癒しのヘッドスパ   作:灯火011

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トレーナー達の憂鬱

 トレセン学園のトレーナー専用談話室。

 

 午後のカリキュラムが始まる前の、ほんのわずかな隙間時間。俺は自動販売機で買った微糖の缶コーヒーを片手に、少し年季の入った革張りのソファへ深く身を預けていた。

 

 

 窓から差し込む柔らかな秋の陽射しと、どこかの誰かが淹れたドリップコーヒーの香ばしい匂い。担当ウマ娘である『皇帝』のコンディショニングも順調そのもので、今日はこのまま平穏な一日が終わるはずだった。

 

「……はぁ、今日も平和だ」

 

 一人ごちて、首をゴキリと鳴らした、その時だった。

 

「平和じゃない!! 全然平和じゃないですよ、先輩!!」

 

 バァン! と、やけに勢いよく談話室のドアが開き、血相を変えた三人の男たちが雪崩れ込んできた。思わず手元の缶コーヒーをこぼしそうになりながら振り返ると、そこには見知った同僚たちの顔が並んでいた。

 

 先陣を切って俺のテーブルに両手をついたのは、生徒会副会長であるあの『女帝』を支える担当トレーナー。

 

 その後ろで腕を組み、ひどく渋い顔で天を仰いでいるのは、孤高の『怪物』と日々並走している担当トレーナー。

 

 そして、その隣で優雅に額の汗をハンカチで拭っているのは、最強の『貴婦人』に仕える担当トレーナーだった。

 

「……なんだお前ら。徒党を組んで、トレセン学園にクーデターでも起こす気か?」

 

 俺が呆れたように言うと、女帝の担当が泣きそうな顔で訴えかけてきた。

 

「クーデターを起こされそうなのはこっちの威厳ですよ! 聞いてください! 先日、あなたがうちの担当を秒殺で寝落ちさせて以来、彼女の俺を見る目が……俺の手を見る目が、明らかに『物足りない』って言ってるんです!」

 

「あー……」

 

「昨日なんか、少し肩を揉もうとしたら『……貴様の指からは、あの時のような深い慈愛と力学的なアプローチが全く感じられん』って、物理と精神の両面からダメ出しされたんですよ!? 俺だって一応プロなのに!」

 

 泣きつく彼を横に退け、今度は怪物の担当が重いため息をつきながら前に出た。

 

「……うちのもだ。お前に昇天させられたあの後から、俺が首回りを解そうとすると『ふん、素人が。表面を撫でるだけでくすぐったい』って鼻で笑いやがって……。しまいには『アツい勝負の後は、あのゴッドハンドを呼べ』とまで言い出す始末だ。俺のトレーナーとしての沽券に関わる」

 

 最後に、貴婦人の担当が一歩進み出て、深く、それはもう深く頭を下げた。

 

「ジェンティルドンナにおかれましては、非常に優雅な笑みを浮かべながら『……あなたも、あの方の元で少し“修行”を積まれてはいかがかしら?』と、極めて柔らかく、しかし絶対に断れない圧力で宣告してこられました。……助けてください」

 

 三者三様、担当ウマ娘たちからのプレッシャーに完全に押し潰されかけている同僚たち。

 

 ……どうやら、俺が密室で施した『極上のヘッドスパ』の代償は、彼女たちの本来のパートナーである彼らの元へ、大きすぎる期待のハードルとなって跳ね返ってしまったらしい。

 

「頼みます! 俺たちに、あの『ヘッドスパ』の技術を教えてください!」

 

「このままじゃ、俺たちの立つ瀬がないんです!」

 

 三人の大の大人から、すがるような熱い視線を向けられる。

 

 自業自得とはいえ、同業者として彼らの悲哀は痛いほどよくわかった。担当ウマ娘からの信頼が揺らぐことほど、トレーナーにとって恐ろしいことはない。

 

「……はぁ」

 

 俺は本日何度目かわからないため息を吐き、缶コーヒーをテーブルに置いた。

 

「わかったよ。お前らにも苦労をかけたみたいだしな。俺が独自に勉強した耳周りから頭皮にかけての解剖学的なアプローチと、力の入れ方のコツくらいなら、教えてやらないこともない」

 

「おおっ! 本当ですか!」

「助かる……! これで俺も『素人』呼ばわりから抜け出せる……!」

 

 三人がパァッと顔を輝かせた、ちょうどその時だった。

 

「あのぅ……お邪魔、します……」

 

 少しだけ開いていたドアの隙間から、ひどく遠慮がちな、消え入りそうな声が聞こえた。

 

 振り返ると、そこに立っていたのは、小柄で可憐な漆黒のステイヤー――ライスシャワーだった。

 

 そして彼女のすぐ後ろには、彼女が「お兄さま」と慕う、いつも穏やかな笑みを絶やさない彼女の担当トレーナーが付き添っていた。

 

「おや、騒がしいと思ったら。皆さんお揃いでどうされたんですか?」

 

 ライスの担当が、俺たち四人の異様な熱気に目を丸くしながら尋ねてきた。その後ろで、ライスは少し怯えたように彼の手をキュッと握っている。

 

「いや、なんでもない。ちょっとこいつらに、コンディショニングの手技を教えることになってな」

 

 俺が苦笑いしながら答えると、ライスの担当は「おや」と興味深そうに目を細めた。

 

「手技……もしかして、最近トレーナーたちの間でまことしやかに囁かれている、『極上のヘッドスパ』の噂ですか?」

 

「……そんな噂になってるのか」

 

「ええ、それはもう。なんでも、皇帝も女帝も怪物も、一度受けたら立ち上がれなくなるほどの魔法の手だと。……実のところ、私も少し興味があったんですよ」

 

 ライスの担当はそう言って、自身の隣で不思議そうに首を傾げているライスを見下ろした。

 

「ライスも最近、長距離の走り込みが続いていて、少し疲れが溜まっているみたいでして。……特に、いつも周りに気を配ってばかりいる優しい子ですから、頭や耳の周りが強張っているんじゃないかと気になっていたんです」

 

「お兄さま……ライス、平気だよ? トレーニング、頑張れるよ?」

 

 ライスが慌てたように否定し、頭頂部の小さな耳をペタンと伏せる。だが、俺の目から見ても、彼女の首筋から耳の根元にかけての筋肉は、常に周囲の顔色を伺い、期待に応えようとする繊細な気遣いによって、かなり強い緊張状態にあることがわかった。

 

 マックイーンの時と同じだ。優しい子ほど、見えない重圧をその小さな耳で受け止め、自分の中に溜め込んでしまう。

 

 俺はソファから立ち上がり、ライスの目線に合わせて少し腰を落とした。

 

「……ちょうどよかった」

 

「え……?」

 

「今からこいつらにマッサージの講習会をしようと思ってたんだが、言葉で説明するより、実際の手技を見せた方が早い。……ライス。俺たちの『モデル』になって、試しに一回、受けてみないか?」

 

 俺が優しく提案すると、ライスは目を丸くして、俺と彼女の担当を交互に見つめた。

 

「ライスが……モデルさん……? で、でも、ライスなんかが、そんな……」

 

「大丈夫だよ、ライス」

 

 彼女の担当が、その小さな背中にそっと手を添えた。

 

「せっかくの機会だ。……あの方の魔法、僕もライスが受けてるところを見て、勉強させてもらいたいな」

 

「お兄さまが、お勉強……」

 

 その言葉に、ライスの瞳にほんの少しだけ使命感のようなものが灯った。自分のためではなく、大好きな『お兄さま』の力になれるのなら、と。

 

「……わ、わかりました。ライスでよければ……お手伝い、します……」

 

「よし、決まりだ。それじゃあ、奥の空いてるソファを使おう。……お前ら、しっかり見ておけよ」

 

 俺が同僚たちを振り返ると、三人はまるで伝説の奥義を伝授される門下生のように、真剣な顔で深く頷いた。

 

 こうして、談話室の片隅で、図らずも「ヘッドスパ講習会」の幕が上がった。

 

 そしてそれは同時に、一人の健気で心優しい少女の、小さく強張った耳の呪縛を解き放つ、新たな癒しの時間の始まりでもあったのだ。

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