「……心地よいぞ」
静まり返ったトレーナールームに、目を閉じたままのルドルフがぽつりと落としたその一言は、思いのほか絶大な威力を発揮した。
不機嫌そうに耳を反らしていたジェンティルドンナは、ピタリと動きを止め、信じられないものを見るような目でソファに沈む『皇帝』を見下ろした。
学園の頂点に君臨し、誰よりも誇り高く、一切の隙を見せないはずのシンボリルドルフ。その彼女が、完全に警戒を解き、あまつさえ他人に自身のデリケートな部位を触れられることを「心地よい」と全肯定してのけているのだ。
「……会長さんが、そこまで仰るのなら」
数秒の沈黙の後、ジェンティルドンナは小さく息を吐き、ピンと張っていた肩の力を僅かに抜いた。
「このジェンティルドンナ、決して頭の固い人間ではありませんわ。……ですが、やはりいきなり耳というのは少々抵抗がありますの。まずは……そうですね、お手並み拝見といかせていただきますわ」
「わかった。無理にとは言わないさ。……じゃあ、まずは耳には一切触れない。手から順番に、首と頭皮だけを解していくということでどうかな」
「ええ。それでよろしくてよ」
優雅に頷き、彼女はルドルフが眠るソファの向かい側、一人掛けのパーソナルチェアへと腰を下ろした。
足を優雅に組み、背筋をピンと伸ばして座る姿は、マッサージを受ける者のそれではなく、まるで謁見室で臣下の報告を待つ女王のようだ。
「それじゃあ、失礼するよ」
俺はスツールを引き、彼女の正面に座った。まずは緊張を解くためのハンドマッサージだ。俺は少量のクリームを掌に伸ばし、彼女が差し出した両手を下からそっと受け止めた。
「……っ」
触れた瞬間、俺は内心で息を呑んだ。
白く滑らかで、完璧に手入れされた美しい手。だが、その皮膚の下に隠された筋肉の密度は、これまでに触れてきた誰のものとも違っていた。
たづなさんのような石灰化した岩盤でも、マックイーンのような張り詰めたピアノ線でもない。ジェンティルドンナの筋肉は、極太の『鋼のワイヤー』、あるいは最高級のサスペンションのようだった。圧倒的なパワーを生み出すための、凄まじい弾力と靭やかさ。
だが、どんなに強靭なバネであっても、常に重圧をかけられ続ければ金属疲労を起こす。
俺は彼女の掌の中央、『労宮』のツボに親指の腹を当て、その強靭な筋肉の反発を押し返すように、じわじわと深く圧を沈め込んでいった。
「……あら」
ジェンティルドンナの口から、微かな驚きの声が漏れた。
「痛いか?」
「いえ……。なんと言いますか、想像以上に……的確ですわね。私の筋肉の奥底にある、自分でも気づかなかった重りを、ピンポイントで見つけ出されたような……」
俺は親指で円を描きながら、掌から指の付け根、そして一本一本の指先へと丁寧にクリームを滑らせていく。常に圧倒的強者であり続けること。誰にも負けないという絶対の矜持を維持すること。その精神的な力みが、知らず知らずのうちに末端の筋肉に強烈なプレッシャーをかけていたのだろう。
俺の手の熱が伝わるにつれ、彼女の掌から微かな強張りが抜け、少しずつ柔らかさを取り戻していくのがわかった。
「……ふぅ……」
小さく、上品な吐息。彼女の組んでいた足が、ふわりと解かれた。
「次は肩と首にいくぞ。制服のままでいい、少し背中を預けてくれ」
「……ええ」
俺は彼女の背後に回り、その立派な肩へと両手を置いた。
僧帽筋から首の横の胸鎖乳突筋にかけて、衣服の上からでもはっきりとわかる極上の筋肉。俺は体重をしっかりと乗せ、手根部を使って大きく揉み捏ねるように圧をかけた。
「……んっ……! ぁ……」
強い圧をかけられても、彼女の身体はブレない。強靭な体幹が俺の力をしっかりと受け止めている。だが、その強固な筋肉の奥深く、芯の部分に溜まっていた疲労物質を押し流すように指を滑らせると、彼女の口から堪えきれないような甘い声が漏れ出した。
「どうだ? 力加減は」
「……申し分、ありませんわ……。もう少し、深くてもよろしくてよ……」
「なら、容赦しないぞ」
俺は肩甲骨の縁に親指を入れ込み、癒着した筋膜をベリッと引き剥がすようなイメージで動かした。
「……あぁっ……! それ、は……効きますわ……」
彼女の背中がビクンと大きく波打ち、チェアの背もたれに深く沈み込んだ。
そのまま首筋から後頭部へと手を滑らせ、頭皮全体を包み込むようにして揉みほぐす。約束通り、頭頂部の美しい耳には一切触れず、その周囲の側頭筋や前頭筋の張りだけを的確に解していく。
……周囲の強張りが取れて血流が良くなるにつれて、触れられていない『耳の根元』の疲労だけが、かえって浮き彫りになってくるはずだ。
「……んん……っ、はぁ……」
数分間、頭皮をじっくりと動かしていると、ジェンティルドンナの呼吸が明らかに荒くなってきた。半分閉じた瞳には、抗いがたい心地よさと、どこかもどかしいような熱が浮かんでいる。
俺が一度手を止め、
「頭皮はこれくらいにしておこうか」
と告げた、その時だった。
「……お待ちになって」
ジェンティルドンナが、俺の腕をそっと掴んだ。
振り返って見下ろすと、彼女はチェアに深く身を預けたまま、少しだけ上目遣いにこちらを見つめていた。その頬はほんのりと上気し、あの絶対的な自信に満ちたオーラは、すっかり甘い熱に溶かされている。
「なるほど……。ゴールドシップさんや、会長さんが骨抜きにされる理由が、よく分かりましたわ。これは確かに……至極の心地よさですわね」
「お気に召したなら何よりだ」
「ええ。ですが……」
彼女はそこで言葉を切り、自分の頭頂部――未だ手付かずのまま残されている、自身の耳をチラリと見た。そして、フッと優雅に、だがどこか焦らされたような熱を帯びた微笑みを浮かべた。
「……周囲が解されたせいで、かえってその中心にある『芯』の重さが気になって仕方ありませんの。……トレーナーさん。あなたのその腕前、確かに本物だと認めますわ」
ジェンティルドンナは掴んでいた俺の腕をゆっくりと離し、再び目を閉じて、無防備に首を傾げた。
「……特別に。……ええ、特別ですわよ? 私の耳に触れることを……許可して差し上げますわ。このジェンティルドンナの重みを、あなたのその手で、すべて払拭してみせなさいな」
高飛車でありながら、それは完全な「白旗」の宣言だった。
「光栄だよ、貴婦人。……必ず、満足させてみせるさ」
■
俺は両手を再び温め直し、いよいよ彼女の頭頂部、その美しくも強靭な耳の根元へと指を這わせた。
「……っ!!」
触れた瞬間、ジェンティルドンナの全身がビクンッ! と大きく震えた。
彼女の耳の根元の筋肉。それは、全身のどの筋肉よりも靭やかで、そしてどの筋肉よりも『熱』を持っていた。
常に最強であるためのアンテナ。常に最強であるための、研ぎ澄まされた感覚器官。その過酷な運用に耐え続けてきた筋肉は、ゴムのようにしなやかでありながら、芯には鉄のような強張りを抱えていた。
俺は両手の親指と人差し指で、その耳の付け根の筋肉をしっかりと挟み込んだ。
そして、逃げ場をなくすように包み込みながら、頭頂部に向かって、今までで一番の力を込めてぐーっと引き上げるように圧をかけた。
「……っっ!? あ……ぁ……っ!!」
ジェンティルドンナの口から、悲鳴にも似た、だが圧倒的な快感に打ち震える声が漏れた。靭やかな筋肉の束が、俺の指先でミシミシと音を立てるように引き伸ばされ、その奥底にこびりついていた疲労の塊が、一気に押し流されていく。
「そのまま、力を抜いて……」
「む、無理ですわ……! あ、あぁっ……頭の芯が、痺れて……っ!」
強靭なはずの彼女の体幹が崩れ、俺の腹部へと無防備に頭がもたれかかってくる。
俺はさらに的確に、耳の裏側のツボへと親指を沈め込み、限界まで張り詰めていた彼女の『最強の矜持』を、俺の掌の中で完全に溶かしてやる。
「……あ……ぁ……」
ふっ、と。俺の指先から、彼女の耳を支えていた最後の緊張が抜け落ちるのがわかった。
「……はぁーーーー…………っ」
静かなトレーナールームに、長く、深く、そしてあまりにも甘い、長い長いため息が響き渡った。
ピンと空を突いていた覇者の耳は、もはや抵抗する力を完全に失い、俺の手の中でへにゃりとだらしなく伏せられている。
俺の腹部に寄りかかったジェンティルドンナは、完全に力が抜けたまま、トロンとした瞳で虚空を見つめ、口元をだらしなく緩めていた。
あの近寄りがたいほどのオーラを放っていた最強の貴婦人の姿は、そこにはもうない。あるのは、極上の快感に全身を明け渡し、完全に骨抜きにされた、ただの一人のウマ娘の姿だった。
■
「……終わったぞ、ジェンティルドンナ」
俺がそっと頭から手を離すと、彼女はビクンと小さく肩を揺らし、ゆっくりと、本当にゆっくりと瞬きをした。
「……あ……わたくしは……」
呂律が回っていない。彼女は自身の身体に何が起きたのかを理解するのに、数秒の時間を要したようだった。やがて、自分が俺に寄りかかり、完全に我を忘れていたことに気づくと、ポッと頬を朱に染めた。
「……お、お見苦しいところを……お見せしましたわね……」
強がって姿勢を正そうとするが、力が入りきらないのか、その動きはどうにもふらふらとしている。
「気にするな。これだけ限界まで身体を張り詰めてたんだ。むしろ、もっと早く来てくれてもよかったくらいだぞ」
俺がフォローを入れると、彼女は少しだけ悔しそうに、だが心底スッキリとしたような、憑き物が落ちたような美しい笑顔を見せた。
「……完敗ですわ。まさか、わたくしがここまで抗えずに身を委ねてしまうなんて……。会長さんが仰った通り……いえ、それ以上でしたわ」
ジェンティルドンナは、向かいのソファで未だに幸せそうに眠り続けるルドルフを一瞥し、フフッと上品に笑った。
「これは……大変なものを知ってしまいましたわね。トレーナーさん、わたくしも、定期的なメンテナンスの列に並ばせていただいてもよろしくて?」
「……ああ。お前がその重い鎧を脱ぎたくなった時は、いつでも来るといいさ。と、言っても、ここ最近は予約が多いけどな」
俺が苦笑しながら頷くと、最強の貴婦人は満足げに目を細め、まだ少し熱を持った自身の耳を愛おしそうに撫でた。
夕日が完全に沈み、夜の気配が部屋を満たし始める。
皇帝に続き、最強の貴婦人までも陥落させた俺の『極上のヘッドマッサージ』。
トレセン学園における俺の裏の顔は、どうやら本業以上に恐ろしい影響力を持つことになってしまったらしい。