夜のトレセン学園は、昼間の喧騒が嘘のように深い静寂に包まれる。
ターフを駆ける足音も、活気に満ちた生徒たちの声も途絶え、ただ風の音と、遠くで鳴る虫の音だけが聞こえる時間。
俺はトレーナールームに一人残り、翌週のトレーニングメニューの最終調整を行っていた。デスクの電気スタンドの光だけが手元を照らす中、不意に、廊下から微かな音が近づいてくるのに気がついた。
ウィーン……。
低く、一定のリズムを刻む電動モーターの駆動音。それが俺の部屋の前でピタリと止まり、控えめなノックの音が三度、響いた。
「はい、開いてますよ」
ドアノブがゆっくりと回り、開かれた隙間からひょっこりと顔を出したのは、トレセン学園のOGであり、現在はフルダイブ型メカウマ娘『ST-2(サティ)』の開発責任者を務める天才科学者、シュガーライツ博士だった。
「……こんばんはぁ。遅くに、ごめんなさい……」
車椅子を操作して部屋に入ってきた彼女を見て、俺は思わずペンを置き、立ち上がった。
「ライツ博士。どうしたんですか、こんな時間に。……それに、その顔色」
前回、談話室でドライヘッドスパを施した時も相当な疲労状態だったが、今日の彼女はそれをさらに上回っていた。
目の下にはくっきりとドス黒いクマが張り付き、肌からは一切の血の気が失われ、まるで幽霊のように青白い。車椅子のジョイスティックを握る細い指先すら、微かに震えているように見えた。
「あはは……。ちょっと、サティの脚部連動プログラムの書き換えで、三日ほど徹夜しちゃって……。どうしても、重心移動のコンマ一秒のズレが直らなくて……」
力なく笑いながら、彼女は俺の方へと車椅子を進めた。
「あのぉ……。厚かましいお願いだって分かってるんですけど……。また、トレーナーさんにマッサージ、お願いしたいんですがー……。もう、首から上が自分のものじゃないみたいに重くて、頭痛薬も効かなくなってきちゃって……」
消え入りそうな声で懇願する彼女の姿に、俺は深く頷いた。
「もちろんです。よくうちの部屋に来てくれました。ちょうど先日、新しい機材を入れたばかりなんですよ」
俺は部屋の奥、パーティションで区切ったスペースへと彼女を案内した。そこには、漆黒の総革張りフルフラット・リクライニングチェアと、大型の陶器製シャンプーボウルが鎮座している。
「わぁ……。これ、本格的な美容室の洗髪台ですか……? トレーナールームに、こんな設備が……?」
「ええ。より深い疲労回復、究極のコンディショニングを目指して導入しました。今日はこれで、温水と泡を使った『ウェットヘッドスパ』をやります」
俺の言葉に、ライツ博士は目を丸くした。
「ですが、その前に一つだけ、確認させてください」
俺は彼女の目線に合わせてしゃがみ込み、真剣なトーンで告げた。
「前回は談話室でしたし、簡易的なものだったので遠慮しましたが……今日は、ウマ娘の自律神経の要である『耳』、そしてその周りの筋肉も、しっかりと直接揉み解します。……触れられることに抵抗があるのは承知していますが、今の博士の異常なまでの眼精疲労と脳の疲労を抜くには、耳へのアプローチが絶対に不可欠なんです」
俺の真っ直ぐな説明に、ライツ博士は少しだけ躊躇うように、頭頂部の耳をパタパタと動かした。
ウマ娘にとっての耳は、単なる聴覚器官ではない。感情を司り、周囲の情報を処理する高度なアンテナであり、他人に容易に触れさせるべきではないデリケートな部位だ。ましてや彼女は、俺の担当ウマ娘ではない。
「……耳まで、ですか……。ちょっと、恥ずかしいですけど……」
彼女は自身の耳にそっと触れ、それから、ふっと諦めたような、けれど心からの信頼を込めた柔らかい笑みを浮かべた。
「でも、トレーナーさんのその手なら……安心できます。……どうか、よろしくお願いします。私の頭の奥の重りを、取ってください」
「承知しました。最高の結果をお約束します」
俺は彼女が車椅子からシャンプーチェアへ移乗するのを、ほんの少しだけ手を貸してサポートした。フルフラットに倒れる漆黒のチェア。ライツ博士の頭部が、ボウルの縁に設けられた特殊なネッククッションにすっぽりと収まる。
「……すごい……。首が、どこにも当たってないみたいに楽です……」
「後頭部と首の二点で支える構造なので、首の頸椎に負担がかかりません。まずは、お湯の温度だけで頭皮の緊張を解いていきますから、ゆっくり深呼吸をしてください」
俺は彼女の目元に温かいフェイスガーゼを乗せ、シャワーヘッドを手にした。
温度は三十八度。熱すぎず、ぬるすぎない、副交感神経を最も刺激する絶妙な温度に設定した微炭酸の温水が、彼女の美しい髪の生え際からゆっくりと注がれていく。
「……っ……ぁ……」
お湯が頭皮に触れた瞬間、ガーゼの下からライツ博士の甘く長い吐息が漏れた。微炭酸のシュワシュワとした微細な泡が、毛穴の奥の皮脂汚れを浮かせると同時に、頭皮の毛細血管に刺激を与え、血流を一気に促進していく。
「……温かい……。頭の中の、冷たく固まってた氷が、お湯で溶かされていくみたい……」
「そのまま、何も考えずに力を抜いてください。次はシャンプーの泡で、筋肉の奥まで入ります」
俺はゼラニウムとラベンダーをブレンドした、精神の鎮静効果が極めて高いオーガニックシャンプーを掌でたっぷりと泡立てた。きめ細かく弾力のある泡のクッションを彼女の頭部全体に乗せ、いよいよ両手の指の腹を頭皮へと密着させる。
「失礼します」
まずは、側頭部からだ。
モニターを三日三晩凝視し続けた彼女の側頭筋は、歯の食いしばりも相まって、まるで板金のように硬く薄く張り付いていた。俺は泡の滑りを利用し、指の腹でその硬い筋膜を頭蓋骨からミリ単位で引き剥がすように、下から上へと円を描きながら揉み解していく。
「……んんっ……! はぁ……っ……それ、すごく……痛気持ちいい、です……」
「痛いのは最初だけです。すぐにお湯の熱でほぐれてきますよ」
側頭部から前頭部へ。額の生え際から頭頂部に向かって、指をジグザグに滑らせる。さらに、首の付け根、後頭下筋群だ。眼球の動きと直接連動するこの筋肉は、彼女の眼精疲労の諸悪の根源とも言える場所。俺は両手の中指と薬指を使い、首の骨の両脇にある窪みへ深く指を沈め込み、泡ごと筋肉を押し潰すように持続的な圧をかけた。
「……っっ!! あ、あぁっ……! 奥まで……ジンジンしますぅ……っ」
ライツ博士の身体がビクンと跳ね、チェアの肘掛けを握る手に力が入る。だが、その力みもすぐに消えた。お湯の熱と、的確にツボを捉え続ける俺の指先が、彼女の脳内に蓄積された疲労物質を強制的に押し流していくからだ。
「……はぁ……ぁ……だめ、だ……。頭が……真っ白に、なって……」
「そして、本丸です。耳の周りにいきますよ」
俺は宣言通り、泡に包まれた彼女の頭頂部、その立派なウマ耳の根元へと両手の指を滑り込ませた。耳介を動かす強靭な筋肉群。そこをしっかりと挟み込み、頭頂部に向かってグーッと、強い力で引き上げる。
「……ひゃんっ!? ぁ……あぁぁっ……!!」
温水によって極限まで弛緩していた耳の根元を、容赦なく深層まで引き伸ばした瞬間。ライツ博士の口から、理性を完全に手放した甘い嬌声が弾けた。
「……あ、あぁっ……耳の奥が……痺れて……っ! 頭が、溶けちゃ……ぅ……」
「疲れをそのまま、お湯の中に全部溶かすように、リラックスしてください」
俺は耳の裏側の完骨(かんこつ)のツボを押し込みながら、さらに耳介そのもの(耳の縁の軟骨)を親指と人差し指で挟み、細かく揉みほぐしていった。自律神経が密集する耳本体への、温水と泡を媒介とした直接的な刺激を意識する。
「……んんっ……! はぁ……っ、ぁ……ぁ……」
それは、徹夜明けの極限状態にあった彼女の脳にとって、あまりにも強烈すぎる快感の波状攻撃だったのだろう。数分間、俺が耳周りへの集中アプローチを続けていると。
「……すぅ……はぁ……。……だめ、ぇ……もう、おきてられ……な、い……」
ライツ博士の身体から、最後の一糸の緊張がプツンと切れる音がした。
肘掛けから両手が滑り落ち、身体がスライムのように黒革のシートへと完全に沈み込む。頭頂部の耳は抵抗する力を失い、泡にまみれてぺたりとボウルの縁に倒れ込んだ。
「……スゥ……、……スゥ……」
ガーゼの下から聞こえてきたのは、深く、穏やかな寝息だった。あまりの疲労と、それを上回る圧倒的な心地よさに、彼女はついに意識を手放し、深い深い眠りの底へと落ちていったのだ。
「……お疲れ様です、博士。ゆっくり休んでください」
俺は小さく呟いた。
普通の美容室やリラクゼーションサロンなら、客が寝落ちした時点で手技を軽くし、ただの「洗髪」に移行するかもしれない。
だが、俺は違う。……寝落ちしてくれたからこそ、無意識の防衛本能が消え、さらに深層のロックが外せるのだ。
俺は一切手を抜くことなく、いや、むしろ彼女が眠りに落ちたここからが本番だと言わんばかりに、さらに深く、的確に指を沈めていった。意識がない状態でのマッサージは、筋肉が完全に脱力しているため、驚くほど深くまでアプローチできる。
俺は彼女の耳の穴の手前、神門(しんもん)のツボを親指でじっくりと圧迫し、副交感神経を限界まで優位に立たせ、睡眠の質を底上げしていく。
ボウルの中に響く、シュワシュワという泡の音と、ちゃぷちゃぷという温水の微かな水音。俺はただひたすらに、目の前で眠る一人の天才科学者の脳から、疲労という名の毒を抜き去ることだけに没頭していた。
■
――ガチャリ。
ふと、トレーナールームのドアが静かに開かれた。
「……トレーナー君。スケジュールの件で少し……おや」
入ってきたのは、シンボリルドルフだった。彼女は部屋の奥、シャンプー台の周りで繰り広げられている光景を見て、ピタリと足を止めた。
漆黒のチェアの上で、ガーゼを顔に乗せ、泡に包まれて完全に意識を手放しているライツ博士。そして、額に汗を滲ませながら、真剣な眼差しでその頭部を揉み解し続けている俺。
「……すまない、取り込み中だったか」
ルドルフは声をひそめ、足音を忍ばせて俺のそばへと近づいてきた。
「ああ、気にしないでくれ。……彼女、三日徹夜だったらしくてね。限界を超えてたみたいで、数分で寝落ちしてしまったよ」
俺は指の動きを止めることなく、小声で答えた。
ルドルフは、スースーと無防備な寝息を立てるライツ博士の顔と、俺の動く手を交互に見つめた。そして、少しだけ不思議そうな、何かを探るような目で口を開いた。
「……トレーナー君。彼女が寝落ちして、もうしらばく時間が経っているのだろう? なぜ、そこまで真剣に、深くマッサージを続けているんだい?」
「なぜって……疲労の芯を抜くためだ。寝ている時の方が筋肉が弛緩して、より深くまでアプローチできるからな」
「そうではない」
ルドルフは首を横に振った。
「彼女は、君の担当ウマ娘ではない。それどころか、現役の生徒ですらなく、学園のOGでありスタッフだ。……もちろん、君の善意は分かっているつもりだが。ただの厚意にしては、君のその献身ぶりは、少し常軌を逸しているように見えてね。……君は一体、何のためにそこまで彼女に。―――いや、私たちに尽くすんだい?」
ルドルフの静かな問いかけ。俺は少しだけ手を止め、ボウルの中の泡をシャワーで丁寧に洗い流し始めた。
「……何のため、か」
お湯の流れる音を聞きながら、俺はゆっくりと口を開いた。
「特別な理由なんてないさ。……ただ、俺にとっては、目の前で限界まで疲れ切っているウマ娘がいる。それだけで、俺の手を動かすには十分すぎる理由なんだよ」
「……」
「ルドルフ、お前も知っているだろう。ウマ娘という存在が、どれほど強靭で、同時にどれほど脆く、繊細な生き物か。ターフを走る者も、学園を背負う者も、そして彼女のように、走れなくなってもなお、別の形で夢を追い続けている者も。……皆、見えない重荷を背負って、ギリギリのところで踏ん張っている」
俺は洗い流し終えたライツ博士の首の裏側に、スチーマーから取り出した熱々のホットタオルをそっと差し込んだ。
「……んんぅ……」
熱の心地よさに、眠りながらもライツ博士が幸せそうに吐息を漏らす。
「俺はトレーナーだ。走る手助けをするのが本業だが……彼女たちが立ち止まりそうになった時、背負い込んだ重圧に押し潰されそうになった時。その鎧を剥がして、少しでも楽に呼吸ができるようにしてやるのも、俺の役目だと思ってる」
静かな部屋に、俺の独白のような言葉が溶けていく。ホットタオルで頭部全体を包み込み、ゆっくりと水分を拭き取ってやる。
「……担当だとか、OGだとか、そんな垣根は関係ない。俺はただ、ウマ娘という存在が……彼女たちのひたむきな姿が、どうしようもなく好きで、尊敬しているんだ」
俺の言葉を聞き終えたルドルフは、しばらく黙ったまま、俺の横顔をじっと見つめていた。その瞳の奥に、どのような感情が渦巻いているのか、俺にはわからない。
だが、やがて彼女はふっと、どこまでも優しく、そして誇り高い笑みを浮かべた。
「……君は本当に、生粋のウマ娘トレーナーなのだな」
それは、呆れでも、嫉妬でもない。純粋な感嘆と、俺という人間に対する絶対的な肯定の響きだった。
「ああ、そうだ。俺は誰よりもウマ娘を愛し、ウマ娘に尽くす男だ、なんてな。……だからお前も、遠慮せずにいつでも俺に寄りかかってこい」
俺がニヤリと笑って返すと、ルドルフは、
「……ふふっ。言われずとも、そのつもりだよ」
と小声で返し、俺の背中を軽くポンと叩いた。
「では、私は先に戻る。スケジュールの件は、また後日にしよう。……彼女が起きたら、よろしく伝えてくれ」
「ああ、おやすみ。ルドルフ」
静かにドアが閉まり、トレーナールームには再び、俺とライツ博士の二人だけが残された。
俺はドライヤーを手に取り、温風で彼女の髪を丁寧に乾かしていく。寝顔は先ほどの幽霊のような青白さが消え、血色の良い、健康的な桜色を取り戻していた。
どれほど重い疲労も、重圧も。俺のこの手がある限り、必ず癒してみせる。
心地よいアロマの香りとドライヤーの温風の中で、俺は己の癒し手としての使命を、より一層強く胸に刻み込んでいた。
■
――そして、数日後。初夏の陽射しが眩しい、ある日の放課後。
俺のトレーナールームには、窓から吹き込む爽やかな風と共に、丁寧にドリップされた深煎りコーヒーの芳醇な香りが漂っていた。
「……ライツ博士から連絡があったよ、トレーナー君。サティの脚部連動プログラム、あの後すぐに最適解を導き出せたそうだ。重心移動のタイムラグも完全に解消され、開発は飛躍的に進んだと、たいそう喜んでいたよ」
ソファに優雅に腰掛け、ティーカップを傾けながら、シンボリルドルフが機嫌良さそうに微笑んだ。その紫水晶の瞳には、自身が手塩にかけているプロジェクトの進展に対する安堵と、目の前にいる俺への誇らしげな光が宿っている。
「それは良かった。徹夜明けの極限状態だったからな。一度、脳をリセットできたのが功を奏したんだろう」
「謙遜するな。トレーナー君の『魔法』のおかげに他ならないさ。博士の脳内から疲労という名のノイズを完全に拭い去った、その手のおかげだよ」
「何を言ってるんだ、ルドルフ。俺はただ、彼女の頭と耳をマッサージしただけだ。魔法でもなんでもない、ただの物理的なアプローチだよ」
俺が苦笑しながらコーヒーをすすると、ルドルフ、ふふっと肩を揺らした。
「当の本人が無自覚なのが一番恐ろしいところだがね。……君の手は、我々ウマ娘の奥底に眠る本来のポテンシャルを、いとも容易く引き出してしまう。たづなさんや理事長、それに他の生徒たちの最近の絶好調ぶりを見れば、それは火を見るより明らかだ」
そんな他愛もない、けれど互いへの絶対的な信頼に裏打ちされた穏やかな会話を交わしていた、その時だった。
――バーンッ!
突然、ノックの音もなくトレーナールームの扉が勢いよく開け放たれた。
「し、失礼しまぁぁぁすっ!!」
部屋に飛び込んできたのは、息を荒らげ、目をらんらんと輝かせたアグネスデジタルだった。彼女は両手で愛用のデジタルカメラを大事そうに胸に抱え、俺と、そして奥に鎮座する漆黒のシャンプー台を交互に見つめて、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
「アグネスデジタル? 急に飛び込んできて、どうしたんだ?」
「と、トレーナーさんっ! 私、すべて知ってしまいました! マックイーンさんやゴールドシップさん、それにライスちゃん……! 推し達が最近限界突破のコンディションを叩き出している理由! それは、この部屋の奥にある『魔の泉』と、トレーナーさんの神の指によるものだということをっ!」
デジタルは顔を真っ赤に上気させ、ズイッと俺の前に身を乗り出した。
「限界ウマ娘オタクとして、推し達が見た景色をこの身で追体験しないわけにはいきませんっ! どうか、私にもその……尊みの極地たるマッサージを、施してくださいっ!」
情熱的すぎる、そして相変わらずテンションのおかしい直訴に、俺が面食らって目を白黒させていると。
「……やれやれ。廊下を走るなとあれほど言ったのに、本当に君のその探求心には呆れるばかりだよ」
開け放たれたドアの向こうから、白衣の裾を揺らしながら、もう一人のウマ娘が悠然とした足取りで姿を現した。片手に怪しげな色の液体が入ったフラスコを持ち、どこか気怠げな、しかしその瞳の奥には鋭い知的好奇心を光らせたアグネスタキオンだ。
「アグネスタキオンまで? どうしたんだ、今日は珍しい組み合わせだな」
「なに、デジタル君がどうしてもと騒ぐものでねぇ。付き添いさ」
タキオンはフラスコを白衣のポケットにしまい込み、俺の顔を、まるで未知の実験動物でも観察するかのようにジロジロと見つめた。
「私としても少しばかり、気になってはいたのだよ。私の開発した特製サプリメントや疲労回復薬を用いずとも、ただ人間の手で『触れる』という極めて原始的な物理的アプローチによって、ウマ娘の深層にあるポテンシャルを強制的に引き出す魔法……。そのメカニズムを、この目で確かめておきたくてねぇ?」
興味津々といった様子のタキオンの言葉に、デジタルも
「そうですそうです! タキオンさんも絶対に体験すべきです!」
と力強く頷いている。……どうやら、俺がウマ娘たちの重圧を密かに癒す裏方として、のんびりと平穏な日々を送れるようになるのは、まだまだ先の話になりそうだ。
俺は小さく息を吐き、そして、ソファに座るルドルフへと視線を向けた。
すると、ルドルフもまた、呆れたような、しかしどこか楽しげな瞳で俺を見つめ返してくる。俺はふっと苦笑を浮かべ、二人のウマ娘に向かって真っ直ぐに向き直った。
「……判った。そこまで言うなら、俺の『魔法』を体験してもらうとしよう。じゃあ、まずはデジタル。そっちの椅子に座ってくれ」
「は、はいぃぃっ! よ、よろしくお願いしますぅ……っ!」
歓喜に震えながらシャンプー台へと向かうデジタルを見送り、俺は背後のルドルフに声をかけた。
「ルドルフ、この後、少し時間は大丈夫か?」
「ふふっ。もちろん大丈夫だ。手伝うよ、トレーナー君」
ルドルフは優雅に立ち上がると、俺の隣に並び立ち、タオルと極上のアロマオイルが入った遮光瓶を手に取った。
「アグネスタキオン、君はそこで私のトレーナーの手技を、特等席でじっくりと観察するといい。……もっとも、君もすぐに、あの椅子に座りたくてたまらなくなるだろうがね」
「ほう……? 生徒会長自ら、そこまで豪語するとは。これはますます、興味が尽きないねぇ」
タキオンが不敵な笑みを浮かべ、腕を組んで俺たちの様子を見つめる。窓の外では、初夏の風がトレセン学園の木々の緑を鮮やかに揺らしていた。
■
ターフを駆ける彼女たちのひたむきな姿がある限り、俺のこの両手が休まることはないだろう。
だが、それは俺にとって決して苦痛などではない。俺のこの手が、傷つき疲れ果てたウマ娘たちを再び立ち上がらせる『きっかけ』になれるのなら、裏方としてこれほど本望なことはないからだ。
――彼女たちを、レースいう大空へと送り出す。
それこそが、トレーナーという職業を選んだ、俺の最高の日常なのだから。
「さて、アグネスデジタル。まずは目を閉じて、深呼吸からだ――」
心地よいアロマの香りと、お湯の弾ける柔らかな音に包まれたトレーナールームで、俺とルドルフの、忙しくも愛おしい日々は、これからもずっと続いていく。
彼らの癒しの時間を観るのは、ここまでとさせていただきます。
ご覧いただきまして、ありがとうございました。
宜しければ、ご感想、ご評価、よろしくお願いします。