癒しのヘッドスパ   作:灯火011

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ヘッドスパの講義(被験者・ライスシャワー)

「よし、それじゃあライス。あっちのソファに腰掛けてくれ」

 

 俺は談話室の奥にある、背もたれの高い一人用のソファへライスシャワーを促した。彼女は「はい……」と小さく頷き、ちょこんと行儀良く腰を下ろす。

 

「始める前に一つ確認させてくれ。俺のマッサージは、眼精疲労や首の張りを抜くために、頭皮だけじゃなく『耳』とその周りの筋肉も直接触って揉みほぐす。ウマ娘にとってデリケートな場所なのは分かってるが……大丈夫か?」

 

 俺が目線を合わせて尋ねると、ライスは少しだけビクッと耳を揺らしたが、すぐに彼女の担当トレーナー――『お兄さま』の方をちらりと見上げ、そしてコクリと力強く頷いた。

 

「だ、大丈夫です……。お兄さまのお勉強のためなら、ライス、我慢できますから……」

 

「我慢しなくていいんだぞ? 痛かったり不快だったりしたら、すぐに言うこと。約束できるか?」

 

「……はいっ」

 

 健気な決意を固める少女の姿に、俺は少しだけ目を細め、そして背後に立つ三人の「門下生」とライスの担当トレーナーへと振り返った。

 

「よーし。いいか、お前ら。ウマ娘のコンディショニングにおいて、脚のケアと同じくらい、いや、時にそれ以上に重要なのがこの『首から上のケア』だ。彼女たちはターフの風切り音、他ウマ娘の足音、スタンドの歓声、そして日常のあらゆるプレッシャーを、あの耳と脳で受け止めている。表面の肩こりをいくら叩いても、この『情報の入り口』の緊張を解かなければ、芯の疲労は絶対に抜けない」

 

 三人のトレーナーたちが、手帳とペンを構え、ゴクリと唾を飲み込む。

 

「まずは触診だ。ただ触るんじゃない。筋肉の温度、弾力、そして骨との癒着具合を指先で『視る』んだ」

 

 俺は両手を擦り合わせて人肌に温めてから、ライスの背後に立ち、彼女の首筋から後頭部にかけて静かに指の腹を滑らせた。

 

「……っ」

 

 触れた瞬間、ライスの細い肩がわずかに竦む。

 

「見てみろ。ライスの首の裏、延髄のあたりから後頭骨に張り付いている『後頭下筋群』。ここは眼球の動きと連動している。長距離を走るステイヤーは、常に前方と周囲の状況を広く見渡し、何千メートルもの間、集中力を途切れさせない。加えてライスは、普段から周囲の空気を読んで気を使う優しい性格だ。視神経の疲労と精神的ストレスが、ここにカチカチのロックをかけている」

 

 俺は親指の腹を、そのロックの基部である『風池(ふうち)』と『天柱(てんちゅう)』のツボへ当てた。

 

「ここを解す時は、絶対に力任せに押すな。ウマ娘の首は細いが、奥の筋肉は強靭だ。力で反発させず、彼女の頭の重みを利用するんだ。……ライス、息をゆっくり吐いて、後ろに少しだけ寄りかかってごらん」

 

「……すぅぅ……はぁぁ……」

 

 ライスの呼吸に合わせて、俺は親指のベクトルを『斜め上、頭蓋骨の中心』に向かって、じわじわとミリ単位で沈め込んでいく。

 

「い、痛ぁ……くぅ……っ、でも、あ、頭の奥が、ジンジンします……」

 

「良い感じだな。で、指圧側は痛気持ちいいラインをキープしろ。親指の腹で筋肉の束を捉えたら、そこで止める。揉むんじゃない、『持続圧』だ。筋肉が自ら『これ以上は抵抗できない』と諦めて弛緩するのを待つんだ」

 

 約十秒後、俺の指先からフッと抵抗が消える。

 

「……ほら、一段階深く指が入っただろう。これで首の関所が開いた。血が脳へと一気に上がり始める」

 

「なるほど……持続圧……」

 

 と、ブライアンのトレーナーがぶつぶつと手帳に書き込んでいる。

 

「次は側頭部だ。耳の上の『側頭筋』。ここは、ウマ娘が歯を食いしばる時に使われる。厳しいレース展開、あるいはプレッシャー。ここが張っていると、頭痛や不眠の原因になる」

 

 俺は四指の腹を大きく開き、ライスの側頭部を両側から挟み込んだ。そして、頭皮を頭蓋骨から引き剥がすように、下から上へと円を描くように大きく動かす。

 

「……んんっ……ふぁ……」

 

 ライスが小さく身悶えし、口が半開きになる。側頭筋が緩むと、自然と顎の力も抜けるからだ。

 

「ここは指を滑らせるな。頭皮ごと筋肉を動かすイメージだ。五十円玉サイズの円を描きながら、少しずつ前頭部から後頭部へと位置をずらしていく。硬いところは癒着している証拠だ。時間をかけて剥がせ」

 

「せ、先輩。その時の力加減は……?」

 

 エアグルーヴの担当が恐る恐る尋ねる。

 

「相手の呼吸を見ろ。息が止まるようなら強すぎる。深呼吸が続くギリギリのラインを攻めろ」

 

 そして、いよいよ本丸だ。俺は手を、ライスの頭頂部にピンと立つ、彼女の特徴であるその「少し大きめの耳」の根元へと移動させた。

 

「ここからが真骨頂だ。ウマ娘の耳介を動かす筋肉群は、人間のそれとは比べ物にならないほど発達している。感情と連動し、常にレーダーのように動き続けるこの筋肉は、交感神経のスイッチそのものだ。これを強制的にオフにする」

 

 俺は親指と人差し指、中指で、ライスの耳の根元、その分厚い筋肉の束をしっかりとガッチリとホールドした。

 

「……っ!!」

 

 ライスがビクンッと大きく跳ねる。

 

「根元を掴んだら、そのまま真上、つまり頭頂部に向かって、強烈に引き上げる。これは筋膜リリースの一種だ。耳の筋肉を頭蓋骨の締め付けから完全に解放する」

 

「ぐぅっ……! あ……っ、あぁぁ……っ!!」

 

 強烈な引き上げの圧に、ライスの口から声にならない悲鳴が漏れる。だが、その声は苦痛ではなく、堰き止められていた疲労が一気に溢れ出すような、圧倒的な解放感に満ちていた。

 

「そのままキープだ。耳の根元の筋肉が、自分の体温でドロドロに溶けるのを指先で感じ取れ」

 

 数秒後、ピンと張っていたライスの耳が、スッと力を失い、俺の指の中でへにゃりと崩れた。

 

「よし、根元のロックが外れた。だが、ライスは特に耳が大きい。パラボラアンテナが大きければ、それだけ風の抵抗も大きいし、ノイズも拾いやすいということだ。だから、耳の『本体』にもアプローチする」

 

 俺の言葉に、見学していた四人のトレーナーが

 

「耳本体!?」

 

 とざわめく。

 

「耳介そのものには無数の自律神経のツボがある。ここを揉むことで、全身の血流が爆発的に良くなるんだ」

 

 俺はライスの柔らかな耳介を、親指と人差し指の腹で優しく、だがしっかりと挟み込んだ。

 

 そして、耳の縁(耳輪)に沿って、下から上へ、外側に引っ張りながら細かく揉みほぐしていく(揉捻)。さらに、耳の穴のすぐ上にある軟骨のくぼみ、神門と呼ばれる、自律神経を整える強力なツボを親指でじっくりと圧迫する。

 

「……ひゃぅっ……ぁ……あ、あぁ……っ……」

 

 耳本体への直接的な刺激。それは、ライスにとってかつて経験したことのない、未曾有の心地よさだったのだろう。彼女の小さな身体がブルブルと震え、ソファの背もたれに完全に沈み込む。瞳はトロンと蕩けきり、今にも意識を手放してしまいそうだ。

 

 今まで俺が施術してきたウマ娘たちなら、間違いなくここで完全に寝落ちしているタイミングだ。

 

「……すぅ……はぁ……だ、だめぇ……お兄さま、見てるのに……っ、ライス、ね、寝ちゃ……だめ……っ」

 

 だが、ライスは違った。彼女の目は半分以上閉ざされ、首は完全に力が抜けてガクンと前に傾きかけているのに、そのたびにハッとして目を開き、必死に踏みとどまろうとしているのだ。

 

「……すごいな。この究極の弛緩状態でも、意識を保とうとするのか」

 

 俺は思わず感嘆の声を漏らした。

 

 長距離レースの終盤、肉体が限界を迎え、意識が朦朧とする中で、それでも前へ進もうとするステイヤーの意地。そして何より、「お兄さまの勉強のために、ちゃんと起きてモデルを務めなければ」という、彼女の健気すぎる責任感。それが、圧倒的な睡眠欲と快感の波に抗わせているのだ。

 

「ぷるぷるしてる……。ライスちゃん、無理しないで寝ていいんだよ……?」

 

 ジェンティルのトレーナーが、あまりの健気さにハンカチを噛んで涙ぐんでいる。

 

「いや、ここで寝かせないのも技術のうちだ。……仕上げにいくぞ」

 

 俺は耳から手を離し、両手の掌全体で、ライスの頭頂部を包み込んだ。そして、彼女の頭の丸みに合わせて、ゆっくりと、ジンワリと下方へ向かって圧をかける。

 

「これは『百会(ひゃくえ)』を中心とした頭頂部の圧迫だ。浮き上がった気を鎮め、交感神経と副交感神経のバランスをフラットに戻す。……ライス、深く息を吸って……吐いて……」

 

「……すぅぅぅぅ…………はぁぁぁぁぁ…………」

 

 ライスの呼吸が、これ以上ないほど深く、ゆっくりとしたリズムを刻む。目は完全にトロンとして、焦点はどこにも合っていない。口元はだらしなく緩み、時折、

 

「……へへぇ……」

 

 と幸せそうな寝言のような声が漏れる。意識は半分夢の世界に行っているが、それでも彼女は、ソファの上で姿勢を崩すことなく、プルプルと微かに震えながら「起きている」状態を維持していた。

 

「……よし。これで一通りのプロセスは終了だ」

 

 俺がゆっくりと手を離すと、ライスはビクンと肩を揺らし、数秒遅れて、

 

「……お、おわり、ですか……?」

 

 と、呂律の回らない声で呟いた。

 

「ああ。お疲れ様、ライス。よく頑張って起きてたな。偉いぞ」

 

 俺が彼女の頭を優しく撫でてやると、ライスはへにゃりと、それはもう愛らしい、とろけるような笑顔を見せた。

 

「……はいぃ……。ライス、お兄さまの……おやくに、たてましたか……?」

 

 その姿を見たライスの担当トレーナーは、言葉もなく何度も激しく頷き、感動のあまりか、目頭を押さえていた。そして、その後ろに並ぶ三人のトレーナーたちは。

 

「……筋肉の深層へのアプローチ、呼吸の連動、筋膜リリースに自律神経のコントロール……」

 

「ただ揉むだけじゃなかった……。これは、俺たちが小手先で真似してどうにかなるレベルじゃねぇ……」

 

「奥が深すぎます……。これでは、ジェンティルが不満を抱くのも無理ないか……」

 

 彼らは俺の手技の詳細さと、それによって引き出されたライスの極限のリアクションを目の当たりにし、完全に圧倒され、絶望と畏敬の入り混じった顔で立ち尽くしていた。

 

 俺は少しだけ冷めた缶コーヒーを手に取り、彼らに向かってニヤリと笑った。

 

「……さて、基本の手技はこんなところだ。だが、いいかお前ら。相手は全員違う個性と身体を持ったウマ娘だということを絶対に忘れるな。基本を抑えたら、あとは相手に合わせた『カスタマイズ』が必須になる」

 

 すっかり極上の弛緩状態に陥り、ソファでぽやぽやと幸せそうに微笑んでいるライスシャワーを傍目に、俺は真剣な顔でメモを取る三人の同僚たちに向かって、それぞれへの具体的なアドバイスを送った。

 

「まず、エアグルーヴの場合だ。彼女は完璧主義ゆえに、無意識のうちに奥歯を強く噛み締める癖がある。だから、いきなり首や肩の強張りを解こうとするな。顎の関節周りや『側頭筋』のロックを外すのが先決だ。そこが緩んで初めて、あの強固な女帝の防衛線も自然と解け、本丸への道が開ける」

 

「……なるほど。顎関節と側頭筋からのアプローチですね」

 

 エアグルーヴの担当が、手帳に赤ペンで力強く書き込む。

 

「次にブライアンだ。彼女はあの通り、アスリートとして規格外の筋肉の鎧を纏っている。普通に指で押すだけじゃ、表面の分厚い筋肉に弾き返されて終わるぞ。指を立てず、掌全体と手根部で筋膜をガッチリと捉え、重力に逆らうようにゆっくりと『上へと引き上げる』んだ。あの怪物を昇天させるには、点での力技じゃなく『面での持続するベクトル』が鍵になる」

 

「面での持続するベクトル……よし、頭に叩き込みました」

 

 ブライアンの担当が、己の掌を見つめながら深く頷く。

 

「そして、ジェンティルドンナは……そうだな。彼女のあの高貴なプライドを最大限に尊重しろ。いきなり耳などのデリケートな急所に触れようとすれば、不機嫌になって逆に筋肉を固くしてしまう。まずは末端の『ハンドマッサージ』から入れ。腕、肩と順を追って解していき、彼女自身に『君の腕前』を認めさせるんだ。耳へのアプローチは、彼女から許可を引き出してからだぞ」

 

 ジェンティルの担当がハンカチを握りしめ、

 

「……まずは、手から。道のりは険しそうですが、ジェンティルのためなら……!」

 

 と、謎の対抗心を燃やして決意を固める。

 

「最後に、ライスだ」

 

 俺は隣で「ふにゃぁ……お兄さまぁ……」と半分夢の世界にいるライスを見つめる彼に向き直った。

 

「ステイヤーはとにかく我慢強い。限界を超えても耐え抜いてしまう。しかもライスは、周りに気を使いすぎるからな。耳が大きくて周囲のノイズを拾いやすい分、耳介そのものの揉捻を丁寧にやって、自律神経のスイッチをリセットしてやるんだ。……決して急がず、彼女のペースに合わせて優しくな」

 

「……はい。ライスが心から安心できるように、時間をかけてやってみます。先輩、本当にありがとうございました」

 

 四人が深々と頭を下げる。

 

 こうして、俺の『ヘッドスパ講習会』は無事に終了した。同僚たちとライスの担当は、それぞれの愛バに極上の癒しを提供すべく、確かな手応えと決意に満ちた顔で談話室を後にしていった。

 

 

「……ふぅ。やれやれだ」

 

 嵐が去り、ようやく訪れた静寂。

 

 すっかり冷めきった缶コーヒーを飲み干し、さて俺もルドルフの様子でも見に行こうかとソファから立ち上がった、その時だった。

 

 ウィーン……。

 

 微かなモーター音が廊下から近づいてきて、閉まったばかりの談話室のドアが再び、ゆっくりと開かれた。

 

「……あ、トレーナーさん。まだ残ってたんですねぇ……」

 

 そこにいたのは、電動車椅子に乗った一人の女性――天才科学者にして、トレセン学園のOGでもあるシュガーライツ博士だった。

 

 彼女は自身の分身とも言えるフルダイブ型メカウマ娘『ST-2(サティ)』の開発と調整に日夜没頭しているのだが……今日の彼女は、どう見ても限界のデッドラインを越えていた。

 

「ライツ博士!? ちょっと、大丈夫ですかその顔……」

 

 俺が思わず声を上げたのも無理はない。彼女の目の下にはくっきりとドス黒いクマが刻み込まれ、普段の瑞々しい肌の艶は失われ、今にもその場で意識を失って倒れそうなほどに生気がなかったのだ。

 

「あはは……大丈夫、ですよぉ……。ただ、連日のサティの微調整にちょっと手間取っちゃってて……。同調率を上げるために、神経パルスの最適化をやってたら……ふぁぁ……いつの間にか、ずっとモニターと睨めっこで……」

 

 虚ろな目で笑いながら、フラフラと車椅子のジョイスティックを操作するライツ博士。

 

 サティを完成させ、再び自らの脚で走るという彼女の「酷く個人的な夢」。その熱意と執念は痛いほどわかっているが、いくらなんでも開発者本人が倒れてしまっては元も子もない。

 

「……あの、博士」

 

 俺は見るに見かねて、彼女の車椅子の横へと歩み寄り、そっと声をかけた。

 

「んぇ……? なんですかぁ……?」

 

「そのあまりの疲れ方……もしよければ、俺が『一回マッサージ』でもしましょうか?」

 

 俺の唐突な提案に、ライツ博士は半分閉じていた目を丸く見開き、「……え?」と間の抜けた声を出した。

 

「マ、マッサージ……ですか? トレーナーさんが、私に?」

 

 戸惑うように瞬きを繰り返す天才科学者に向かって、俺は苦笑いを浮かべながら、自身の手を見つめて答えた。

 

「ああ、いや。……実は最近、少しばかり心得があるものでして」

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