それは、隙間時間の「耳周りのマッサージ」が、俺たちの間で密かな、しかし確かな習慣として定着しつつあった頃のことだった。
いつものようにトレーナールームでその日の業務を終え、帰り支度をしていた時のことだ。ルドルフは自身のタブレット端末でスケジュール帳をスクロールしながら、ふと手を止め、こちらを真っ直ぐに見つめてきた。その紫水晶の瞳には、いつになく真剣な、それでいてどこか探るような光が宿っていた。
「……トレーナー君。確認なのだが、今度の週末……日曜日は、君の完全なオフの日だったな?」
「ん? ああ、そうだな。今週は特にレースも出張も入っていないから、丸一日休みになる予定だが。何か急ぎの用でも入ったか?」
「いや、急ぎの用事というわけではない。ただ……その……」
天下の生徒会長にして、威風堂々たる『皇帝』。そんな彼女が、言葉を濁し、わずかに視線を泳がせている。頭頂部の耳も、不安げに微かに揺れていた。彼女は一つ深呼吸をすると、意を決したように口を開いた。
「もし君の予定が許すのであれば……その休日の時間を、少し私にくれないだろうか。いや、率直に言おう。……ゆっくりと、君の施術を受けたいのだ」
「施術って……マッサージのことか? ここでやっているような」
「ああ。普段の短い時間でも十分すぎるほどに疲労は抜けるのだが、どうしても時間が限られている。一度、時間を気にせずに……全身の強張りを、君のその手で解してほしいと、そう思ってしまってね」
予想外の提案に、俺は思わず目を丸くした。
確かに、彼女の疲労を抜くために見よう見まねで始めたマッサージは、思いのほか効果を上げているようだった。だが、それはあくまで日々の業務の合間の、簡易的なリフレッシュに過ぎない。
「……ルドルフ。俺を頼ってくれるのはすごく嬉しいんだが、俺はあくまでただのトレーナーであって、マッサージの素人だぞ?」
「それは分かっている。だが……」
「質のいいマッサージ師なら、世間にはいくらでもいるはずだ。何より、お前はあの『シンボリ家』の令嬢だろう? 実家に頼めば、それこそ国家資格を持ったゴッドハンドと呼ばれるような一流の専属マッサージ師や、最高級のスパを手配することだって容易いんじゃないのか? 流石に、俺みたいな素人が休日の貴重な時間を割いてまでやるようなことじゃ……」
俺が至極真っ当な一般論を口にすると、ルドルフは静かに、しかしきっぱりと首を横に振った。
「違うんだ、トレーナー君。プロの技術が優れていることなど、百も承知だ。これまでにも、一流と呼ばれる者たちの施術を受けたことは何度もある。……だが、君の手は、彼らとは全く違うんだ」
「違う?」
「ああ。……初めてだったんだ。あそこまで心の底から安心し、一切の警戒を解いて、不純物なく心地よいと感じられたのは。君の手から伝わる熱も、力加減も、すべてが私という存在に最適化されているように感じる。……私は、他の誰でもない、君に解してほしいのだ」
そこまで言われてしまっては、これ以上断る言葉など見つかるはずもなかった。
一流のプロよりも、自分の手を求めてくれる。担当ウマ娘からのこれ以上ないほどの絶対的な信頼の証。男として、そして彼女のトレーナーとして、悪い気がするはずがない。いや、むしろ誇らしくさえあった。
「……ははっ。参ったな。皇帝陛下にそこまで言及されてしまっては、断るという選択肢は最初から用意されていないようだ」
「! それでは……」
「ああ。分かった。そこまで俺の手を頼ってくれるなら、謹んでお受けしよう。日曜日、俺の寮の部屋でいいか? さすがに休日、学園の施設を私的利用するわけにもいかないからな」
「もちろんだ! ありがとう、トレーナー君。……楽しみにしているよ」
パァッと花が咲いたように表情を明るくし、耳をピンと立てて喜ぶ彼女を見て、俺は密かに決意を固めた。やるからには、素人なりにできうる限りの最高の癒しを提供してやろう、と。
■
――そして迎えた、日曜日。
俺は午前中からトレーナー寮の自室の清掃を徹底的に行い、シーツ類もすべて洗い立てのものに取り替えていた。普段は寝に帰るだけの殺風景な男の部屋だが、今日ばかりは極上のリラクゼーション空間に仕立て上げなければならない。
部屋の隅には新調したアロマディフューザーを設置し、スイッチを入れる。水蒸気と共に部屋いっぱいに広がり始めたのは、鎮静作用と深いリラックス効果を持つラベンダーを中心とした、穏やかなフローラル系の香りだ。
さらに、キッチンではお湯を沸かし、ノンカフェインのハーブティーの準備を整える。カモミールに少しのペパーミントをブレンドした、胃腸を温めつつ神経を休めるための特製の一杯だ。
約束の時刻ちょうど。控えめな、しかし規則正しいノックの音が部屋のドアを叩いた。
「開いてるぞ、入ってくれ」
ドアノブが回り、部屋に姿を見せたルドルフに、俺は少しだけ目を奪われた。
普段の厳格な制服姿や、機能性を重視した勝負服とは全く違う。今日の彼女は、オフの日らしい、少しゆったりとしたシルエットのオフホワイトのローゲージニットに、肌触りの良さそうな柔らかな素材のワイドパンツという、極めてリラクシーな私服姿だった。髪もいつものようにきっちりとまとめるのではなく、緩く下ろしており、その姿からは『皇帝』としての威圧感は鳴りを潜め、年相応の、どこか無防備な少女の気配が漂っている。
「失礼するよ、トレーナー君。休日に押しかけてしまってすまな……」
部屋に足を踏み入れた途端、ルドルフは言葉を途切らせ、ふんわりと漂う空気を胸いっぱいに吸い込んだ。その紫水晶の瞳が、驚きに丸くなる。
「これは……アロマ、か? それに、このほのかに漂う湯気はハーブティー……」
ルドルフは部屋を見渡し、綺麗に整えられた空間と、ローテーブルの上に準備された数々のアイテムを交互に見つめた。そして、信じられないものを見るような目で俺を振り返り、ふっと口元を緩めた。
「……やる気満々だね?」