全身が痛い。全てが余す所なく。
肉体の安全を考えなかった訓練のおかげか、不愉快な感覚と痛みで、ザイロは目を覚ます。
窓から差し込む光は燦々としており、朝はすでに大きく過ぎていたことを示していた。
現在休業中、ベルの酒場の二階を借りている。
いつもなら誰かが、基本的にイリオが起こしに来て、それでもまあ起きないのでリサに乱雑に起こされるはずだが、今日はそれでも俺は寝ていたのか。
目をこすりながら踊り場のある階段を降りると、中央の机に、すでに済んだ後か、朝食の残骸と三人がいた。
「あ、ねぼすけ野郎だ。起きないからもう食べちゃったよ」
シシシっと笑いながらリサがそういうと、隣のイリオは申し訳なさそうな顔を向けてきた。
「すいません。すごく疲れていそうだったので、無理やり起こすべきじゃないと思って」
「いや、いいよ。実際、疲れててきっと起きなかった」
ザイロは椅子に座って、半分になったパンを手にとって口に運ぶ。
咀嚼していると、机の中央に食べ切られた跡のある皿が見えた。
食欲をそそる、深い甘さの香りがする。きっとこの皿の上にあったものだ。
「なあ、ここにあったのって、もうないのか」
「リサさんが作ってくれたアップルパイがありました。ですが……すいません、とても美味しくて、すべて食べてしまいました」
「謝るなって。どーせ、どっかの誰かが、自分で作ったのがうまくて食い尽くしたんだろ」
その目を向けると、リサは机に手をついて、体を乗り出した。
「違う違う! ほらアイツだよアイツ!」
リサはすました顔をしているレインを指差す。「まあまあだな、とか言いながらさ、こいつアップルパイばっか食べてたんだよ。私と同じぐらい食べてた!」
目を閉じながらも、レインは小馬鹿にしたかのように鼻を鳴らした。
「いつまで経っても起きないやつが悪い」
「私もつい食べすぎてしまいました。すいません、リサさんのアップルパイ、とっても美味しかったので」
レインががっつき、イリオがそこまでいうアップルパイ。
きっとうまいんだろうなと思うと、起きられなかったことを後悔し始めた。
「そっか、俺も食いたかったな」
「えへへ、そう言われると悪い気しないなぁ。また作ってあげるからさ! そんときはさ、食べきれないくらい……」
リサの言葉が少しずつ萎え、消え入るほど小さくなっていく。
ふと気づいたのだろう。
きっと、敵は今日やって来る。
その後、果たして自分たちが、また同じように顔を合わせて、食事ができるのかどうか。
それは誰にもわからない。誰かがその場にいないのかも知れない。
実感が喉を塞ぎ、そして、それを全員が察知したか、ほんの一瞬だけ刺さるような沈黙が走る。
「当たり前だ」
その沈黙を、ザイロはすぐに破った。「次はよ、今回のよりも更に美味いのを作ってくれよ。それでまた……みんなで食べよう」
自然と最後の、みんなで、という言葉にだけ、力が入った。「そん時は、ちゃんと起こせよ」
「うん! まっかせといてよ、今回のなんてもうね、目じゃないくらいのやつを作ってあげるからさ」
「そもそも、お前が一人でちゃんと起きればいいだろう」
「うるぇよバカ食いやろうが。うまいならうまいって言えよ」
ザイロの嫌味に、レインはギロリと睨みつけ、刀の持ち手を握る。
「敵より前に、まずお前から細切れにするぞ」
「やってみろよ。お前の刀なんて当たるかよ」
「あ、あの、やめてください」
イリオが焦った様子で、二人に手を突き出して止める。「今度は絶対に起こしますし、パイも死守しますから」
必死なその様をみて、ザイロはフフっと笑う。
「冗談だって、イリオ」
「冗談?」
探るように二人をみたイリオは、ホッとしたのか肩を撫で下ろした。
「ああもう……びっくりするじゃないですか」
「俺は本気だったがな」
口元をほころばせながらレインが言うと、リサはそれが可笑しかったのか笑っていた。
「ねえ、意地悪はやめようよぉ」
心地が良かった。
パンをかじり、ザイロはこの柔らかく、優しい空気と一緒に飲み込む。
明日も、いや、いつまでも、またこれを繰り返そう。
俺が必ず、そうさせてやる。
微笑みながら、胸の中では強く、そう思っていた。
外の景色はよく見えない。ただ、その揺れと、傾斜を感じると、馬車はまともな道を進んでいないことが分かる。
「これ、山を登ってな」
シャッジは上を向き、その布の天井の向こうにある空をみながらそう呟く。「俺達は王都に向かってるはずだよな。なんで人気のない山んなか連れてこられてるんだ?」
「そんなのは決まってるじゃないか」
シェナドはニヤリと笑う。「叫んでも誰も来ないし、死体を埋めるのも簡単だろ」
「僕の魔法の関係です」
ローベンドはシェナドの冗談に対して眉一つ動かさず、視線は本に向けたまま続けていう。「僕の空間魔法は不完全です。その場とその場の間を歪めてつなげている以上、その間にいる物体に対して、どのように作用するのかはわかりません。まあ無生物や敵であれば特に気にする必要はないのですが」
「空間?」
ポツリと呟くシェナド。そのワードに非常に高い興味があるのが伺えた。「ローベンド君、キミは空間魔法といったが、それは聞き間違いではないかな」
ローベンドの口ぶりは、まるでそれを使えるかのようなものだった。
それは言葉としては伝わっているが、実際に存在した記録がない。
大昔の誰かが想像し、理想から作り出された虚構の魔法。
それが多くの者の認識だ。
シェナドは一度、ローベンドの魔法をその目で見ているが、瞬間移動だとは思っていない。
瞬間移動のように見せる魔法は、いくらでもあるし、シェナドも工夫次第では再現ができるからだ。
「ええ、僕はいいました。空間魔法です。僕はそれを使えます」
シェナドとシャッジは、懐疑的な表情で目を合わせた。
魔法を使えないベルは興味ないのか、目を閉じている。
その時、タイミングよく馬車が止まった。
馬車の御者に「ご苦労だった」とローベンドがいうと、四人を降ろして馬車は山を下っていった。
当然だがここは王都じゃない。
普通に馬車を走らせたら、二週間はかかるだろうが、まだ二時間ほどしか経っていない。
四人がおりた足元には丸い魔法陣がすでに描かれていた。
おそらく先にローベンドが作っていたものだろう。
黒の中に微かに赤の混じったような色。彼の血が混じったインクで作られた術字。
魔法の範囲を拡張したり、または強化するために描かれるもの。
「僕だけであれば簡単なのですが、他の者と一緒に移動となると、色々と制約が増えます」
ローベンドは本を閉じた。三人は初めて本以外をみている彼を見た。「まあ、安全を考慮するのであれば、ですが」
片手を地面につき、術字に魔力を流し込むと、自身の血と呼応し、文字は鈍い光を放つ。
瞬間、脳に直接、強力な酒を注入されたかのように、周りの景色が不規則にぐにゃりと曲がる。
「ローベンド君、これは……」
初めての光景に、冷や汗とともに思わず声を出すシェナド。
「安心してください。何度も行っていますし、すぐに終わります」
ローベンドが言った瞬間、周りの景色は線となり、視線の先の一点に集約すると、それは黒い丸となる。
その黒が広がり、一瞬、すべてを闇に包みこんだ。
今度は視線の先に、消えた外の景色がまた丸となって見える。
まるで暗い洞窟の中で、出口を見つけたかのよう。
それが広がり、また周りを包むと、いつの間にか山の中にいた。
足元の魔法陣も、四名にも変わった様子がないが、周りの景色が違う。
同じく木々に囲まれた山中だったが、見るからに先程とは別の場所だ。
「こりゃ……すげぇ」
術字を媒介とし、空間を歪ませて行う瞬間移動。
それを実感するとシャッジは感嘆の声を漏らしていた。
「これが進化というものか。過去の赤獅子なんて、今と比べてしまうと、足元にも及ばないかな」
「それはどうでしょう」
シェナドの称賛に対し、ローベンドは冷静に返し、本を開いてまた読み始める。「戦争があった時期とは違い、今の赤獅子は戦闘力ではなく、魔法の希少価値や、戦闘以外の功績を重視して選ばれています。戦争の時代を乗り越えた兵士の方が、当然強い。ただ、僕がいれば、もっと早く戦争が終わっていたのは事実でしょうが。麓に村があってそこでまた馬車に乗ります。行きましょう。明日には王都に着きます」
「明日、か」
黙っていたベルが、心配そうに呟く。
それを聞いて、顔は合わせずともシャッジとシェナドは、その心中を察した。
シェナドは空を見て、遠くにいるだろうザイロを思う。
負けるなよ。ザイロ。