癒しのヘッドスパ   作:灯火011

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皇帝の休日、トレーナーの挑戦

 あの日、ルドルフと交わした「脚と足裏」へのマッサージの約束。

 

 それに向けて、俺は休日の前夜まで、買い集めた解剖学やウマ娘のスポーツ医学の専門書を読み漁っていた。

 

 ふくらはぎのポンプ機能の促し方、足裏の反射区(リフレクソロジー)の正確な位置。それらを頭に叩き込んでいるうちに、俺の視線は解剖図のある「一点」に釘付けになった。

 

「……尻尾、か」

 

 ウマ娘の象徴とも言える、背骨の延長線上にある器官。

 

 普段、彼女たちの愛らしさや感情表現のバロメーターとして見ているそれは、アスリートの構造という観点から見れば、極限のスピードの中で強烈な遠心力に耐え、姿勢を制御するための『巨大なバランサー(舵)』だ。

 

 時速70キロに迫るスピードでターフのコーナーを曲がる際、彼女たちはあの尻尾の筋肉を極限まで収縮させてバランスをとっている。さらに、日常的に「嬉しい」「悲しい」「警戒している」といった感情の機微に合わせて、無意識のうちに激しく動かしてもいる。

 

「これ……絶対に、とんでもない疲労が溜まってる場所じゃないか」

 

 背骨の下部、仙骨から尾骨にかけての筋肉群。骨盤周りの靭帯。

 

 尻尾の付け根が凝り固まっていれば、いくら脚を解しても骨盤の動きが悪くなり、歩幅(ストライド)に影響が出る。何より、常に感情を制御してポーカーフェイスを貫いているルドルフのようなウマ娘は、無意識のうちに尻尾の動きすらも制限し、付け根の筋肉に尋常ではないストレスをかけているはずだ。

 

 癒し手としての探究心が、完全に理性を上回った瞬間だった。

 

 俺は脚のマッサージに加え、背中から『尻尾の付け根』に至る深層筋へのアプローチ手法を、徹夜でノートに書き出していた。

 

 

 ――そして、約束の休日。

 

「……失礼するよ、トレーナー君」

 

 トレーナー寮の自室のドアを開けると、そこには、息を呑むほど美しい『休日の皇帝』が立っていた。

 

 約束通り、事前に完璧な準備を整えてきてくれたのだろう。ゆったりとしたネイビーのルームウェアのようなセットアップに身を包んだ彼女からは、ほんのりと、上質なフローラル系のボディソープの香りが漂っていた。

 

 髪はわずかに湿り気を帯びており、メイクもごく薄い。完全に「オフ」の状態、誰にも見せない無防備な彼女の姿だ。

 

「よく来てくれた、ルドルフ。完璧なコンディションだな」

 

「ああ。君の新しい技術とやらを堪能するために、全身の毛穴という毛穴まで磨き上げてきたつもりだ。……少し、気恥ずかしくはあるがね」

 

 ルドルフは頬を微かに染めながら、俺が用意したリクライニングチェアへと腰を下ろした。

 

「ハーブティーは後にしよう。血流を一気に回すからな。……さて、ルドルフ。今日のメニューなんだが」

 

「うむ。脚と、足裏のリフレクソロジーだったな。心の準備はできているよ」

 

 ルドルフはルームウェアの裾を膝下まで捲り上げ、そのすらりとした、傷一つない白磁のような素足を惜しげもなく俺の前に差し出した。

 

 俺はごくりと喉を鳴らしそうになるのをプロ意識で強引に抑え込み、コホンと咳払いをした。

 

「もちろん、脚と足裏はみっちりやる。だが……実は、色々と勉強しているうちに、どうしても君に試したいアプローチがもう一つ増えてしまってな」

 

「ほう? 脚以外にもか?」

 

「ああ。背中から……『尻尾の付け根』周りのマッサージだ」

 

 俺の口から出たその単語に、ルドルフの動きがピタリと止まった。

 

「……え?」

 

「ターフでのバランス制御もそうだが、感情を表す器官でもある尻尾の根元には、仙骨を中心に凄まじい神経と筋肉が密集している。お前のように常に気を張り詰め、感情をコントロールしているウマ娘なら、尻尾の付け根の筋肉は間違いなく悲鳴を上げているはずなんだ。そこを解せば、骨盤の歪みも取れて、腰の重さも劇的に解消される」

 

 俺が解剖学的な見地から熱弁を振るっている間、ルドルフはただポカンと口を開け、瞬きを繰り返していた。

 

 やがて、自身の背後にある立派な尻尾がビクンと跳ねたことで我に返ったのか、彼女の顔がみるみるうちに沸騰するように赤く染まっていった。

 

「い、いや……まぁ、え、うーん……し、尻尾、か……」

 

 天下の生徒会長が、完全に言葉を失い、視線を猛烈な勢いで泳がせている。

 

 両手を膝の上でギュッと握りしめ、頭頂部の耳は警戒と羞恥で完全にペタンと後ろへ倒れ、肝心の尻尾は股の間に隠すようにクルンと巻き込まれてしまった。

 

 ウマ娘にとって、尻尾の根元。それはただの筋肉の集合体ではないのだろう。他人に安易に触れさせることなどあり得ない、極めてプライベートで、なおかつとてつもなく敏感な急所中の急所だ。

 

「……あっ」

 

 彼女のその激しい動揺ぶりを見て、俺は冷水を浴びせられたようにハッとした。

 

 ―――しまった。

 

 筋肉や疲労回復のことばかりに思考が偏りすぎて、またしても「乙女の羞恥心」という最大の壁を完全に忘却していたのだ。

 

 いくら信頼関係があるとはいえ、担当ウマ娘の、しかも年頃の少女の尻尾の付け根をじっくりと揉み解すなど、客観的に見ればセクハラと紙一重、いやアウトに近い暴挙ではないか。

 

「ご、ごめん! 悪かった、ルドルフ! 理論ばかりが先行して、配慮が全く足りていなかった!」

 

 俺は慌てて両手を振り、全力で弁解した。

 

「無理だよなぁそりゃあ! うん、無しだ! 今の話は完全に忘れてくれ! 脚と足裏だけで十分すぎるほど効果は出せるから! な!?」

 

 俺が頭を抱えて一人でパニックになっていると。

 

「……待ってくれ、トレーナー君」

 

 ふと、俺の腕を、柔らかな両手がそっと包み込んだ。

 

 顔を上げると、ルドルフが顔を真っ赤にしたまま、それでも真っ直ぐにこちらを見つめていた。耳は未だに恥ずかしさで伏せられているが、その瞳には、揺るぎない覚悟のようなものが灯っている。

 

「る、ルドルフ?」

 

「……確かに、尻尾の付け根は……ウマ娘にとって、容易に他人に触れさせる場所ではない。そこに触れられることを想像しただけで、背筋が粟立つような、どうにかなってしまいそうな羞恥があるのは事実だ」

 

 ルドルフは大きく深呼吸をし、俺の腕を包む手に少しだけ力を込めた。

 

「だが……君の言う通り、そこに蓄積された疲労の重さは、私自身が一番よく理解している。……それに」

 

 彼女はそこで言葉を切り、少しだけ恥ずかしそうに視線を下に落とした。

 

「……まぁ、君になら。……私のすべてを預けてもいいと、そう思っているからね」

 

「……!」

 

 その言葉に含まれた、海よりも深い絶対的な信頼。俺は一介のトレーナーとして、そして一人の男として、彼女のその想いに全力で、最高の結果をもって応えなければならないと強く心に誓った。

 

「ありがとう、ルドルフ。絶対に、後悔はさせない。最高の状態に仕上げてみせるよ」

 

 俺が真剣な顔で力強く頷くと、ルドルフはふっと表情を和らげた。

 

 だが、そこはやはり『皇帝』だった。ただ恥ずかしがるだけの少女では終わらない。彼女は伏せていた耳をピンと立ち上げると、俺の目を見て、ふふっと悪戯っぽく、妖艶な笑みを浮かべたのだ。

 

「ああ、期待しているよ。……ただ」

 

「ただ?」

 

 ルドルフは俺の腕から手を離すと、まるで頬杖をつくようにして、甘く、挑発的な声を紡いだ。

 

「そこは君が思っている以上に、敏感で、デリケートな場所だ。私自身、触れられてどうなってしまうのか予想もつかない。……だから、施術中に私に何か『抗えないこと』があったとしても。……責任は、取り賜えよ? トレーナー君」

 

 冗談めかした、しかし確かな熱を孕んだ最後通告。

 

 俺は背筋に冷たいような熱いようなものが走るのを感じながら、ごくりと唾を飲み込んだ。

 

「……謹んで、お受けします。皇帝陛下」

 

 休日のトレーナー寮。

 

 アロマの香りが充満する密室で、俺と彼女の、これまでで最も深く、そして危険な「究極のコンディショニング」が、今、静かに幕を開けようとしていた。




※健全なマッサージです。
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