秋の日は釣瓶落としというが、つい先程まで窓の外を黄金色に染めていた夕日は、あっという間にビルの向こうへと姿を消し、代わりに群青色の帳が空を覆い始めていた。
学園の喧騒も遠のき、静寂が支配し始めたトレーナールーム。デスクの上の電気スタンドだけが、俺と彼女の間に広げられた数枚の資料を白く照らし出している。
「……以上が、次走に向けた大まかなローテーションの提案だ。どうだろうか、ルドルフ」
俺は手元の資料から視線を上げ、向かいのソファに深く腰掛ける担当ウマ娘――シンボリルドルフへと問いかけた。
「ああ。異論はないよ。君が私のために昼夜を問わず練り上げてくれた計画だ、完璧と言っていい。これで進めてくれ」
「わかった。なら、細かいトレーニングメニューは明日までに組んでおくよ」
そう答えて微笑み合う。いつもの、俺たちにとって当たり前の光景だ。
だが、今日のルドルフはどこか違った。彼女は言葉を紡いだ後、無意識のうちに小さく、本当に微かなため息を零したのだ。流麗な所作で資料をまとめる指先も、心なしか重い。凛とした威厳を放つ彼女のオーラが、今日ばかりは薄いヴェールに覆われたようにくすんで見えた。
「……ルドルフ、もしかしなくても、疲れているんじゃないか」
「っ……! いや、そのようなことは……」
「隠しても無駄だ。俺はお前のトレーナーだぞ。顔色を見ればわかる」
俺が指摘すると、ルドルフは少しだけバツの悪そうな顔をして、組んでいた足を静かに下ろした。彼女の頭頂部にある立派な二つの耳が、感情に呼応するように少しだけ後ろに倒れる。
「……君の目は誤魔化せないな。実のところ、生徒会周りの運営で少し立て込んでいてね。次期イベントの企画立案に、各部活動からの予算折衝、それに加えて外部の協賛企業との打ち合わせが重なってしまった。情けない話だが、少々疲労が溜まっているのは事実だ」
「情けなくなんてないさ。むしろ、それだけの激務をこなしながら、トレーニングでも一切手を抜かないお前を誇りに思うよ。だが、無理は禁物だ。今日はもう、ここで終わりにしよう」
俺はそう言って資料をファイルに閉じると、立ち上がって部屋の隅にある給湯スペースへと向かった。
マグカップを二つ用意し、戸棚からココアの粉末を取り出す。お湯を注ぎ、スプーンで丁寧に掻き混ぜると、甘く、どこか懐かしい香りが狭い部屋に広がっていった。熱すぎず、かといって温くもない、ちょうど良い温度に仕上げたココアをルドルフの前に置く。
「ほら、飲んでくれ。甘いものを入れて、まずは体を温めるんだ」
「……すまない、トレーナー君。恩に着る」
ルドルフは両手でマグカップを包み込むように持ち上げると、ふーっと軽く息を吹きかけ、ゆっくりと口に含んだ。
「ああ……美味しい。五体に染み渡るようだ」
ホッと息を吐き出す彼女の顔から、張り詰めていた緊張の糸がふつりと切れたのがわかった。
「それは良かった」
俺も自分のマグカップを手に取り、向かいに座り直す。
■
――その時だった。
ココアの温もりと甘さに心身がリラックスしたのだろう。普段はピンと空を突くように立っているルドルフの耳が、ふにゃり、と力なく横に垂れ下がったのだ。ウマ娘の耳は感情と密接に連動していることは知っているが、ここまで完全に力が抜けてへたっている状態を見るのは珍しかった。まるで、日向ぼっこをして溶けかかっている猫のようだ。
その光景をぼんやりと眺めているうちに、俺の脳裏にふと、ある純粋な疑問が浮かんだ。
「……そういえば、ウマ娘の耳って、触るとどんな感じなんだ?」
口に出してから、しまった、と思った。
いくら担当トレーナーとはいえ、ウマ娘の耳という非常にデリケートな部位について、無遠慮に尋ねてしまったからだ。案の定、ルドルフはマグカップを持ったまま動きを止め、きょとんとした、妙な顔で俺を見つめた。垂れ下がっていた耳が、驚きでピクッと半立ちになる。
「い、いや。な、実家に猫が居るんだが、昔、頭を撫でた時に耳に触ると、なんというか、ペラペラしているようで芯があって、結構面白い触感だったなと思い出してな。……まぁ、流石にルドルフの耳を触って確かめるわけにもいかないし、変なことを聞いた。忘れてくれ」
俺は慌てて早口で弁解し、照れ隠しにココアをあおった。しかし、生真面目な皇帝は、俺のその言葉を適当に流すことはしなかった。彼女はマグカップをコトンとテーブルに置くと、腕を組み、真剣な表情で考え込んでしまったのだ。
「うーむ……ウマ娘の耳の手触り、か。文学的な表現を用いれば『ビロードのよう』と言われることが多いが、それはあくまで表面の被毛の話だ。君の言う『芯』という観点から物理的な構造を考えると……薄い皮膚と筋肉の下に軟骨が存在しているわけだが、それを言葉でどう表現すべきか……。人間の耳介の軟骨とはまた違った弾力があるし……うーむ……」
ぶつぶつと呟きながら、自分の耳の構造について自己分析を始めるルドルフ。そのあまりにも大真面目な様子に、俺は思わず苦笑を漏らしてしまった。
「ルドルフ、ストップ。いや、本当にごめん。そこまで真剣に悩むような学術的な話じゃなかったんだ。俺の単なる好奇心だから、気にしないでくれ。悪かった」
俺が両手を合わせて謝ると、ルドルフはふっと表情を緩めた。そして、少しだけ悪戯っぽい光を瞳に宿して、思いもよらないことを口にした。
「……触ってみるかい? 私の耳でよければ、だが」
「えっ?」
俺は間抜けな声を出してしまった。
「別に、触ったからと言って減るものでもない。それに、言葉で説明するよりも、実際に触れてもらった方が君の知的好奇心を満たすには早いだろう?」
「いや、でも、ウマ娘の耳ってすごくデリケートな場所だって……」
「確かに、感覚は鋭敏でデリケートな部位だ。不意に触られれば驚くし、不快感を覚えることもある。……だが、トレーナー君になら触ってもらっても構わないよ。悪いようにはしないと信じている」
ルドルフは真っ直ぐに俺の目を見て、そう言った。その言葉に含まれた、絶対的な信頼。彼女が俺を、単なる仕事のパートナー以上の、心を許せる存在として見てくれていることが痛いほど伝わってきた。
そこまで担当ウマ娘に言われて、断る理由などなかった。
「……それじゃあ、お言葉に甘えて」
俺は立ち上がり、ルドルフの座るソファの隣へと移動した。
「失礼するよ」
「ああ」
ルドルフは静かに目を閉じ、身を委ねるように少しだけ頭を俺の方へ傾けた。緊張で僅かに震える指先を伸ばし、彼女の右耳にそっと触れる。
「……っ」
触れた瞬間、ルドルフの耳がピクッと反射的に動いた。しかし、彼女は逃げることなく、そのままじっとしている。
「どうだい? トレーナー君」
「……すごいな。すごく良い手触りだ。それに……温かい」
指先に伝わってくるのは、想像以上の滑らかさだった。最高級のシルクか、あるいはルドルフ自身が言っていたビロードか。きめ細やかな毛並みは指を滑るように優しく、撫でるだけで心が落ち着くような感触だ。そして、その下にある確かな熱。生命の鼓動を感じさせるような温もりが、じんわりと俺の指先を温めてくれる。
表面は柔らかいのに、少し力を入れるとしなやかな軟骨の弾力が押し返してくる。猫の耳よりもずっと大きく、厚みがあり、力強い。
「なるほど、これは確かに言葉では説明しきれないな……」
「ふふっ……そうだろう」
俺が丁寧に、毛並みに沿って何度か優しく撫でていると、ルドルフもまんざらではないのか、口元に柔らかな笑みを浮かべ、ほう、と心地よさそうに息をついた。彼女の耳が、俺の手のひらにすり寄るように、僅かに傾いてくる。
そのまま数分、静かな時間が流れた。俺がそっと手を離そうとした時だった。
「……トレーナー君」
「ん?」
「……もう少し、その、根元のあたりを触ってもらえるか?」
ルドルフが、少し上目遣いで俺を見上げてそう言った。普段の威風堂々とした彼女からは想像もつかない、どこか甘えるような声色だった。
「え? どうしたんだ?」
「いや……その……君の手が、案外と心地よいものでね……」
彼女は頬を僅かに朱に染め、照れくさそうに視線を逸らした。耳の根元。確かに、耳を動かすための筋肉が集中している場所だ。人間でいうところの側頭部や耳周りと同じように、疲労が溜まりやすいのかもしれない。
「わかった。痛かったら言ってくれよ」
俺はルドルフの後ろに回り込み、両手を使って、彼女の左右の耳の根元を親指と人差し指で優しく挟み込むように摘んだ。
「……んっ」
触れた瞬間、指先に伝わってきたのは、カチカチに張った筋肉の硬さだった。
「ルドルフ、ここ、すごく凝ってるぞ」
「そう……なのか? 自分ではあまり意識したことがなかったが……」
常に周囲の音に気を配り、感情に合わせて激しく動くウマ娘の耳。それに加えて、連日の書類仕事による眼精疲労や肩こりが、頭部の筋肉まで影響を及ぼしているのだろう。
俺は、試しに親指の腹を使って、ぐっと少しだけ力を入れて揉み込んでみた。
「あ……んっ……ふぁ……」
その瞬間、ルドルフの口から、甘く、長く震えるようなため息が漏れた。彼女の体がビクッと跳ね、その後、完全に力が抜けてソファの背もたれに深く沈み込んだ。
「ルドルフ、大丈夫か? 痛くないか?」
「いや……痛くない……むしろ……すごく、気持ちがいい……。そこがそんなに疲労していたなんて……知らなかった……」
うっとりとした表情で目を閉じ、トロンとした声を出すルドルフ。これはもう、完全にほぐしてやるしかない。俺は決意を固め、そのまま本格的なヘッドスパを開始した。
「よし、じゃあ少しマッサージするから、楽にしててくれ」
「……ああ……頼む……」
俺は耳の根元から始まり、側頭部、そして頭頂部へと、指の腹を使って円を描くようにじっくりと頭皮を揉みほぐしていった。ウマ娘の豊かな髪の間に指を滑らせ、硬く強張った頭皮を探り当てては、適度な圧をかけて緩めていく。
「……はぁ……そこ……すごく、いい……」
ルドルフはもう、一切の抵抗を見せなかった。いや、抵抗する気力すら心地よさの前に溶けてしまったのだろう。彼女は完全に俺の手に身を委ね、されるがままになっている。
普段、生徒会長として、そして皇帝として、常に気を張り詰め、誰にも弱みを見せまいと背筋を伸ばしている彼女。そんな彼女が、今、俺の前でだけ、こんなにも無防備な姿を晒してくれている。その事実が、俺の胸の奥を温かく、そして愛おしさで満たしていった。
「毎日遅くまで、本当にお疲れ様。たまにはこうやって、何も考えずに頭を空っぽにする時間も必要だぞ」
「……うん……ありがとう、トレーナー君……君の手は、魔法のようだ……」
ぽつりぽつりと交わされる会話も、徐々に間隔が空いていく。
頭皮から後頭部、そして首筋へとマッサージの手を進めていくうちに、ルドルフの呼吸は深く、規則的なものへと変わっていった。
「首のあたりもかなり張ってるな。ここも少し……」
声をかけても、返事はない。そっと顔を覗き込むと、ルドルフは完全に寝落ちしていた。
長いまつ毛が静かな寝息に合わせて微かに震え、あんなに強張っていた表情は、まるで幼子のように無邪気で穏やかなものになっている。先程まであれほど存在感を放っていた耳も、今は完全に力が抜け、ペタンと頭に沿うように倒れていた。
「……本当に、疲れてたんだな」
俺は誰に聞こえるでもなく、小さく呟いた。無理もない。彼女はまだ、たかだか十代の少女なのだ。背負っているものの大きさを思えば、こうして限界を迎えてしまうのも当然だろう。
俺は彼女を起こさないように、それでも確かな効果が出るように、出来うる限りの優しさを込めて、首から肩にかけての強張った筋肉をゆっくりと解していった。
明日になれば、彼女はまた「皇帝」としての仮面を被り、凛とした姿で俺の前に立つだろう。それでもいい。俺がこうして、彼女の仮面の下にある本当の素顔を知り、その疲れを癒やしてやれるのなら。
「おやすみ、ルドルフ。いい夢を」
窓の外では、完全に夜の闇が降りていた。
俺はしばらくの間、彼女の穏やかな寝顔と規則的な寝息をBGMに、ただ静かに、その愛おしい肩を揉み続けた。トレーナールームを包み込むのは、ココアの甘い香りと、二人だけの穏やかな、癒しの時間だった。