それを問いながら、毎日祈る日々は、胸が焦げ付きそうなほど辛かった。
そんな時、水をせき止める壁を見つけた。
崩れれば村に被害が出る。
すぐに知らせようと思った。だが、イリオはその道中、足を止めて考えた。
村には信徒がいる。もし神がいるのだとすれば、この壁が崩壊する前に、誰かに気づかせてくれるのではないだろうか。
奇跡の力で、村は守られるのではないか。
壁は永遠に決壊しないのではないか。
もし……神がいるのなら……。
「私は、試したんです。神様を」
神への疑念。それがイリオの理由だった。
なんと返していいかわからず「そう、か」とザイロはつぶやいていた。
イリオの心はだいぶ前から壊れていた。
思い返せばだが、彼女は決して暗い顔をしなかったが、その逆、満面の笑みも見ることはなかった。
心の中でこれがずっと引っかかっていたからだろうか。
考えていると、イリオはフフッと暗い顔のまま嘲笑してみせた。
「ひどいですよね。自分の疑問のために、村の人たちの命を危険にさらすなんて」
「別に、あれが決壊したからって、人が死ぬとは限らない……だろ」
慰めるための嘘じゃない。土砂崩れが起きたからといって、村まで大きな被害がいくかは実際わからない。
「だからって、黙ってていい訳ないじゃないですか」
至極真っ当な返答に、ザイロは口をつぐむ。
イリオは突然、くるりと踵を返し、出入り口の方を向いた。
「ザイロさん、逃げてください。オールさんは私のことも狙っているんですよね。だったら私が時間を稼ぎますから」
「何いいだすんだよ。これは俺の、転生者の問題だ。イリオがそんな、命をかけるようなことする必要はない」
「いいんですよ、もう。本当はどこかで終わらせられる時を探していたんです。これはいい機会かもしれません」
いい機会?
その言葉にザイロは目を見開き、すっと息を吸う。
湧き出る感情は、怒り。
何を勝手なことを言ってるんだ。
「私、すごく楽しかったです。同年代の友達なんていなかったから。だから、ザイロさんは私の代わりにーー」
「ふざけんじゃねぇ!」
教会内に、ザイロの怒号が響いた。
ゆっくりと振り返るイリオ、その目から涙が流れていた。
「でも……だって」
「知るかそんなこと!」
感情に任せ、近くの壁を力いっぱいに叩く。「ふざけんじゃねぇよ。簡単に死ぬと言いやがって。さっき、俺に死ぬなって言ってたじゃねぇか。それを、お前……自分は……簡単に」
イリオからは返答はなかった。ただ沈黙と重い空気がただよう。
「どいつもこいつも。なにもかも」
クソ……チクショウ。
拳を握り込み、床を睨みつける。
怒っていた。全てに。
参加させられた殺し合いも。勝手なことをほざくイリオにも。オールにも。この世界にも。
そして何より、自分の弱さにも。
やり場のない怒りが腹を捻り、今にも嘔吐しそうだった。
そんな時、ふと気がつく。
理由はわからない。だが、刺されていた腹。その血が止まっている。
あまりのことに小馬鹿にするかのような、呆れた笑みがこぼれた。
こんな煮詰めたドブを飲まされたような気分になるなら、いっそこのまま失血死したほうが楽だったのにと思った。
それだというのに、どうもイカれた神様はまだ死ぬなと、適当な気まぐれで俺を生かそうとしている。
その時である、ザイロの頭の中で、何かが一つ、切れた感覚があった。
一つ、長く震えた吐息をすると、そばの椅子にどかっと音を立てて座った。
「教会を出て、村に行け」
イリオはなんと返していいのかわからないのか、数秒の沈黙が続く。
「いいから行けよ!」
不意の叫びに、イリオがビクッと体を浮かせたのを感じた。
その後、ゆっくりとドアの方へと足音が遠のいていく。
「ザイロさん、その」
ドアを開くと、イリオはそう言った。「身勝手な事を言っているのは、わかってます……それでも……やっぱり、死なないでください。お願いします」
ザイロが背中を見せたまま、何も語らないでいると、ゆっくりとドアは閉じられた。
音一つない教会。
濁ったステンドグラスの前で、ザイロは静かに、怒りを溜め込んでいた。
何分かすると背後のドアがゆっくりと開いた。
それを開いたのは誰なのか、ザイロにはわかっていた。
「変わったじゃないか、ザイロ」
戸惑っているようなオールの声が、教会に響いた。「外からでも、君のひりついた魔力を感じた。女の気配がないが、それがーー」
「うるせぇ」
背を向けたまま立ち上がる。「べらべらと、おしゃべりしにきたわけじゃないだろ」
虚を突かれたのか、一瞬だけオールは言葉をつまらせたが、すぐにフンと鼻を鳴らした。
「ずいぶんな口ぶりじゃないか。どんな変化が君にあったのかは知らないが、そんな僅かな時間で僕を上回れるほどーー」
瞬間、地鳴りと共に大きく地面が揺れ、オールは体勢を崩した。
と同時、束の間に見えた不可解な景色に目を取られる。
少し上げられたザイロの右手。
それは先ほどまで魔法を使えなかった者とは思えぬほど、莫大な魔力をまとい、その掌は地面に向けられていた。
「な、なんだ。貴様の能力は……小石を浮かせる能力じゃ」
「知るかよ」
ザイロはそう返した。
説明する気はないし、原理も理屈も自分でもよくわかっていない。
ただ、わかる。
俺は今、全部潰せる。
「とりあえず、ここをぶっ壊す。不愉快だ」
そういうと、教会となりの木々。その地面が隆起し始めた。
理由は不明であるが、怒りの臨界点に達していたザイロの体からは、とてつもない魔力を放っていた。
それは能力の規模にも作用した。
ちょうど、教会の地面の深く。三メートル程下。そのあたりに小さな鉄鉱石が埋まっている。
それに魔力を込めると、力は伝播し、また他の鉄鉱石につながる。
水の波紋のようにザイロの魔力が広がると、山のほとんどの鉄鉱石を知覚することができた。
それらを思いのままに操作ができる。
今、この山はザイロの手の中にあるといってもいい。
隆起した土木は土石流となり教会にぶつかり、ステンドグラスがすべて砕け散る。
「死なないように、せいぜい頑張れ」
オールが叫ぶ間もなく、強烈な音を立てて壁は砕け、土木が流れこんできた。
とっさに、自分を飲み込もうとする土石流に『ギルラト』を放つが、それで止まる量ではない。
ドアの外まで走りなんとか飲まれることは避けたが、石や木々が体にあたり、その場に転がるように倒れると、大量の砂がかかる。
四つん這いになり、口に入った土をツバと共に吐き出しながら、肩で息をする。
「クソ! なんだ、なんでこんな……覚醒か? いや、強すぎる。どうしてここまでの魔法が使える!」
「そうだな、教えてくれよ」
オールが声の方を向くと、教会を飲み込んでできた小さな土の山、その上から見下ろすザイロ。
「お前のほうが詳しいだろ、魔法ってやつ。教えてみろよ」
「貴様ぁ!ーーグァ」
『ギルラト』を放つために手刀を構えるも、その前に風を切る速さで飛ばされた小さな鉄鉱石のかけらが、オールの体に三発撃ち込まれ、うずくまる。
「そんなに焦るなよ」
ザイロは、静かにそう答えていた。
もう、自分の感情や身体の状態がわからない。
体が昂りふるえているようで、それでいて冷たく、冷静であるような気もした。
ゆっくりと、ザイロの周りの土砂が隆起し、その土の中から大小の鉄鉱石だけが顔を出し、つながっていく。
「なんだ……それは」
震える声で問うオール。
「何だって? そうだな。あれだよ。鉄の人形。アイアンゴーレムってやつじゃないか」
鉄鉱石は紡がれ、全長三メートルほどの人形を作った。その肩のあたりに、ザイロは乗っている。
すぐさまオールはザイロに向かって『ギルラト』を放つも、ゴーレムの右手に防がれた。
右手は砕け散るも、ザイロには一切届いていない。
「そんな」
言葉を失うオール。
それに対し、ザイロは淡々と、静かながら確かな怒りをもち、独り言のように語る。
「くだらねぇ。くだらないんだよ、何もかも。神になるだの、殺し合いだの。お前も……この世界も、何もかも!」
ザイロが右手を上げると、砕け散ったゴーレムの右手が再集結し、同様に上がった。「そんなもん全部! 俺が全部ぶっ潰してやる!」
ゴーレムの右手は振り下ろされ、土煙と共に地面を揺らした。
イリオが村に降りると、村人たちは次々と家から出てきた。
見知らぬ人間などいない。皆、親戚のようなものだ。
彼女の蒼白の表情を見ると、心配し、瞬く間に彼女を取り囲んだ。
どうしたのか。体に異常があるのか。
たくさんの声をかけられるも、イリオは下を向き返答しなかった。
胸が氷のように冷たく、痛い。
皆を見殺しにしたかもしれないという罪の意識が、彼女の言葉を遮っていた。
なんと言えばいいのか。どう顔向けすればいいのか。
思案していた次の瞬間、ズシン、という地鳴りのような音が山から響いた。
「あれは……なんだ」
か細い声を出しながら、山を、教会のあたりを指さした村人。
その先を見ると石で出来た、巨大な人形のようなものが見えた。
ふと、我に返る。
脳裏によぎるのは湖の壁。
「み、皆さん! 逃げる準備をしてください!」
湖に壁があり、決壊しかけていることを口早に説明した。
「もしかしたら、土砂崩れが起きるかもしれません。皆さん、避難を!」
村人たちはすぐには状況を飲み込めなかったようだが、理解し始めたものから大声をあげて駆け出した。
イリオは再度振り返り、人形を凝視する。
「ザイロさん」
これは偶然か。それとも、俺はどこか冷静だったのか。
ゴーレムの手は確かにオールめがけて放った。相手が死ぬとか、どうなるとか、そんなことは考えていなかったはずだ。
それでも、外れて少し手前に落ちた。
死を覚悟していたオールの顔からは血の気が引き、固まっている。
今のザイロに、怒りの感情はなかった。
それはすでに発散され、どこかに消え去っている。
冷静になった自分を再確認すると、みるみるうちにゴーレムの磁力による結合が弱まっていく。
「うおおおおぉ」
間抜けな声を出しながら、ゆっくり崩れていくゴーレムから滑り落ちた。
「あっぶねー。普通に落ちたら怪我するだろ」
体についた土を払い、改めてオールの方を向いた。
彼は未だに尻もちをついたまま動かず、放心して崩れたゴーレムの手をみていた。
「おい、お前ーー」
ザイロが呼びかけた瞬間、オールはハッとして顔を上げて手刀をこちらに向けた。
「近づくなぁ!」
乱心し『ギルラト』を放たれるが、的をしっかりと取っていなかったのか、ザイロからかなり外れた場所に打ち込まれた。
「おい待てよ!」
ザイロはすぐにゴーレムを作っていた大きな鉄鉱石の山に身を隠した。「もうやり合う気はーー」
ザイロの声は届かず、三度、四度と鉄鉱石に『ギルラト』が打ち込まれる。
オールは乱心し、会話のできる状態ではなかった。 ザイロも、さっきまで感知できていた鉄鉱石の気配が薄れ、出せる磁力が弱まっているのを感じている。
クソ、今戦って勝てるのか。
なんとかこの場を収める方法を探っていると、ふと『ギルラト』が止まる。
ゆっくりと石から顔を出すと、遠くの方にこちらから離れていくオールの背中が見えた。
その後、疲れたような一つため息を落とす。
神の力など興味はない。さっさとこの場所から逃げてくれればいいーーそう思った瞬間、ふとよぎった。
逃げた先。あの先は確か……。
いや、あいつがあそこに行く理由は? 行ってどうする。意味なんてない。
そんなことを思いながら、ザイロはその背中を追っていた。
意味なんてない。そう思い過ごせないほどに、ここ最近、悪い予感が当たりすぎていた。
クソ!……クソ、クソ!
何度もそう思った。
オールを追った先にあったのは、あの洞窟。
湖の水をせき止めていた壁。
なぜここを知っている。どうしてここに来た。
あの時……あの時、ちゃんと殺せていれば……。
「ザイロ!」
洞窟内から声が響き、ザイロは足を止める。
ザイロは洞窟の横にいるため、双方姿は見えない。
それでも、見えないザイロに対して叫び続ける。
「早く出てこい! こないなら、この壁を破壊する」
ザイロはギリっと、奥歯を噛み締めた。
そんなことしてどうなる。自分も死んで、村に被害が出るだけだろ。
乱心しているのか、考えの整合性が取れている様子がない。
姿を見せるか迷っていた。オールとて、ザイロが追ってきている確証などないはずだ。
「出てくるのを待ってるのか? そんな罠に引っかかるか。お前がその気なら、村は水に飲まれるだけだ」
この……野郎。
拳に力をぐっと込めると、しぶしぶといった様子で洞窟の入口に立ち、オールと向き合った。
「いるならすぐに返事をしろよ」
小馬鹿にするようにそういうオールを、ザイロは睨みつけた。
「何の真似だ、お前。ここを壊してどうするつもりだよ」
洞窟に入りはしない。『ギルラト』を構えられてもすぐに避けられるように。
「決まってるだろ。どうせ死ぬんだ、あの村も道連れだ」
「俺はお前を殺すと言った覚えはない。神の力なんかに興味ないんだよ」
「ああ、そうだな。僕もそういって、君を騙したよ」
話が通じない。
肩を上下させ、深呼吸する。
「わかった、取引だ。お前を逃がすから、壁は壊すな」
「取引というのは、対等な立場でこそ成立する」
そんなことはわかってる。
だが、立場で言うなら魔力の萎えた今の自分より、『ギルラト』を使えるオールが上だ。
それは決して口に出さない。知られればこちらの命が危ない。
現状、力はこちらが上であると思われてないといけない。
「前に出ろよ、ザイロ。そんなところじゃなくて、中に入ってこい」
ザイロは鼻から重い溜息を漏らす。
こちらが安全圏にいるのは分かっているようだ。 ジリジリと、焦げ付くような視線を交わす二人。
ザイロはゆっくりと、大地を踏みしめるように前に出た。
五歩ほど前に出ると「止まれ」とオールに静止される。
「これでいいだろ。さあ、オール。ここを出ろ。俺の横を通り過ぎて、二度とここに戻るな」
もう『ギルラト』を躱しきれる距離じゃない。状況は絶対的にオール有利。だがーー
「いいだろう。だがその前に、その拳の中の物。それを捨てろ」
ザイロの脊椎を冷たい何かが通ると、右手の拳をぐっと握った。
その中にある、体温で温められていた鉄鉱石が手汗でじわりと濡れる。
これはザイロの最後の生命線。
『ギルラト』の躱せない洞窟の中に入ったのは、この石があったからだ。
構えを見た瞬間に反撃すれば、逃げられるだけの隙は稼げる……はずだった。
思えば考えとしては浅い。
敵が拳を作ってそれを解かないとなると、そこになにかあると考えるのが普通。
服や何処か見えない場所に隠すべきだったが、必死の中、そこまで頭が回らなかった。
「さあ……それを捨てるんだ……ザイロ!」
冷たくも強く心臓が高鳴る。まるで地面が揺れていると錯覚するほどに。
捨てればオールは大人しく逃げるのか。
そうすればすべて丸く収まる。捨てたほうがいいのか。
いや、コイツは信用できない。だが、村を危険にさらすわけにいかない。
数秒にも満たない時間だったが、何度も、何度も頭の中でザイロは思案を繰り返した。
その後、意を決したザイロはゆっくりとオールと視線を合わせた。
「これは……捨てられない」
強く、純真な目でオールを見る。「でも俺はお前を逃がす……信じてくれ」
潰れそうなほど重い時間が過ぎたあと、オールはフッと笑ってみせた。
「なるほど。わかった信じよう」
少しだけほころんだザイロの表情は、『ギルラト』を壁に構えたオールを見た瞬間消えた。
「三度目があることをな」
「バカ!お前っーー」
「また会おう」
瞬間ザイロは振り返った。
オールのその目に死の覚悟を見たから。
背後で壁の決壊する音。
ザイロが穴の横に出た瞬間、凄まじい量の水が吹き出る。
まるで滝が横切っているかのよう。
刹那、逡巡する。
水の量、村までの距離。勢い、土砂、村に到達ーー
「イリオ!」
喉が張り裂けそうになるほどに叫ぶと、萎えていた魔力が一気に吹き返り、山の中に点在する鉄鉱石全てに巡らせた。
山は揺れ、足元の土が盛り上がった。
まるで意思を持ったかのように動く土の流れ、それは水の本流よりも早くザイロを村の方向へと運ぶ。
ザイロは土を操っているわけではなく、その中に埋まっている鉄鉱石を操作している。
鉄鉱石だけでは水を防げない。
連動する土が剥がれぬように、それでいて山が崩れないよう繊細に。それでも、水に間に合うよう大胆に流れを作る。
土の中に砂鉄を多く含んでいる場所が多いのか、それは十分に多い土を運べた。
まるで山が意思を持ち、幾重もの手を伸ばしているかのように、ザイロの下へと土の流れが集まっていく。
水よりも先にふもとへと着いたザイロ。
三〇メートル程先にある村。
いくつか人影が見えたが避難を伝えるため、叫ぶ暇もない。
その人影の一つ。
イリオ。彼女と目が合ったーー気がした。
そのことを一秒たりと、考える隙はなかった。
振り返り、両手を前に出して自分の中から発しているであろう魔力。それを直感ながら全力で発する。
過度な運動をしているときのように、全身から沸き起こる熱と、腹の底に血溜まりでもできているかのような鈍い重さを感じる。
呼吸は正常だ。だが、脳に酸素が巡っていないのかと錯覚するほどに、視界が歪み、頭が回らなくなってくる。
まずい状況だが、それでもザイロは魔法を止めなかった。
いくつかの鉄鉱石を含んだ土の流れがザイロまでやってきて、水の流れを左へ流すように角度のゆるいL字の壁を生成したが、高さはザイロの身長より少し高い程度の物。
到底、水をせき止められるものではない。
まだ土の量がたりない。
その時、数メートル先、木々をなぎ倒しながら迫りくる濁流が見えた。
「ウオオォ!」
すでに限界に近い体を更に奮い立たせ、魔力を込め、更に土を集め壁を高くしていく。
意識が飛びそうになると、歯を食いしばり耐えた。
視力も落ち、脳の処理能力もほとんどなくなっていた。
ぼんやりと見えてはいるが、いま目の前がどのような状況なのか理解ができていない。
無我夢中。感覚は薄いが、とにかく山から流れてきているであろう土をかき集め、壁を作る。
次の瞬間、ドンっという音とともに、壁が少しだけ動いた。
壁から土が散り、水が数滴、壁を超えてザイロの頭を濡らす。
耐える。
磁力を込め、壁を強くし、とにかく耐えた。
すると、予想通り村の外側を、畑の一部を飲み込みながら土砂は流れていった。
それを感じ魔法を解除して、その場に倒れ四つん這いになったザイロだったが、気を緩めることはなかった。
水の流れはできたが、この壁がどれだけ持つかはわからない。次の瞬間には、決壊するかもしれない。
もう魔法は使えない。そうなればザイロは土砂に飲まれるしかない。
崩れるな。そう思いながら、壁を睨みつけていた。
一〇秒…二〇秒
水の流れが落ち着いていく音が聞こえてくると、徐々に安堵感が込み上げてきた。
同時、ザイロは完全に地面にうつ伏せで倒れた。
意識は暗闇へと消えていく。その最中、イリオの声を聞いた気がした。
ザイロが意識を失ったあと、ハインツの家に運ばれて、そこで丸一日眠っていた。
作った壁は決壊することなく、村は無事だった。
「夜な夜な呻きやがって、眠れんかったわ」
ハインツに目覚めてすぐにそんなふうなことを言われたが、顔は嬉しそうに笑っていた。
目覚めて次の日からは、家の中だけではあるがハインツの作業の手伝いをしていた。
食欲もあり、三日もするとほぼ完全に回復していた。
問題は、イリオだ。
教会を失った彼女は、ザイロと一緒にハインツの家に世話になっていた。
息子達が村の外で働いているらしく、空き部屋は多い。
昼飯のためにパンの乗った皿を持ったザイロは、その一つのドアをノックした。
「イリオ。入っていいか?」
中からか細く、どうぞ、と声が聞こえた。
ドアを開くと、窓際の椅子に腰掛けるイリオが見えた。
窓の外に向いていた目が、ゆっくりとザイロの方へと向く。
その目から、完全に光が失われていた。
村の皆は教会が潰れてしまって、そのショックだと思っているが、実際はそうじゃない。
本当は村を危険にさらした、自責の念からだ。
「パン、持ってきたぞ」
「ああ……ありがとうございます」
声は小さく、表情は動かない。
隣にある机の上には朝食が手がつけられず、置かれてあった。その隣にパンを置く。
彼女はザイロが気を失っているときも、目覚めてからも何も食べていなかった。
時折、水を飲む程度で、その他の時間は眠ることすらなく、虚ろな目でただ窓の外をじっと眺めているだけだ。
「なあ、何か食べろよ。ハインツさんも心配しているぞ」
「そうですか。でも、食欲がなくて。すいません」
返事はあるが、その言葉に抑揚がなく、気持ちがこもっていないのを感じる。
この適当な意味のない会話も、もう何度目か。
痺れを切らしたザイロは、イリオの視界を妨げるように窓の前に立った。
「イリオ……色々とショックだったのはわかる。でも、このままじゃほんとに死ぬぞ。草木じゃないんだ。水と日光だけじゃ生きられない。せめてパンでも食べてくれ」
イリオは視線をゆっくりと上げて、ザイロと目を見合わせる。
「そうですね……食べろと言うのであれば、食べましょうか?」
その投げやりな返事に、ザイロは流石にムカっとした。
「何だよ、それ」
「私に生きている価値はありません。自分の身勝手な思いでこの村を危険にさらしました」
「でも村は無事だ」
「ザイロさんがたまたま居てくれたからです。ですから、ザイロさんは恩人です。あなたが食べろというのであれば、食べます」
イリオが死期の近い老婆のように、震える両足で立ち上がろうとすると「やめろ」とザイロは制止する。
「もういい、無理しなくても……食べられそうなら、食べてくれ」
「ええ、わかりました」
重い溜息を漏らしながら、椅子に座り、手のつけられていない朝食を机の上においた。
どうしたものか。
眉間に手を当て思案するも、答えは出ない。
「今日も食べんか」
声がして隣に目をやると、休憩中のハインツが部屋に入ってきた。「ちょうどいい。俺の昼飯を準備する手間が省けた」
「すいません。今日は食べるように言ったんですが」
「いい、お前のせいじゃない」
ハインツも同じように、重い溜息を落として椅子に座った。
朝食を見つめながら、何かを考えるように頷くと「ザイロ……お前は村をでろ」といった。
突然のことに驚いたが「はい、わかりました」と次の瞬間には答えていた。
村にはできるだけ残っていたいが、長くはいれない事情があった。
転生者の件もさることながら、土砂崩れのことだ。
命がけで助けたことは伝わっているが、そもそも土砂の原因がザイロではないのかとの噂もたっている。
村の住民は敵と味方。おおよそ半々といったところだ。
「あの土砂も、イリオちゃんも、お前のせいじゃないことはわかってる」
とハインツは言ってくれた。「なにか事情があったんだろう。だが、お前はここに来て半年もない男だ。不安がる奴も居て当然だ」
ハインツには転生者のことも、イリオのことも言っていないが、なんとなく事情があることを察してくれている。
「急だが、明日の朝にはでろ……お前を匿っていると良くない顔をするやつもいるからな」
「はい。すいません、迷惑ばかりかけて」
ハインツはフンと鼻を鳴らしてみせた。
「かけられすぎて、どれだけ貸しがあるのかも忘れた。気にせず出ていけ……それとーー」
ハインツはかしこまったように、ザイロの目を見つめた。「これは俺からの願いだ。イリオちゃんを連れて行け」
ザイロは苦い顔をして、視線をそらした。
「いや、俺じゃあどうしようも」
「お前で無理なら、俺ならなおさら無理だ。ここに居ても、イリオちゃんは死んでいくだけだろう。先の短いジジイの願いだ……頼む」
部屋はロウソクも着いておらず暗い。
それでも、イリオは暗闇の中で夜空の月をじっと見つめていた。
いつもの光景だ。
その様子を火の着いた燭台を持ったザイロが眺めている。
「イリオ」
名を呼ぶも返事はない。それでも、ザイロは続ける。「明日の朝、俺はこの村を出る。イリオ、一緒に行かないか」
「ザイロさんが、来いと言うのであれば」
無機質で、淡白な返事が返ってきた。
「そんな理由なら、来ないでいい」
ザイロも努めて冷静に答え、本来イリオが眠るはずであったベッドに腰掛けた。「ここで死ぬのが、外で死ぬのに変わるだけだろ」
ザイロは燭台を置いて、右の拳を左の手のひらで包み、考えるように手を動かし、イリオに伺う。
「いま、どんな気持ちなんだ。どうしてずっと空を見てる」
「さあ、私にもよくわからないです。ただ何もする気が起きなくて……きっと、生きてる意味がわからないからだと思います」
「そうか。なら、その生きる意味を探しに行かないか」
「その行為に意味があるでしょうか」
「わからない。ただ俺は、イリオが俺に死なないでって言ってたのと同じで、俺もイリオに死なないでほしいだけだ」
沈黙。返答はない。
ザイロは燭台を持って立ち上がる。
「夜明けに出る。まだ、ほんのカケラでもいい。生きたいという気持ちがあるなら、来てくれ……お願いだ」
朝が来た。
疲れはあったが、夜はなんだか眠れなかった。
荷物をまとめ背負う。
そして、イリオの部屋の前に立った。
不安で震える手で、ぎこちなくノックした。
……返事はない。
二度、三度と、強めにノックした。
それでも返事はない。
ドアを開けようと思ったがやめた。
それをすると、無理やり彼女を連れて行ってしまいそうになるから。
「お世話になりました」
ハインツにそう言うと、すぐにぐっと強く抱擁された。
「一年も経てばみんな忘れる。また顔見せろよ」
「はい。でもすいません、イリオはーー」
「その話はいい」
ザイロには語らせずに、ハインツは抱擁を解いて、両肩をぐっと掴んだ。「あとは俺に任せろ」
その目は柄にもなく涙ぐんでおり、ザイロの目からも思わず涙が溢れそうになった。
「ありがとうございます。また来ます」
空は少し青みがかっていた。
静寂の村の中を進んでいく。
足取りは少し重い。イリオのことが頭から離れないから。
でも、いつまでも考えていてはだめだ。
人のことばかりではなく、ザイロ自身も、自分が生きるためにするべきことを考えなければならなかったから。
名残惜しくもあるが、村を出て、簡単に舗装された土の道をまっすぐに進んでいく。
これを進めば別の街があるらしい。
果たして何日かかるだろうか。野宿もしなければならない。うまくできるだろうか。
そんなことを考えていると、視界に入ってきた光景に、信じられず何度か瞬きをする。
奥で、岩に腰掛ける人影が見える。
きっと女性。フードで隠れているが、見慣れた金の髪が見える。
心臓が高鳴った。自然と足早になり、気がつけば走り出していた。
近づくほどに明確になる。彼女はーー
「イリオ!」
前にいるというのに、無駄に大きな声でザイロは名前を呼んでいた。
「えっと……ここに、なんで」
急に走り出したので息が荒く、頭の整理も追いつかない。
ザイロが混乱しているのとは相対的に、イリオは静かに視線を上げた。
「なんでと言いましても……ザイロさんが来いと」
「でも……どうして部屋に」
「ハインツさんに申し訳なくて……忍び出てしまいました」
「あ、そう。そうか……いつからここに」
「夜明けとおっしゃっていたので、空の色が変わり始めたときにはここに」
「じゃあ、結構待ったんじゃ」
「そうですが、部屋にいるのとあまり変わりませんので」
「そうか、ハハ、そうだよな」
とちょっと笑ってみせたが、今は笑って良い状況ではないのでは? と自問して、ザイロはバツが悪そうに唇を舐めて視線をそらした。
なんだか安心したのか、心が落ち着かない。
いや、安心している場合じゃない。
ここから……ここからだ。
ザイロは小さく息を吐いて思考を切り替え、道の先を見据えた。
「それじゃあ、行こうか」
「はい」
行ってどうするのか。その先に答えはあるのか。
正直、それはわからない。
ただ、オールが言っていた通り、転生者同士は引かれあう。
逃げ続けることはできない。
ならば、神に仕組まれたこの殺し合いを終わらせる。その方法を見つけるしかない。
ただ、最初の目標は……イリオの笑顔を取り戻すこと、かな。
そんなことを思いながら、ザイロは進みだした。