「……マッサージ、ですか? トレーナーさんが、私に?」
戸惑うように瞬きを繰り返す天才科学者に向かって、俺は苦笑いを浮かべながら頷いた。
「ああ、いや。……実は最近、少しばかり心得があるものでして。眼精疲労や、ずっと同じ姿勢でいたことによる首の凝りなら、いくらかマシにしてあげられると思いますよ」
ライツ博士は自身の首にそっと手を当て、それからコクンと小さく頷いた。
「……それじゃあ、お言葉に甘えちゃおうかなぁ。もう本当に、首が回らなくって……」
「では、こちらの端の方へ。他人の目があると落ち着かないでしょうから」
俺は彼女の電動車椅子を、談話室の隅、観葉植物の陰になる静かなスペースへと誘導した。車椅子の背もたれを少しだけ倒してもらい、俺はその背後に立つ。
「失礼します。少し、触れますよ」
俺は両手を擦り合わせて人肌に温め、ライツ博士の細い首筋から肩にかけて、そっと手を置いた。
「……っ」
触れた瞬間。俺の掌に伝わってきたのは、彼女のそのたおやかな外見からは想像もつかないほどの『硬さ』だった。
モニターを凝視し続けることで極限まで酷使された視神経。キーボードや細かな調整機材を操作し続けるために固定された腕と肩。それらが連動し、首の裏側から背中にかけての筋肉が、まるで古い木材のようにカチカチに強張ってしまっている。
(……それにしても)
俺は少しだけ指先に力を込め、筋肉の反発力を確かめた。車椅子生活が長く、一見すると華奢で儚げに見える彼女だが、その骨格の密度と筋肉の根本的な繊維は、紛れもなく『ウマ娘』のそれだった。
現役を退き、脚が動かなくなろうとも、彼女の身体は強靭なアスリートとしてのベースを保っている。一般的な人間の女性に対するようなソフトなマッサージでは、この分厚い疲労の鎧の表面を撫でるだけで終わってしまうだろう。
「……博士。ウマ娘の筋肉ですから、少ししっかり目に、強めの圧をかけますよ。痛かったら言ってくださいね」
「はいぇ……。お任せ、しまぁす……」
間延びした返事を聞き届け、俺は両手の親指を、彼女の首の付け根――後頭骨のすぐ下にある『風池』と『天柱』のツボへと沈み込ませた。
「……んんっ……!」
ライツ博士の口から、微かな呻き声が漏れる。彼女の頭の重みと、車椅子の背もたれの反発を利用し、斜め上に向かってグーッと持続的な強い圧をかけ続ける。分厚い筋肉の層を押し分け、眼精疲労の根本原因である最深部のロックを物理的に解除していく。
「あ、ぁ……それ……すっごく、奥まで……届いて……」
「連日のモニター作業で、視神経の周りが完全に癒着してます。少し痛いですが、ここを流さないと頭の靄は晴れませんからね」
首の強張りを的確に押し流しながら、俺は心の中で静かに息を吐いた。
(……まったく、この学園の連中はどいつもこいつも、本当に疲れすぎだろ……)
どこか他人事のように、そんな呆れた思いが脳裏をよぎる。
皇帝は学園を背負い、貴婦人は最強の矜持を背負い、ステイヤーは周囲の期待を背負い、そしてこの天才科学者は、自らの脚で再び走るという執念とサティの未来を背負っている。
背負うものが大きければ大きいほど、身体は正直に悲鳴を上げる。俺の前に座るウマ娘たちは皆、限界のデッドラインを綱渡りしているような状態ばかりだ。
「……ふぁ……ぁ……なんだか、視界の端でチカチカしてたノイズが……消えていくみたい……」
首の関所が開いたことで血流が改善し始めたのか、ライツ博士の声に少しだけ生気が戻ってきた。
「次は頭皮を解します。頭蓋骨の締め付けを取りますよ」
俺は首から手を離し、両手の掌全体で彼女の頭部を包み込んだ。
今回は、頭頂部にあるウマ娘の『耳』には一切触れないように細心の注意を払った。彼女は担当ウマ娘ではないし、学園のOGでありスタッフだ。そこまで踏み込んだプライベートな部位に触れるのは、いくらなんでも距離感を間違えている。
耳の根元を慎重に避けながら、俺は四指の腹を使って、側頭部から前頭部、そして後頭部にかけての頭皮を、大きく円を描くように動かしていった。
「……あぁ……それ、すごく……いいです……」
頭に張り付いていた筋膜を剥がすように揉み解す。
サティの同調率を上げるための計算、神経パルスの最適化。彼女のその優秀な頭脳は、休むことなく熱を発し続けていたのだろう。頭皮はカチカチに硬く、そして微かに熱を帯びていた。
俺は指の腹にしっかりと力を込め、ウマ娘の強靭な頭皮に負けないように、じっくりと、確実にコリをすり潰していく。
「……んん……ふぅ……」
ライツ博士は車椅子の背もたれに完全に身体を預け、目を閉じて深く息を吐き続けていた。彼女の頭頂部の耳が、心地よさに反応してパタパタと緩やかに揺れている。触れずとも、周囲の血流が良くなったことで、耳の強張りも自然と解けていっているのがわかった。
百会(頭頂部のツボ)をじんわりと圧迫し、最後に首筋から肩先にかけて、リンパを流すように数回優しく撫で下ろす。
「……はい。終わりましたよ、博士」
俺がそっと手を離し、声をかけると。
ライツ博士はゆっくりと目を開け、数回、パチパチと瞬きをした。そして、自分の目の前に広がる談話室の景色を見渡し、信じられないものを見るように小さく息を呑んだ。
「……うわぁ……。嘘……視界が、信じられないくらいクリアです……。頭の中にかかってた分厚いモヤが、一気に晴れたみたい……」
「それは良かったです。首と頭皮がガチガチに固まって、脳に血が回っていなかったんですよ」
彼女は自身の首を左右に振り、肩を軽く回してみる。先程までのギリギリの疲労感は消え失せ、目の下にあったクマこそすぐには消えないものの、その瞳には本来の理知的で瑞々しい光がしっかりと戻っていた。
「すごい……。本当に、すごい技術ですね……。首の奥の重りが、すっかり無くなっちゃいました」
ライツ博士は車椅子を少しだけこちらに向け、深く、心からの感謝を込めて頭を下げた。
「ありがとうございます、トレーナーさん。本当に助かりました。……これでまた、サティの調整に戻れそうです」
「いえいえ。俺には、このぐらいしか出来ませんからね」
俺は苦笑しながら、手を軽く振った。
「でも、あまり無理はしないでくださいよ。いくら頭がスッキリしても、睡眠不足まではマッサージじゃ補えませんから」
「あはは、耳が痛いです。……でも、今日はこの後少しだけ進めたら、ちゃんとベッドで寝ることにしますね。なんだか、すっごく質のいい睡眠がとれそうな気がするので」
ふわりと、年相応の柔らかい笑顔を見せるライツ博士。彼女は、
「それじゃあ、また!」
と手を振りながら、来た時とは比べ物にならないほど軽快なジョイスティックの操作で、談話室を後にしていった。
「……さてと。俺も仕事に戻るか」
俺は完全に冷まりきった缶コーヒーをゴミ箱に捨て、大きく一つ伸びをした。
また一人、限界を迎えていたウマ娘の背中を押し、癒すことができた。そのほんの少しの達成感を胸に、俺は夕暮れの迫る学園の廊下へと歩き出した。