皆様も暖かくなりはじめのこの時期、食品の管理にはお気をつけてくださいませ。マジで。ええ。本当に。しんどいぜ……?
翌日、トレセン学園は朝からちょっとした騒ぎになっていた。
理由は他でもない、我らが秋川やよい理事長の異常なまでのハイテンションと、常軌を逸した仕事の処理速度である。
「驚天動地! 今日の私は一味も二味も違うぞ!」
などと高らかに笑いながら、普段の三倍のスピードで書類の山を片付け、各所への視察をスキップ混じりでこなす姿は、学園中のトレーナーやウマ娘たちの注目の的となっていた。
「いったい理事長に何があったんだ……?」
と首を傾げる同僚たちを尻目に、俺はただ一人、心の中で密かに苦笑するしかなかった。まさか、俺のヘッドマッサージがここまで劇的な効果を生むとは、施術した俺自身すら予想していなかったほどだ。
■
そして、その日の夕刻。
すっかり日の落ちた学園で、明日のトレーニングメニューの最終調整を終えようとしていた俺のいるトレーナールームに、控えめなノックの音が響いた。
「開いてますよ」
声をかけると、ドアが静かに開き、見慣れた緑色のシルエットが姿を現した。
「……夜分遅くに、失礼いたします。トレーナーさん」
理事長秘書、駿川たづな。
常に完璧な身だしなみと、穏やかな微笑みを絶やさない、学園の影の功労者。しかし、今日ばかりは彼女の纏う空気が違った。その顔には隠しきれない疲労の色が濃く滲み、ピンと伸びているはずの背筋も、ほんの少しだけ重力に負けているように見える。
何より、俺を見つめるその瞳には、どこか縋るような、切実な光が宿っていた。
「え? たづなさん? どうしたんですか、こんな時間に。理事長のサポートで何かトラブルでも……いや、今日の理事長は絶好調のようでしたが」
「ええ……。その、絶好調すぎる理事長のおかげで、本日は予定の三倍の業務をこなす羽目になりまして……」
たづなさんはふぅ、と小さく、しかしひどく重いため息をついた。無理もない。トップが暴走気味に活力を発揮すれば、その尻拭い……もとい、実務的な裏回しをさせられるのは秘書である彼女なのだ。
「それは……本当にお疲れ様です」
「いえ、仕事ですから。……ですが」
たづなさんはそこで言葉を切り、ゆっくりと俺のデスクの前まで歩み寄ってきた。そして、周囲に誰もいないことを確認するように一度ドアの方を振り返ってから、少しだけ上目遣いに俺を見た。
「……あの……不躾で申し訳ないのですが……。理事長への、あの『魔法』。……私も、お願いすることはできないでしょうか」
「えっ」
「理事長のあの劇的な回復ぶり。傍で見ていて、信じられない思いでした。そして……恥を忍んで申し上げますが、現在の私の首から上は、もはや鉄の塊のように凝り固まっておりまして……。限界が、近いのです」
そう言って、彼女は自身の首の付け根にそっと手を当てた。あの完璧な秘書が、ここまで弱音を吐露する。それはよほどの事態だ。俺はパソコンのモニターを切り、深く頷いた。
「わかりました。俺の腕でよければ、いくらでもお貸しします。じゃあ……そこのソファに腰掛けてください」
「……ありがとうございます。恩に着ます」
たづなさんはホッとしたように微笑むと、ソファへと歩み寄った。そして、彼女は俺に背を向ける形で腰を下ろす直前、ふと手を頭へと伸ばした。
「施術の邪魔になりますからね。……これは、外しておきましょう」
彼女のトレードマークである、あの大きな緑色の帽子。それが両手でそっと持ち上げられ、彼女の膝の上へと置かれた瞬間。
「……え?」
俺は思わず、間抜けな声を漏らしてしまった。帽子に隠されていた彼女の頭頂部。艶やかな髪の間から、静かに、しかし確かな存在感を持って現れたのは――ピンと空を突く、二つの『耳』だった。
それはまごうことなき、ウマ娘の、耳。
「たづな、さん……? その、耳は……」
「……ふふっ。驚かれましたか?」
たづなさんはソファに腰掛けたまま振り返り、少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。その頭頂部にある美しい毛並みの耳が、彼女の感情に合わせてピクッと動く。
■
俺は頭の中で猛烈な勢いで情報を処理していた。
昨日の、理事長の小さなウマ耳。そして今日、たづなさんの耳。
つまり、このトレセン学園という巨大な組織を束ねるトップ2は、どちらもウマ娘だったということか。噂には聞いていたが、まさか本当に事実だったとは。
「……なるほど。そういうことでしたか。いや、薄々はそうじゃないかと思っていたんですが、実際に目の当たりにするとやはり驚きますね」
「このことは、どうかご内密にお願いいたしますね。私がウマ娘であると公になれば、色々と……過去の詮索など、面倒なことになりますので。理事長と同じく、あくまで『極秘』ということで」
「もちろん。俺の口は、特に頼ってきてくれた相手の事については堅いですよ。誰にも言いません」
彼女の言葉に含まれた微かな重みに触れぬよう、俺は即座に了承した。
それに、ウマ娘の耳を持っているということは、彼女もまた、ルドルフや理事長と同じように、その耳周りの筋肉を酷使しているということだ。俺の培ってきた『技術』が、確実に彼女の疲労の芯に届くはずだ。
「では、失礼します。少し、触れますよ」
俺はたづなさんの背後に立ち、両手を温めてから、彼女の頭部へとそっと指を添えた。親指と人差し指が、艶やかな髪の奥にある耳の根元へと触れる。
「……っ」
触れた瞬間、たづなさんの肩がビクッと跳ね、細く長い息が漏れた。
だが、俺の指先に伝わってきた感触は、これまでに経験した誰のものとも違っていた。ルドルフは激務による強張り。エアグルーヴは極度の緊張。理事長は凄まじい重圧による収縮。
しかし、たづなさんのそれは――『岩盤』だった。
長年、本当に長い年月をかけて、学園のあらゆるトラブルや裏仕事、気苦労を一人で抱え込み、感情を押し殺して完璧な笑顔を取り繕い続けてきた結果、筋肉が強張りを通り越して、完全に冷たい岩のように石灰化してしまっているかのようだった。
「……たづなさん。これは……」
「ひどいでしょう? 自分でも、もうどこが痛いのかすら麻痺してしまっている状態でして……」
自嘲気味に笑う彼女の声には、隠しきれない疲労の響きがあった。俺は指の腹全体を使い、頭蓋骨に張り付いたその強固な岩盤を引き剥がそうと、じっくりと、深い圧をかけ始めた。
耳の付け根、側頭部、そして後頭下筋群。時間をかけて、ゆっくりと円を描くように揉み込んでいく。
「……くぅ……っ……ぁ……」
たづなさんの口から、普段の彼女からは想像もつかないような、苦悶と快感が入り混じったような呻き声が漏れる。ピンと立っていた耳が、俺の圧に合わせて震えるように揺れていた。
少しずつ、本当に少しずつだが、表面の筋肉は熱を持ち、わずかに動き始めた。
だが――届かない。
どれだけ指に力を込めても、その奥底にある『芯』の疲労に到達している感覚がないのだ。衣服の上からのアプローチ、そしてドライ状態での揉みほぐしでは、この分厚い岩盤の奥深くに眠る本当の強張りを解かすことはできない。
俺が焦りを感じながら、なんとか手技を変えてアプローチを試みていると。
「……少し、失礼するよ」
ガチャリ、とドアが開き、聞き慣れた落ち着いた声が室内に響いた。
振り返ると、そこにはお盆にティーセットを乗せたルドルフが立っていた。彼女の日課であるマッサージの時間が近づいていたのだ。
ルドルフは室内の光景――ソファに座るたづなさんと、その後ろで苦戦する俺の姿――を見ると、特に驚いた様子もなく、静かに扉を閉めた。たづなさんの頭に立派なウマ耳があることに対しても、一切の言及はない。おそらく、彼女は最初からすべてを知っていたのだろう。
「ルドルフ。すまない、たづなさんのケアを少し頼まれてな。君の時間は……」
「構わないよ。たづなさんのその様子では、緊急を要する事態だ。私の方はお気になさらずに」
ルドルフはティーセットをテーブルに置くと、腕を組み、壁際から俺の施術を静かに見守り始めた。その琥珀色の瞳には、自身のトレーナーが学園の要人を癒やしていることに対する、ほんの少しの誇らしげな光が宿っているように見えた。
しかし、俺の方はそれどころではなかった。
指先が痛くなるほどに圧をかけているが、たづなさんの奥深い凝りはびくともしない。彼女の呼吸は少し楽になったようだが、根本的な解決には至っていないのが手を通じて痛いほどわかった。
「……ダメだ。たづなさん、申し訳ありません」
俺は一旦手を止め、大きく息を吐いた。
「俺の力不足です。ただのもみほぐしやヘッドスパでは、あなたのその疲労の芯には届きません。長年蓄積された層が厚すぎて、表面を撫でているだけで終わってしまっている。このまま無理に力を込めれば、逆に筋肉を痛めてしまう」
「そんな……。いえ、トレーナーさんが謝る必要はありません。私の不摂生と、溜め込みすぎた業のようなものですから……。少しだけですが、頭は軽くなりました。ありがとうございます」
たづなさんは耳をペタンと伏せ、寂しそうに微笑んで立ち上がろうとした。
「待ってくれ、たづなさん」
その背中を、凛とした声が引き止めた。ルドルフだ。彼女は静かに歩み寄ると、俺の目を見て、思いもよらないことを口にした。
「トレーナー君。彼女のその深い強張り……『オイル』を使ってみてはどうだろうか」
「えっ?」
「この間、私の休日に君が施してくれた、あの全身のアプローチだ。衣服の上からではなく、素肌に直接触れ、精油の力と君の手の熱を深層まで届ける。あれならば、たづなさんのその頑固な岩盤も打ち砕けるのではないか?」
俺は目を見開いた。
「あれを? ……いいのか、ルドルフ? あれはお前への『特別なご褒美』で、俺たちだけの……」
俺が戸惑いながら尋ねると、ルドルフはふっと優しく、そして威厳に満ちた微笑みを浮かべた。
「構わない。他でもない、たづなさんだからね。彼女が倒れれば、この学園は沈没してしまう。それに、あれほどの至高の癒しを私一人で独占するのは、皇帝としていささか度量が狭いというものだ」
「ルドルフさん…」
たづなさんが、驚きと感謝の入り混じった声でルドルフを見つめる。
「あの、トレーナーさん……。無茶を承知で、この疲れが取れる手段があるのなら、是非、お願いします」
「たづなさんもこう言ってることだし、どうだろう?」
トップ2の間に交わされる、言葉以上の深い信頼の眼差し。そこまで言われてしまっては、癒し手として引き下がれるわけがない。
「……わかりました。お二人がそう言うのなら」
俺は覚悟を決め、たづなさんに向き直った。
「たづなさん。ルドルフの言う通り、素肌に直接オイルを用いて、首から肩、背中にかけて徹底的に深層の筋肉を解きほぐす手技があります。ただ、それには準備が必要ですし、何より時間もかかります。今の時間からでは中途半端になってしまう」
「では……」
「後日、もう一度施術をさせてください。しっかりとした設備を準備してお待ちしています。あなたのその限界を超えた疲労、俺が必ず、芯から溶かして見せます」
俺の力強い宣言に、たづなさんの耳がハッとしたようにピンと立ち、その瞳にパァッと希望の光が灯った。
「……はい! よろしくお願いいたします、トレーナーさん!」
深く、深く頭を下げる緑色の秘書。それを見守りながら、満足げに頷く皇帝。
俺は再び、とんでもない約束をしてしまったことに微かな眩暈を覚えながらも。次こそはあの完璧な秘書の鉄の鎧を脱がせ、極上の安らぎを与えてやろうと、静かに闘志を燃やしていた。