ゴールドシップ襲来の翌日、その放課後。
窓から差し込む夕日が、トレーナールームをオレンジ色に染め上げる時間帯。俺はいつものように、ソファに身を預けるルドルフの背後に立ち、その頭部へゆっくりと指を滑らせていた。
「……んん……。やはり、一日の中でこの時間が最も心が安らぐよ……」
俺の親指が側頭筋を捉え、円を描くように優しく揉み解すと、ルドルフはほうっと心地よさそうなため息を零した。頭頂部の立派な耳が、完全に警戒を解いてパタパタと揺れている。
「今日は少し右の首筋が張ってるな。会議でずっと同じ方向を向いていたのか?」
「……流石だな、トレーナー君。その通りだ。右側に座っていた他校の生徒会役員と、ずっと折衝をしていてね。無意識のうちに力が入っていたようだ」
指先から伝わってくる筋肉の強張りだけで、彼女のその日の行動が手にとるようにわかる。俺はオイルを使わないドライヘッドスパの手技で、その張りを丁寧に流していった。
「お疲れ様。……しかし、最近は本当に色々なウマ娘の身体を触らせてもらったが、こうして解してみると、改めて皆それぞれ違う種類のプレッシャーを抱えているのがわかるよ」
「そうだろう。皆、見えない重荷を背負って走っているからね。……私も、生徒会長としてもっと彼女たちの疲労を察知してやらねばならないと痛感している」
ルドルフは半分目を閉じたまま、穏やかな声で言った。
「有望な生徒はまだまだいる。ターフでの成績はもちろん素晴らしいが、その裏で神経をすり減らしている者……。君のその手を必要としている者は、学園にいくらでもいるだろうな」
「勘弁してくれ。俺は身体が一つしかないんだぞ」
俺が苦笑交じりに返すと、ルドルフはふふっと喉の奥で笑った。
「冗談だよ。君をマッサージ師として学園に奪われてしまっては、私としても困るからね。……ところで、トレーナー君」
「ん? なんだ?」
「昨日の、ゴールドシップはどうだった? 彼女のことだ、君を大いに振り回したのではないか?」
俺は首筋から耳の根元へと手を移動させながら、昨日の静かで、しかしどこか熱を帯びていた時間を思い出した。
「いや……それが、拍子抜けするくらい大人しかったよ。本人は憎まれ口を叩いていたが、しっかり俺の手に身を委ねてくれた。ただ、やっぱり蓄積していた疲労はマックイーンやたづなさんに匹敵するレベルだったな。あの奔放さを維持するのにも、相当なエネルギーを使っているんだろう」
「そうか……。彼女が大人しく施術を受けたとは、少し驚きだが……君の指先が、彼女の警戒心を解いたのだろう。彼女も、君には感謝しているはずだ」
そこまで言って、ルドルフはふと、何かを思い出したように声のトーンを一段階落とし、ほんの少しだけ悪戯っぽい響きを混ぜた。
「そうそう。そのゴールドシップなのだがね。今日、私に言ってきたよ」
「何をだ?」
「『アイツの手、マジでヤバいから、定期的に頼めねぇか』……とな。定期的にお願いしたいらしい。……構わないかい?」
俺は小さくため息をつき、耳の付け根のツボをグッと押し込んだ。
「……んっ……」
「まぁ、いいけどね。アイツがまたギリギリになって倒れられるよりはマシだ。月に一度くらいなら、俺のスケジュールもなんとかなるだろう」
俺のあっさりとした承諾に、ルドルフは「そうか、恩に着る」と頷いた。
だが、その直後だった。彼女のペタンと伏せられていた耳が、ピクッと面白そうな角度に立ち上がり、口元にニヤリとした笑みが浮かんだ。
「で。トレーナー君」
「……なんだよ。まだ何かあるのか?」
「美しかっただろう? 彼女」
不意打ちのようなその言葉に、俺の指が一瞬ピタリと止まった。
「あのゴールドシップが、一切の奇妙な行動を封印し、ただ静かに君の手に身を委ねる姿。それはそれは、絵画のように美しかったはずだ。……男として、トレーナー冥利に尽きたのではないのかい?」
背中越しだというのに、ルドルフがニヤニヤと楽しそうに笑っているのが手に取るようにわかった。
「お、おい、ルドルフ。お前、アイツから何を聞いたんだ……」
「さて? 何のことかな。私はただ、純粋な感想を述べているだけだよ。あの端正な顔立ちを間近で独り占めできたのだ、さぞ見惚れたことだろうと思ってね」
「……っ」
俺はほんの少しだけ耳を揉む指の力を、わざと少しだけ強くした。
「あいたっ! こら、トレーナー君、痛いぞ!」
「……からかうのなら、今日のマッサージはここで打ち切るぞ? ルドルフ」
「わ、わかった! 悪かった、謝る! だからその絶妙な力加減を崩さないでくれたまえ……!」
俺が脅しをかけると、ルドルフは慌てて降参のポーズをとった。やれやれ、と俺が再び一定のリズムで優しく揉みほぐし始めると、彼女はホッとしたように息をついた。
だが、彼女の悪戯心はまだ完全には鎮火していなかったらしい。心地よさに目を細めながらも、ルドルフはポツリと、しかし真剣なトーンで付け加えた。
「すまない、からかい過ぎた。……だがね、トレーナー君。ゴールドシップは、本当に美しいんだよ」
「……ああ、わかってるよ」
「お世辞ではなく、ウマ娘という括りの中でも、彼女の造形は特筆して際立っている。普段の言動がアレだから周囲は忘れがちだが……磨き上げられた白銀の刃のように、本来は誰もが息を呑むほどの美貌の持ち主だ。君から見ても、そうだろう?」
俺は黙って手を動かし続けた。否定する理由など、どこにもなかったからだ。
「ああ。間違いないな。間近で見て、柄にもなく見惚れたのは事実だ」
俺が素直に認めると、ルドルフは満足そうに微笑み、そして最後に、とどめを刺すように言った。
「そうだろう? だから、君が見惚れてしまって、あんな甘い言葉を口走ってしまったのも、男として仕方のないことなのだよ。誰も君を責めやしな……」
「だーかーらー! それ以上言うなら本当にやめるぞ!!」
俺が顔を赤くして声を荒らげると、トレーナールームにルドルフのコロコロとした上品な笑い声が響き渡った。
「ふふっ、あははは! すまない、すまない! だが、君のそんな反応を見るのも、私の疲労回復には効果覿面でね」
「お前なぁ……。まったく、どいつもこいつも食えない奴らばかりだ……」
俺は深い深いため息を吐きながらも、その手だけは決して休めることなく、愛すべき皇帝の耳を優しく解し続けた。
夕闇が完全に降りた部屋に、俺の文句とルドルフの穏やかな笑い声が、いつまでも心地よく溶け合っていた。