――トレーナー君が、少し居心地悪そうに、いつも私が座っているリクライニングソファへと腰を下ろす。
普段は私が身を委ね、完全に骨抜きにされている特等席。そこに彼が座っているという光景は、なんとも新鮮で、そして私の胸の奥に小さな高揚感を抱かせた。
「……なんだか、落ち着かないな。お前に背中を預ける日が来るなんて」
苦笑いしながら肩を竦める彼を見下ろし、私はフフッと喉の奥で笑った。
「そう硬くならないでくれたまえ。君が私に教えてくれたように、まずは力を抜いて、深い呼吸を……そう、その調子だ」
私は彼の背後に立ち、先ほど彼が私にしてくれたのと全く同じように、両手の掌をしっかりと擦り合わせて熱を作った。トレーナー君はウマ娘の構造と東洋医学を独学で極めたが、私は私で、負けず劣らずの準備をしてきたのだ。
温まった両手を、彼の少し張った首筋から、広い肩にかけてそっと置く。
「……っ」
私の掌の熱に触れ、彼が微かに肩を揺らした。
「安心してくれたまえ、トレーナー君。君には内緒にしていたが……実は最近、人間の骨格や筋肉の構造、そしてツボの位置について、医学書を取り寄せて密かに研究を重ねていたのだよ」
「えっ? 医学書って……お前、俺のマッサージのためにそこまで?」
「当然だろう? 皇帝たるもの、君からの献身を受け取るばかりで胡座をかいているわけにはいかないからね。いざ恩を返す時に、素人の真似事では示しがつかない」
私は得意げに耳を揺らしながら、彼の人間の、ウマ娘と比べればいくぶん華奢で、けれど確かな厚みを持つ肩の筋肉へと、ゆっくりと体重を乗せていった。
「……っ……うおっ……」
私の親指が彼の僧帽筋を捉え、じわっと圧を沈め込んだ瞬間。トレーナー君の口から、低くくぐもった声が漏れた。
「どうかな? 力加減は」
「いや……完璧だ。ツボにドンピシャで入ってる……っていうか、ルドルフ、お前……指の入り方が完全にプロのそれなんだけど……」
「ふふっ。伊達に何度も、君の『魔法の手』をこの身体で味わっているわけではないさ。君の手技の軌道、圧の深さ、リズム……すべて私の身体が記憶している」
私はさらに指先を滑らせ、彼の首の付け根、そして肩甲骨の縁へとアプローチしていく。
だが、触れれば触れるほど、私の内側に驚きが広がっていった。
(……硬いな)
ウマ娘のような、規格外のバネのような強靭さはない。だが、彼の筋肉はひどく冷え、疲労物質が幾重にも重なって、まるで古い鉛のように重く、ガチガチに強張っていたのだ。
首の裏側の筋肉はパンパンに張り詰め、眼精疲労からくる側頭部の張りも、先ほどの私の状態を笑えないレベルで硬化している。
「……トレーナー君。君、いつも私の凝りを『岩盤』だの『鋼のワイヤー』だのと評しているが……君自身の肩や首も、相当なものじゃないか。よくこんな状態で、平然と私のケアをしていたな」
私が少しだけ呆れたように言うと、彼は「あー……」とバツが悪そうに目を逸らした。
「自分の身体のメンテナンスは、どうしても後回しになっちゃうからな。……イタッ、そこ、かなり張ってる……」
「我慢したまえ。今、私が君の分厚い鎧を融解させてやろう」
私は彼に寄り添うように少し身を乗り出し、両手の腹を使って、彼の頭皮全体を包み込むように揉み解し始めた。側頭筋から前頭部、そして後頭下筋群へ。私が彼にされたのと同じように、筋膜をゆっくりと引き剥がし、滞っていた血流を促していく。
「……あぁ……。すごいな、ルドルフ……。頭の芯が、ジンジン解れていく……」
彼の呼吸が次第に深くなり、私に背中を預けるその身体から、少しずつ強張りが抜けていくのがわかった。いつも余裕の笑みを浮かべ、どんな時でも私を完璧にサポートしてくれる彼が、今、私の手の中で無防備に吐息を漏らし、静かに身を委ねている。
私は一定のリズムでマッサージを続けながら、目の前にある彼の『背中』を見つめた。
決して屈強な戦士のような背中ではない。けれど、私にとっては世界中のどんな壁よりも頼もしく、温かい背中。
(……この硬さ、この重い疲労は……すべて、私や学園のウマ娘たちのために背負い込んだものなのだな)
言葉には出さない。けれど、指先から伝わってくる彼の疲労の深さが、何よりも雄弁に物語っていた。
夜遅くまで私のレースデータを分析し、最適なトレーニングメニューを組む日々。
生徒会の膨大な事務作業を裏で手伝ってくれる気遣い。
そして、私や他のウマ娘たちの見えない疲労を抜くために、専門書を読み漁り、自身の睡眠時間を削ってまで『癒し手』としての技術を磨き続けてくれた、その果てしない献身。
これほどまでにガチガチに固まった首と肩は、彼がどれだけ私のことを――シンボリルドルフという一人のウマ娘のことを、四六時中考え、支え続けてくれているかの証明だった。
(……私の事を考えているこの背中が、これほど大きく、尊く感じるとは)
胸の奥が、ジンと熱くなる。
言葉にすれば安っぽくなってしまいそうなほどの、愛おしさと、深い感謝。私はそれを隠すように、ふっと微笑みを浮かべ、彼の側頭部へと少しだけ優しく、慈しむように圧をかけた。
「……んん……。ルドルフ、すごく、気持ちいいよ……。このまま……寝ちゃいそうだ……」
「……ああ。今日ばかりは、君も何も考えず、すべてを手放して眠るといい」
私は彼の耳のすぐ裏側のツボを優しく撫でながら、彼にしか聞こえないような小さな声で囁いた。
「いつも私を支えてくれて、ありがとう。……今度は私が、君を最高の夢の世界へエスコートしよう」
秋の夕暮れが、トレーナールームを優しく包み込む。
いつも与えてもらうばかりだった私が、彼にほんの少しだけお返しをする時間。私の掌の下で、次第に無防備な寝息を立て始める彼の温かな背中越しに、私はいつまでも、静かで満ち足りた幸福感に浸っていた。