放課後の静寂が訪れたトレーナールーム。窓の外では、茜色の空が少しずつ紫の夜へと溶け始めていた。
最近ではこの時間は、学園の要人たちの「隠れ家サロン」と化している。マックイーンをドロドロに溶かしたあの日から数日、俺は内心、次はいったい誰が来るのかと戦々恐々としていた。
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コン、コン。
慎重で、なおかつ一定のリズムを刻む、極めて常識的なノックの音。
「開いてるぞ、入ってくれ」
俺の言葉に応えてドアが開いたが、入ってきた影を見て、俺は思わず手に持っていたペンを落としそうになった。
「……よぉ、トレーナー。邪魔するぜ」
そこに立っていたのは、トレセン学園最大の問題児にして、予測不能のトリックスター――ゴールドシップだった。
だが、おかしい。いつもならドアを蹴破る勢いで入ってくるか、窓から侵入してきてもおかしくない彼女が、今日は驚くほど「普通」なのだ。奇妙なポーズを決めることもなく、大声で謎の呪文を唱えることもない。
その後ろから、苦笑いを浮かべたルドルフが顔を出した。
「驚くのも無理はないが、落ち着いて聞いてくれたまえ、トレーナー君。今日は彼女を、正当な『手続き』を経て連れてきたんだ」
「手続き?」
「ああ。彼女、わざわざ生徒会室までやってきてね。私に『例の、噂のやつを自分にも頼めないか』と、非常に真面目な態度で頭を下げにきたのさ」
ルドルフの説明を聞きながら、俺は改めて目の前のゴールドシップを観察した。
彼女はバツが悪そうに視線を泳がせ、耳をパタパタと動かしている。いつものあの、人を食ったような不敵な笑みは鳴りを潜め、どこか所在なげに佇んでいた。
「……なんだよ、そんな珍獣を見るような目で見るんじゃねぇよ。アタシだって、たまには真面目に休みてぇ時くらいあんだよ」
「いや、すまん。あまりにもお行儀が良いから、てっきり偽物かと思ってな」
「偽物だったらドロップキックぶち込んでるわ! ……ったく、マックイーンが『アイツの手は魔法だ』なんて吹聴するもんだから、気になっちまったじゃねーか」
ぶつぶつと文句を言いながらも、ゴールドシップは俺が促す前に、ソファへとどっかり腰を下ろした。その仕草はいつもの彼女らしい奔放さがあったが、深く沈み込んだ背中からは、隠しきれない重苦しい疲労が漂っていた。
「……ゴルシ。お前、相当キてるな」
俺がその背中に声をかけると、彼女はふんと鼻を鳴らした。
「……わかるかよ。アタシはいつだってパーフェクトなゴールドシップ様だぜ?」
「隠しても無駄だ。お前の筋肉がそう言ってる」
俺は彼女の横に立ち、その肩に軽く手を置いた。ジャージ越しでもわかる、鋼のように硬く、それでいてどこか熱を持った強張りが。
傍らでルドルフが、静かに口を開いた。
「彼女はああ見えて、根は非常に真面目なのだよ、トレーナー君。普段はおちゃらけて周囲を振り回しているが、その裏では誰よりもストイックに自分を追い込み、そして実は、周囲の空気を読み取ってバランスを取ろうともしている。……その蓄積が、彼女をこうして追い詰めてしまったんだろう」
「……余計なこと言わなくていいんだよ、会長さんは」
ゴールドシップは顔を背けたが、その耳が力なく伏せられたのを俺は見逃さなかった。彼女が抱える疲労は、単なるトレーニングによる肉体的なものだけではない。あの破天荒な振る舞いを維持し続けるための、彼女なりの神経の使い減らし。それが、彼女の身体を内側から蝕んでいるのだろう。
「わかった。……事情は理解した。今日は『ゴールドシップ』じゃなく、ただの一人のウマ娘として、ゆっくり休ませてやるよ」
俺がそう告げると、彼女は一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに
「……ふん、勝手にしやがれ」
と小さく毒づいた。
「よし。……ところで、ゴルシ。ルドルフから聞いてると思うが、俺のマッサージは耳周りを重点的に解す。お前にとって大事な急所なのはわかってるが……触ってもいいか?」
その問いに、ゴールドシップは目に見えて戸惑った。
彼女の耳――それは彼女にとって、外界のノイズを拾い、時にシャットアウトするための大切なアンテナだ。それを他人に預けるということが、彼女のような警戒心の強い(と言えば本人は怒るだろうが)タイプにとってどれほどの意味を持つか。
彼女はしばらく沈黙し、自分の耳にそっと手をやった。それから、覚悟を決めたように深く息を吐き出す。
「……ああ、わかったよ。ここまで来て『やっぱヤメだ!』なんて言うほど、アタシはヤワじゃねーからな。……あー、その……なんだ。……お願いします」
最後の方は消え入りそうな声だったが、それは彼女が心からの信頼を俺に預けようとした証だった。
「ああ。任せろ」
俺は両手を擦り合わせ、彼女の疲れ果てた心身を解き放つための熱を、その掌に宿し始めた。
トレセン学園最大の問題児。その分厚い「鎧」の奥底に眠る素顔の疲労を、今から俺が、すべて溶かし尽くしてやる。