癒しのヘッドスパ   作:灯火011

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ルドルフのおねだり

 あの予期せぬヘッドスパから数日が経過した日の夕暮れ時。

 

 学園の喧騒もすっかり落ち着き、遠くで運動部の掛け声が微かに聞こえる程度の静かな時間帯。その日のトレーニングメニューの振り返りと、明日のスケジュールの確認を終えた後、俺とルドルフはいつものようにトレーナールームで向かい合っていた。

 

 

 普段であれば、ここから生徒会の書類仕事の一部を持ち込んで処理を始めるか、あるいはレースの映像を見直しての議論が始まるのだが、今日のルドルフはどうにも様子がおかしかった。

 

 手元の資料に視線を落としているものの、ペンの動きは止まっており、頭頂部の耳が所在なげにパタパタと、あるいはピクピクと、落ち着きなく動いている。時折、ちらりちらりとこちらを伺うような視線を投げてきては、俺と目が合いそうになると慌てて資料に目を戻す、という不自然な挙動を繰り返していた。

 

「……ルドルフ? 何か気になることでもあったか? メニューに不備でも」

 

「い、いや! 決してそのようなことはない。君の組むメニューは常に完璧だ。それは私が一番よく理解している」

 

 俺が声をかけると、彼女は少し大げさなほど背筋を伸ばして否定した。そして、こほん、と一つ小さな咳払いをする。その頬は、夕焼けのせいばかりではなく、ほんの少しだけ朱に染まっているように見えた。

 

「その……トレーナー君。折り入って、少し……頼みたいことがあるのだが」

 

「頼み? なんだ、言ってみてくれ。俺にできることなら何でもするぞ」

 

「……あー……。その、なんだ。先日のことなのだが」

 

 言い淀むルドルフ。天下の生徒会長にして『皇帝』と呼ばれる彼女が、ここまで言葉を探して躊躇うのは珍しい。彼女は一度ギュッと目を閉じ、意を決したように口を開いた。

 

「先日の……君がしてくれた、その、マッサージ、だが。……あれがどうにも、忘れられなくてね」

 

「ああ、耳から頭にかけての」

 

「うむ。……君の施術のおかげで、翌日は見違えるように調子が良くなっていてね。頭の芯を覆っていた霧が晴れたように思考は澄み渡り、生徒会の煩雑な事務作業も本来の三倍の速度で処理できた。肉体的な疲労の抜けも顕著で、トレーニングの質も劇的に向上したのだ」

 

 そこまで一気に捲し立てた後、ルドルフは少し気まずそうに視線を泳がせた。

 

「だから、その……これはあくまで、アスリートとしてのフィジカルケア、およびコンディショニングの一環として、非常に有効な手段であると……私の中で結論付けられたわけで。決して、単に気持ちが良かったからまたやってほしいとか、そういう短絡的な欲求ではなく……」

 

 年相応の少女らしさを覗かせながら、必死に理屈を並べて言い訳をするルドルフ。その様子がおかしくもあり、同時に、そこまでして俺の拙いマッサージを求めてくれたことが嬉しくもあった。

 

 俺は込み上げてくる笑いをなんとか噛み殺し、わざと恭しく、深く頷いてみせた。

 

「承知しました、皇帝陛下。貴女のパフォーマンス向上のためとあらば、この身を粉にして施術にあたりましょう」

 

「っ……。君は、本当に……人が悪いな」

 

 からかわれたことに気づいたルドルフは、耳をペタンと伏せて恨めしそうな視線を送ってきたが、その表情はどこか安堵したように緩んでいた。

 

「冗談だよ。俺でよかったら、いくらでも疲れを解してやる。じゃあ……まずは……そうだな、この間みたいに温かいものでも飲んで、一息入れよう」

 

 そう言いながら俺は、あの時と同じように、ココアを淹れようと立ち上がった。

 

 

 立ち上る甘い湯気と共にマグカップをテーブルに置くと、ルドルフは「すまない」と小さく呟いて両手でそれを受け取った。一口、二口とゆっくりと時間をかけて喉に流し込むごとに、彼女の纏っていた特有の威厳あるオーラが、ふんわりと柔らかいものへと変質していくのがわかる。

 

「さて、準備はいいか?」

「ああ。頼む」

 

 ココアを飲み終えたルドルフがソファに深く腰掛け直すのを見届け、俺は彼女の背後に回った。

 

「失礼するよ」

 

 と一声かけ、まずは両手を擦り合わせて手のひらを温める。冷たい手で触れては、せっかくリラックスし始めた筋肉が再び緊張してしまうからだ。

 

 そして、十分に温まった両手を、ルドルフの頭頂部、その立派な二つの耳の根元へとそっと添えた。

 

「……んっ」

 

 触れた瞬間、ルドルフの喉の奥から小さな声が漏れ、耳が反射的にピクッと跳ねた。ビロードのような極上の被毛の感触と、その奥にある力強い軟骨の弾力、そして内側から、彼女の体温がじんわりと伝わってくる。

 

「じゃあ、少し力を入れるよ」

 

 前回は手探りだったが、今回は違う。俺は親指と人差し指の腹を使い、耳の根元を取り囲む筋肉を、円を描くようにゆっくりと、じっくりと揉み解し始めた。

 耳介を動かすための筋肉群は、ウマ娘にとって人間の何倍も酷使される部位だ。そこへ、滞った血流を促すように、絶妙な圧をかけていく。

 

「……ふぁ……ぁ……」

 

 ルドルフは心地よさそうに目を細め、その琥珀色の瞳を半分閉じた状態で、口元をだらしなく緩めている。ピンと立っていた耳は早々に力を失い、俺の手のひらに身を任せるようにぐったりと垂れ下がっていた。

 

「……素晴らしい……。やはり、君の手は格別だ……」

 

「そう言ってもらえると嬉しいよ。少し痛いところはないか? 強さはこれくらいでいいか?」

 

「ああ……完璧だ。痛気持ちいい、という表現が最も適切だろう。……これなら、毎日でも耳を触ってほしいものだな……」

 

 うっとりとした声で呟きながら、ルドルフは完全にその身の重さをソファと、そして俺の手へと委ねてきた。背もたれに沈み込む彼女の体重を支えながら、俺は静かに言葉を返した。

 

「君が気持ちよさそうだったから、あれから少し、マッサージの知識を仕入れたんだ。見よう見まねの素人療法だけど、お気に召すと良いんだが」

 

「君が……私のために……? そうか……ありがとう。とても、嬉しい……」

 

 ルドルフの微弱な吐息が、静寂の降りたトレーナールームに溶けていく。

 

 俺は耳の根元から、徐々に側頭部へと指を滑らせた。人間の頭部マッサージの教本や動画をいくつか漁り、ウマ娘の骨格を想像しながらアレンジを加えた手法だ。

 

 特に側頭筋なんかは、歯を食いしばる時に使われる筋肉だ。常にプレッシャーに晒され、無意識のうちに奥歯を噛み締めているであろう彼女の側頭部は、やはり鉄板のように硬く強張っていた。

 

 指の腹全体を使い、頭皮を頭蓋骨から引き剥がすようなイメージで、下から上へとゆっくりと持ち上げていく。

 

「……あぁっ……そこ、は……」

 

 筋肉の深い部分に圧が届いたのか、ルドルフが小さく身震いをした。

 

「凝ってるな。毎日、どれだけ気を張ってるんだか」

 

「……仕方、ないさ……。私は……皇帝、だからな……」

 

 消え入りそうな声で返すルドルフ。俺は何も言わず、ただ黙々と、その強張った筋繊維をほぐすことだけに意識を集中させた。

 

 側頭部から前頭部、そして頭頂部へと、指の位置を少しずつズラしながら、一定のリズムで圧迫と弛緩を繰り返す。

 

 カチカチだった頭皮が、数分間の施術によって徐々に柔らかさを取り戻し、指の動きに合わせてスムーズに動くようになってきた。それに伴い、ルドルフの呼吸も深く、長く、規則的なものへと変化していく。

 

「次は、肩と首にいくぞ」

 

「……ん……」

 

 もはや言葉を発するのも億劫なのか、小さなハミングのような返事だけが返ってくる。

 

 俺は頭部から手を離し、ルドルフの華奢な、しかしアスリートとしての強靭な筋肉を秘めた肩へと両手を置いた。

 

 首の付け根から肩先にかけて広がる僧帽筋。ここもまた、信じられないほどの硬さだった。

 

 ならば、と。

 

 親指の付け根の分厚い部分を使い、体重を乗せるようにしてゆっくりと押し込んでいく。グーッという持続的な圧をかけ、筋肉の奥深くまでアプローチする。

 

「……んんっ……」

 

「痛いか?」

 

「いや……効いている……。そこが芯から冷えて、固まっていたのが……君の手の熱で、溶かされていくようだ……」

 

 摩擦熱と圧迫によって、血流が急激に改善していくのが触れている手を通してもわかった。硬いゴムのようだった筋肉が、少しずつ、本来のしなやかな弾力を取り戻していく。

 肩甲骨の縁に沿って指を入れ込み、癒着を引き剥がすように動かす。ルドルフの体が、施術のリズムに合わせてゆらゆらと小さく揺れる。彼女は完全に脱力し、俺の施す力学的な刺激の波に身を任せていた。

 

 そして、最後の仕上げだ。

 

 俺は再びルドルフの後頭部へと手を回した。首の骨と後頭骨が交わるあたり、後頭下筋群と呼ばれる首の付け根のくぼみ。ここは、眼精疲労や頭の重さに直結する重要なツボが密集している場所だ。

 

 人差し指と中指を揃え、『風池(ふうち)』と呼ばれるツボを探り当てる。

 

「ルドルフ、最後だ。少しだけ、響くぞ」

 

「……あぁ……」

 

 声掛けの後、頭の中心に向かって、斜め上方向にゆっくりと、しかし力強く指を押し込んでいく。

 

 ズーン、という重い響きが、彼女の視神経の根元まで届いているはずだ。

 

「……あ……ぁぁ……」

 

 ルドルフの口から、今日一番の、深い深いため息が漏れた。

 

 それは、彼女の中に淀んでいたありとあらゆる疲労や重圧、緊張といったものが、すべて体外へと排出されたかのような、心地よい響きを持った呼気だった。

 

 三秒ほど圧をキープし、ゆっくりと指を離す。その瞬間だった。

 

 コクン、とルドルフの頭が前に傾き、そのまま俺の腹部あたりにトン、と寄りかかってきた。

 

「ルドルフ?」

 

 声をかけても、返事はない。聞こえてくるのは、スースーという、完全に寝入ってしまった者の、規則的で無防備な寝息だけだった。眼精疲労に効くという強烈なツボの刺激が、彼女を繋ぎ止めていた最後の覚醒の糸を断ち切ったのだろう。

 

「……お疲れ様。よく頑張ってるよ、お前は」

 

 俺は独り言のように小さく呟き、寄りかかってきた彼女の頭をそっと手で支えながら、無理のない姿勢になるようにクッションを整えた。完全に脱力し、俺の腕の中で眠る彼女の耳は、やはり完全にペタンと平らに伏せられている。

 

 窓の外はすでに完全な夜。時計の針が時を刻む微かな音と、ルドルフの静かな寝息だけが、トレーナールームを支配している。

 

 俺は彼女が目を覚ますまで、あるいは風邪をひかないように毛布を持ってくるべきかと考えながら、もうしばらくの間、この静寂に満ちた癒しの空間を維持するための、ただの『椅子』であり続けることにした。

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