癒しのヘッドスパ   作:灯火011

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皇帝とウェットヘッドスパ

 あの日、ルドルフから不器用で、けれど酷く温かい「恩返し」を受けて以来。

 

 俺の中の『癒し手』としての探究心は、満たされるどころか、さらに恐ろしい方向へと完全にブレーキを失って加速していた。

 

 ドライヘッドスパ、オイルを使ったリフレクソロジー、そしてウマ娘特有の急所へのアプローチ。

 

 それらすべてを極めつつある今、俺が次なる高みとして目をつけたのは、至極当然の帰結とも言える『本格的なウェットヘッドスパ』だった。

 

 

 ある日の放課後。

 

 いつものようにコンディショニングのためにトレーナー室を訪れたルドルフは、部屋の奥に鎮座する「異様な物体」を見て、完全に歩みを止めた。

 

「……トレーナー君。私の記憶が確かならば、昨日までこの部屋のあのスペースには、書棚と観葉植物があったはずだが」

 

「ああ。邪魔だったから隣の空き部屋に移動させた」

 

「そういう問題ではない。……なんだ、あれは」

 

 ルドルフが引き攣った顔で指差した先。

 

 そこには、高級美容室やヘッドスパ専門店にしか置いていないような、漆黒の総革張りフルフラット・リクライニングチェアと、それに連結された巨大な陶器製のシャンプーボウル(洗髪台)が、黒光りしながら圧倒的な存在感を放っていた。

 

 蛇口からはシャワーヘッドが伸び、傍らには業務用のスチーマーや、何種類もの専用シャンプー、トリートメントがズラリと並んだワゴンまで完備されている。

 

「本格的なシャンプー台一式だ。水回りの配管工事も、業者が週末に徹夜でやってくれたよ」

 

 俺が胸を張って答えると、ルドルフは頭頂部の耳を信じられないというようにパタパタと動かした。

 

「バカな……。トレセン学園の備品購入規定はそれなりに厳しいはずだぞ。個人のトレーナー室に、これほどの機材を導入する予算がそう簡単に下りるわけが……いや、まさか」

 

 ルドルフはハッとして、自身の口元を手で覆った。俺は遠い目をしながら、小さくため息を吐く。

 

「……理事長がな」

 

「……」

 

「先日、いつものようにマッサージをした後、俺がポロリと『本格的なシャワー設備があれば、毛穴の汚れを落としつつ、温水で芯から筋肉を弛緩させられる究極のヘッドスパができるんですがね』とこぼしたんだ。そうしたら……」

 

『なんと! それは真か!? すぐに稟議書を出せ! 否! 今ここで私が直接承認印を押そう! 我が学園の至宝たち(と私)を極上の癒しへと導くためならば、機材への投資など安いものだ! 即刻手配せよ!!』

 

「……と、まぁ、これが。扇子を叩き割りそうな勢いで、その日のうちに特例中の特例として予算を通してくれたんだ」

 

 俺の説明を聞き終えたルドルフは、深く、それはもう深く重いため息を吐き、呆れたように天を仰いだ。

 

「理事長まで、完全に君の毒牙……いや、魔法の手の虜というわけか。……この学園の首脳陣は、君一人に胃袋ならぬ『頭皮』を完全に掌握されてしまっているな」

 

「人聞きの悪いことを言うな。俺はただ、担当と、ついでに身を粉にして働くウマ娘たちに最高のケアを提供したいだけだ。……というわけで」

 

 俺は満面の笑みを浮かべ、黒革のシャンプーチェアへと手を差し出した。

 

「記念すべき、この『極上ウェットヘッドスパ』の被験者第一号だ。……受けてみてくれるな? 皇帝陛下」

 

「……ふっ。君がそこまでお膳立てをしたというのなら、逃げるわけにはいかないな」

 

 ルドルフは観念したように微笑むと、優雅な足取りでチェアへと近づき、腰を下ろした。

 

 俺が手元のペダルを踏むと、ウィーンという静かなモーター音と共にチェアがゆっくりと倒れ、完全なフラット状態になる。ルドルフの頭部が、陶器製のボウルの縁に設置された柔らかい専用のネッククッションへと、すっぽりと収まった。

 

「……すごいな。首に全く負担がかからない。まるで宙に浮いているようだ」

 

「だろう? 後頭部と首の二点で支える最新型だ。これなら、何時間寝ていても首が痛くならない。……それじゃあ、いくぞ。まずは、お湯の温度と水流だけで、頭皮の緊張を解いていく」

 

 俺はボウルのシャワーヘッドを手に取り、温度を人肌より少し高めの、心地よい温かさに設定した。そして、ルドルフの顔に水飛沫が飛ばないようフェイスガーゼをそっと乗せ、彼女の美しい髪の生え際から、ゆっくりと温水を注ぎ始めた。

 

「……っ……ぁ……」

 

 シャワーヘッドから生み出される、きめ細かく柔らかな微炭酸の温水。

 

 それが頭皮に触れた瞬間、ルドルフの口から甘く、深い吐息が漏れた。ドライヘッドスパでは決して味わえない『熱を持った水の質量』が、髪の隙間を縫って頭皮全体を包み込み、毛穴の奥深くにまでじんわりと温熱効果を届けていく。

 

「温かくて……気持ちいいだろう? 水の音も、副交感神経を刺激するんだ」

 

「あ……あぁ……。耳の奥で響く、この……ちゃぷ、という音……。それに、お湯の熱が……頭蓋骨の裏側にまで染み込んでくるようだ……」

 

 俺はシャワーヘッドを持つ手とは反対の手で、お湯を含んで重くなった彼女の髪を優しく梳きながら、首の付け根(ネープ)の部分に温水を重点的に当てた。太い血管が通る首の後ろを温めることで、全身の血流が一気にブーストされる。

 

「次はシャンプーだ。今日は、カモミールとラベンダーをベースにした、オーガニックのクレンジングジェルを使う。香りも楽しんでくれ」

 

 俺は掌にたっぷりとジェルを出し、お湯と空気を混ぜ合わせるようにして、きめ細かく弾力のある『泡のクッション』を作り出した。その豊かな泡を、ルドルフの頭部全体にたっぷりと乗せる。

 

「失礼するよ。……ここからが、ウェットヘッドスパ、本番だ」

 

 俺は両手の指の腹を、もっちりとした泡越しにルドルフの頭皮へと密着させた。

 

 ドライの時とは違う。摩擦が極限までゼロに近くなり、代わりに泡の弾力が指の圧を均等に分散させる。それにより、筋肉のさらに奥深く、毛穴と筋膜の境界線ギリギリのところまで、指先が滑り込むように入り込んでいくのだ。

 

「……んんっ……! はぁ……っ……」

 

 俺が側頭筋を下から上へと、泡を押し潰すように揉み引き上げると、ガーゼの下からルドルフの艶っぽい声が零れ落ちた。

 

「ドライの時より、指が深く入るのがわかるか?」

 

「わか……る……。頭皮が、泡と一緒に……引き剥がされていくような……。でも、お湯の熱のせいで、痛みが全く……ない……っ」

 

 俺は頭頂部から後頭部にかけて、指の腹でジグザグに弧を描きながら、頭蓋骨にへばりついた老廃物をこそぎ落とすように揉み込んでいく。ボウルの中に響く、シュワシュワという微細な泡の弾ける音。そして、部屋を満たすラベンダーとカモミールの深い芳香。

 

 そして、ウマ娘のヘッドスパにおける最大の急所。

 

 俺はお湯と泡に包まれた、彼女の頭頂部の『耳の根元』へと、両手の中指と薬指を滑り込ませた。

 

「……っ!! ぁ……あぁっ……!」

 

 温水によって極限まで弛緩し、無防備になっていた耳の根元の筋肉。

 

 そこに泡の滑りを利用した、俺の容赦のない『引き上げ』の圧が加わった瞬間。ルドルフの身体がビクンと跳ね、シャンプーチェアの手すりをギュッと握りしめた。

 

「どうだ? お湯の中で耳の根元を解される気分は」

 

「……だ、だめだ……っ! それは……反則、だ……っ、あぁぁ……!」

 

 普段は決して見せない、完全に理性を吹き飛ばされた声。

 

 ドライマッサージの時でさえ強烈な快感をもたらすその部位を、温水で筋肉をユルユルに弛緩させた状態で、泡のクッションを使ってさらに深層まで押し伸ばす。それはもはや、彼女の脳を直接、温かい真綿で包み込んで揉み捏ねているような、圧倒的で暴力的なまでの『癒し』だった。

 

「……ひゃぅ……っ、あ……耳の奥が、ジンジンして……頭が、溶けて流れてしまいそう……っ」

 

「流していいんだ。全部、このボウルの中に溶かして捨てていけ」

 

 俺は彼女の耳の裏側のくぼみ、そして後頭下筋群のツボへと、さらに深く指を沈め、ゆっくりと、執拗に揉み解し続けた。

 

「……あぁっ……はぁ……っ、……んん…………」

 

 数分後。俺がシャワーで丁寧に泡を洗い流し終える頃には、ルドルフは完全に、言葉の通り「骨抜き」になっていた。

 

 手すりを握っていた手からは力が抜け落ち、全身の体重がスライムのように黒革のチェアへと沈み込んでいる。

 

 フェイスガーゼ越しでもわかるほど、彼女の呼吸は深く、規則正しくなり、頭頂部の耳はお湯を含んでしっとりと重く、完全に力を失ってボウルの縁に垂れ下がっていた。

 

「……仕上げに、ホットタオルで首の裏を温めるぞ」

 

 俺はスチーマーで熱々に温められたタオルを取り出し、適温に冷ましてから、ルドルフの首の裏側にそっと差し込んだ。

 

「……っ~~~…………」

 

 熱いタオルが首筋に触れた瞬間、ルドルフの口から今日一番の、魂が抜けていくような長いため息が漏れた。もはや声すら出ない。圧倒的な弛緩と、脳髄を焼き尽くすほどの心地よさの余韻の中で、彼女はただ、されるがままに身を委ねていた。

 

「お疲れ様。……極上ウェットヘッドスパの感想は、どうかな?」

 

 俺がフェイスガーゼをゆっくりと外すと。

 

 そこには、茹でダコのように頬を真っ赤に染め、瞳に薄く涙を浮かべながら、極限まで蕩けきった表情を浮かべる『皇帝』の姿があった。

 

 焦点の合わない目で俺を見つめ、口元はだらしなく緩みきっている。

 

「……あ……ぅ……。……トレーナー、君……」

 

「ん? なんだ?」

 

「……もう、無理だ……。私、一生……この椅子から、立ち上がれる気が……しない……」

 

 呂律の回らない声でそう告げると、ルドルフは再び目を閉じ、ふにゃりと幸せそうな寝顔を浮かべて、完全に意識を手放してしまった。

 

「ははっ。これは大成功だな」

 

 俺は満足げに笑い、彼女の濡れた髪をタオルで優しく包み込みながら、次は誰をこの「魔のシャンプー台」の虜にしてやろうかと、癒し手としての黒い探究心をさらに燃え上がらせていた。




※10万字を超えてきましたので、あと数話で纏めさせていただきます。
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