癒しのヘッドスパ   作:灯火011

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名優の陥落

 あの休日、ルドルフと交わした「紹介」の約束。

 

 それが果たされる日は、俺が想像していたよりもずっと早く、唐突にやってきた。

 

 

 ある日の放課後。夕日に染まり始めたトレーナールームで、その日の日報をまとめていると、コンコン、と規則正しいノックの音が響いた。

 

「開いてるぞ」

 

「失礼するよ、トレーナー君」

 

 ドアを開けて入ってきたのはルドルフだ。だが、今日は一人ではない。彼女の背後から、少しばかり躊躇うような足取りで、一人のウマ娘が姿を現した。

 

「……し、失礼いたします」

 

 現れたのは、メジロ家が誇る至宝にして、長距離の絶対的エース、メジロマックイーンだった。普段の洗練された制服姿や、優雅な私服姿とは違い、今日の彼女はトレセン学園の指定ジャージ姿だ。つい先程までターフを駆け抜けていたのだろう、首筋にはうっすらと汗の跡が残り、少しだけ息が上がっているように見えた。

 

「メジロマックイーン? どうしたんだ、ルドルフと一緒に」

 

 俺が驚いて尋ねると、ルドルフはふっと優雅に微笑み、マックイーンの背中を軽く押して部屋の中央へと促した。

 

「先日話しただろう、トレーナー君。私が『紹介』する有望な生徒の、第一号というわけさ。マックイーン、遠慮はいらない。彼に現状を説明するといい」

 

「は、はい……」

 

 マックイーンは少しだけ頬を赤く染め、もじもじと指先を絡ませながら口を開いた。

 

「実は……最近、どうにも首から肩にかけての重さが抜けず、頭の芯に鈍い痛みが居座っているような状態が続いておりまして。そのことをルドルフ会長にご相談したところ、『私のトレーナーが施す魔法のヘッドスパを受ければ、一撃で霧散する』と……その、大変強くお勧めされまして」

 

「魔法って……また大げさな」

 

 俺がルドルフをジト目で睨むと、皇帝陛下は「事実を述べたまでだ」と悪びれずに肩をすくめた。

 

「本来であれば、きちんとした身なりで伺うべきなのですが、会長が『善は急げだ、今すぐ行くぞ』と仰るものですから、ジャージ姿のままで……大変失礼いたしました」

 

「いや、構わないよ。むしろジャージの方が身体を締め付けないから、マッサージには好都合だ。……マックイーンが良ければ、俺はいつでも構わないぞ」

 

 俺がそう言うと、マックイーンはホッとしたように表情を緩め、コクリと頷いた。そして、少しだけ姿勢を正し、真剣な眼差しをこちらに向けてきた。

 

「……はい。ぜひ、お願いいたします。それと……会長から伺っております。ウマ娘の急所である耳周りの筋肉を解すことが、疲労回復の鍵なのだと。……私、マックイーンの耳も、触ってよろしいですわ」

 

 高貴な令嬢からの、最大級の許可。少し照れ隠しのようにツンと顎を上げる仕草が年相応で可愛らしいが、その頭頂部にピンと立つ芦毛の美しい耳は、緊張と疲労でカチカチに強張っているのが遠目にもわかった。

 

「わかった。お言葉に甘えて、しっかりと解させてもらうよ。まずは温かいものでも飲んで一息つこう」

 

 俺は給湯スペースに向かい、マックイーンのためにアールグレイの紅茶を、ルドルフと俺のためにいつものココアを淹れた。

 

 ベルガモットの華やかな香りが部屋に広がると、マックイーンの纏っていた微かな緊張感が少しだけ和らいだように見えた。

 

 

 紅茶を一口飲み、ソファに浅く腰掛けたマックイーン。

 

「では、失礼するよ」

 

 俺は彼女の背後に回り、まずは両手を擦り合わせて温め、その華奢な肩へとそっと手を置いた。

 

「……っ」

 

 触れた瞬間。俺の掌に伝わってきた感触に、思わず息を呑んだ。

 

 やはり、硬い。

 

 たづなさんの「岩盤」のような長年の蓄積とはまた違う。ルドルフの「分厚いゴム」のような感触とも違う。マックイーンの筋肉は、極限まで引き絞られた『ピアノ線』のような状態だった。しなやかなはずのアスリートの筋肉が、限界の張力でピンと張り詰め、今にもプツンと弾け飛んでしまいそうなほどの危うい緊張を孕んでいる。

 

「マックイーン……これは、凄いな。常に全身の筋肉が臨戦態勢みたいに張り詰めている」

 

「……お恥ずかしい限りですわ。自分では、リラックスしているつもりなのですが……」

 

 俺は親指の腹を使い、首の付け根から肩先に向かって、張り詰めたピアノ線を少しずつ緩めるように、慎重に圧をかけていった。少しでも無理な力を加えれば、彼女の繊細な筋肉が反発してしまうのがわかる。

 

「どうしてここまで気を張っているんだ? トレーニングのしすぎか?」

 

 俺が尋ねると、マックイーンは

 

「あぅ……」

 

 と小さく呻きながら、ポツリポツリと語り始めた。

 

「……私、チームの中では、一応まとめ役のような立場におりまして。……特に、我がチームには予測不能な行動をとるゴールドシップや、自由奔放な仲間たちがおりますから。彼女たちが問題を起こさないよう、常に目を光らせておかなければならないのですわ」

 

「なるほど。気配りが行き過ぎて、常に神経を尖らせているわけだ。この耳周りの側頭筋の硬さも、そのせいだな」

 

 俺は肩から後頭部、そして耳の付け根へと指を滑らせた。周囲の些細な音、仲間たちの足音やトラブルの気配を逃さぬよう、彼女の耳は常にレーダーのように働き続けていたのだろう。耳を動かす筋肉群が、熱を持ちながらカチカチに固まっていた。

 

 すると、紅茶のカップを片手にソファの向かい側に座っていたルドルフが、静かに口を開いた。

 

「仲間への気配りや、チームのまとめ役としての心労。もちろんそれもあるだろうが……それだけではないさ」

 

「ルドルフ?」

 

「彼女は『メジロ』の名を冠するウマ娘だ。長距離の絶対的覇者であり続けなければならないという一族の悲願。周囲からの期待。そして、己の矜持。……それは、私のような『シンボリ』の人間と同じか、あるいはそれ以上に重いプレッシャーとなって、彼女の細い肩にのしかかっているはずだ。そうだろう、マックイーン?」

 

 ルドルフの静かで、しかし深い理解に満ちた言葉。マックイーンは少しだけ目を伏せ、自嘲気味に、しかし誇り高く微笑んだ。

 

「……流石は会長。お見通しですわね。……ええ。メジロのウマ娘たるもの、常に優雅で、そして誰よりも速くあらねばなりません。その重圧が苦しいとは思いません。ですが……時折、こうして身体が悲鳴を上げてしまう未熟な自分が、もどかしくもあるのですわ」

 

 その健気な言葉を聞いて、俺の胸の奥に、癒し手としての――いや、一人のトレーナーとしての熱い火が灯った。

 

 こんなにも細い肩で。こんなにも美しい耳で。仲間への気遣いと、名門の重圧という、途方もないものを背負い続けているのか。

 

「……なるほどな。よくわかった」

 

 俺は小さく息を吐き、指先にグッと力を込めた。

 

「名門の重圧も、仲間への気配りも、ターフの上や日常では必要なものかもしれない。だが、今、この部屋にいる間だけは別だ。……その限界まで張り詰めたピアノ線みたいな疲労、俺がより一層の気合を入れて、完全にドロドロに解きほぐしてやる。覚悟してくれよ、マックイーン」

 

「えっ……ぁ、はいっ。お手柔らかに……あぁっ!?」

 

 俺は容赦なく、しかし極めて的確に、彼女の首の裏側――天柱と風池のツボへ親指を深く沈み込ませた。

 

「あぁっ……! そこ、は……っ! ツーンと、頭の奥まで……!」

 

「声を出していいんだぞ。我慢は凝りの一番の敵だ」

 

 優雅さなどかなぐり捨てさせる勢いで、俺は彼女の後頭部から頭蓋骨の筋膜全体を大きく揉み動かした。常に前を向き、胸を張ってきた彼女の背骨に沿って広がる起立筋の緊張を、手のひら全体で包み込むようにして下へと押し流す。

 

「……んんっ……! はぁ……っ、ぁ……」

 

 マックイーンの口から、お嬢様らしからぬ、熱っぽく甘い吐息が次々と漏れ始めた。

 

「さあ、いよいよ本丸だ。その休むことを知らない『メジロの耳』を休ませてやる」

 

 俺は両手の人差し指と中指、親指で、彼女の芦毛の美しい耳の根元をガッチリと挟み込んだ。そして、そのまま頭頂部に向かって、張り詰めた筋肉の束をグーッ! と引き上げるように、持続的な圧をかけ続けた。

 

「……っっ! ぁあ、あぁ……!!」

 

 限界まで張り詰めていたマックイーンの弦が、音を立てて弾け、そして溶け落ちていく感覚。指先から伝わってくる強烈な抵抗が、俺の気合の乗った圧に耐えきれず、みるみるうちに柔らかさを取り戻していく。

 

「あぁ……っ、耳が……頭が……溶けて……しまいますわ……」

 

 俺の腹部にコトンと預けられた彼女の頭。ピンと空を突いていた誇り高きメジロの耳が、もはや何の感情も、何の音も拾わないと宣言するかのように、俺の手の中でへにゃりと完全に力を失って垂れ下がった。

 

「そのまま、少し深呼吸してくれ」

 

「……すぅ……、……はぁ……。……あぁ……」

 

 完全に骨抜きにされたマックイーンの身体は、ジャージの柔らかさも相まって、まるでソファに溶け込んだスライムのようにだらしなく脱力していた。瞳はトロンと半分閉じられ、口元はだらしなく緩んでいる。普段の「優雅なメジロのお嬢様」の面影は、そこには微塵も残っていなかった。

 

「……見事だ。やはり君の手は、どんな強固な鎧も貫くようだな」

 

 向かいのソファで紅茶を啜りながら、ルドルフが満足げに微笑んでいた。

 

「お前の紹介なら、中途半端な仕事はできないからな。……お疲れ様、マックイーン。だいぶ楽になったんじゃないか?」

 

 俺がそっと頭部から手を離し、声をかけると。

 

「……ふぇ……? あ、はい……。なんだか、身体が、雲の上にあるようで……」

 

 マックイーンは舌足らずな声で答えながら、ゆっくりと顔を上げた。その頬は茹でダコのように真っ赤に染まり、頭頂部の耳は相変わらずペタンと伏せられたままだ。

 

「重圧も、しがらみも、今は何一つ感じませんわ……。ただ、トレーナーさんの手の温もりだけが、頭の中に……ぽやぽやと……」

 

「完全に仕上がってるな。今日はこのまま、寮に帰ってぐっすり寝るんだぞ」

 

「……はいぃ……」

 

 ふにゃりとした笑顔を見せるマックイーン。

 

 その無防備で可愛らしい姿を見て、俺は思わずルドルフと顔を見合わせ、声を殺して笑い合った。背負うものが大きければ大きいほど、それを降ろした時の反動は大きい。

 

 俺の手が、彼女たちの背負う見えない重荷を、ほんの少しでも軽くできているのなら。

 

「次は誰を連れてこようか。……楽しみになってきたよ、トレーナー君」

 

「お手柔らかに頼むよ、皇帝陛下」

 

 すっかり日が落ちたトレーナールームに、俺の苦笑いと、マックイーンの幸せそうな吐息が、温かく溶け合っていた。

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