窓の外の景色がすっかり濃紺の夜空へとすり替わり、部屋を満たしていたラベンダーの香りが、穏やかな残り香へと変わった頃。
ソファにふんわりとかけられたブランケットの下から、微かな衣擦れの音が響いた。
部屋の隅のフロアランプだけを点灯させた薄暗い室内で、俺は読んでいた資料から顔を上げる。
「ん……、ぁ……」
小さく、まだ夢の縁を彷徨っているような声。続いて、ブランケットの端から覗いていた二つの耳が、ピク、ピクと微かに動き、やがて本来のピンと空を突くような形へと立ち上がった。
ルドルフが、ゆっくりと目を開ける。瞬きを繰り返し、琥珀色の瞳が焦点を結ぶまで、数秒。彼女は自分がどこにいるのかを理解すると、ガバッと勢いよく身を起こした。
「っ……!? 私は、いつの間に……!」
「おはよう、ルドルフ。いや、時間的にはこんばんは、かな。随分と気持ちよさそうに寝ていたから、そのままにしておいたんだ」
俺が立ち上がりながら声をかけると、ルドルフはハッとして自分の首元や肩周りに手をやった。
「あ……」
そこには、先程までの強張った筋肉の鎧は存在しない。彼女は信じられないといった様子で、首を左右に振り、肩を大きく回してみる。コキリ、とも鳴らない、滑らかで抵抗のない関節の動き。
「どうだ? 揉み返しが来たり、痛むところはないか?」
「いや……ない。全くないよ、トレーナー君。それどころか……」
ルドルフは両手で自身のデコルテから肩にかけてを包み込むように触れ、大きく目を見開いた。
「すごい……。鉛のようにのしかかっていた重さが、すっかり消え去っている。頭蓋骨の締め付けも、目の奥の鈍痛も、嘘のように晴れやかだ……。まるで、自分の身体ではないみたいに軽い」
「それは良かった。時間をかけて、準備からこだわってやった甲斐があったよ」
俺はホッと胸を撫で下ろし、キッチンで常温のミネラルウォーターをグラスに注いで手渡した。
「マッサージの後は血流が良くなっているから、水分をしっかり摂って老廃物を流し切るんだ。そうすれば、明日の朝はもっとスッキリ目が覚めるはずだぞ」
「あ、ああ。ありがとう……」
グラスを受け取り、コク、コクと水を飲むルドルフ。その横顔は、数時間前までトレーナールームで見せていた疲労困憊のそれとは別人のように瑞々しく、年相応の健やかな生気に満ち溢れていた。血色が良くなった頬と、リラックスして柔らかく弧を描く耳のラインが、施術の成功を何よりも雄弁に物語っている。
■
グラスをテーブルに置いたルドルフは、ふと、隣に並べられたままになっている遮光瓶――マッサージオイルの小瓶に視線を落とした。そして、何かを思いついたように、少しだけ上目遣いで俺の方を見てきた。
「……トレーナー君」
「ん?」
「この施術……本当に、最高だった。身も心も、これほどまでに解き放たれたのはいつ以来か思い出せないくらいだ。……それで、その」
言い淀むルドルフ。彼女は指先で自身の耳の根元を無意識にいじりながら、少しだけ頬を朱に染めて、甘えるようなトーンで言葉を紡いだ。
「これほど素晴らしいものなら、もっと頻繁に……いや、もっと定期的にやってほしいなぁ、と。そう思ってしまうのだが……ダメだろうか?」
『皇帝』らしからぬ、素直なおねだり。
その可愛らしいギャップに、俺は思わず吹き出しそうになった。だが、そこはグッと堪えて、わざとらしく腕を組み、難しそうな顔を作ってみせた。
「うーん……そうだな。……まぁ、月に一回くらいなら、考えてやらなくもないが」
「月に一回!? なぜだ。週に一回、いや、せめて二週間に一回では……!」
「あのな、ルドルフ」
俺は苦笑しながら、ローテーブルの上の遮光瓶を軽く指で弾いた。
「俺の腕前や労力はいくらでもタダで提供してやるが、この精油やキャリアオイルは、そういうわけにはいかないんだ。君の肌に直接使うものだから、オーガニックのかなり質の良いものを揃えたんだが……これが結構、高いんだよ。大人の財布事情というやつだ」
「あっ……」
俺の現実的すぎる回答に、ルドルフはハッとして口元を押さえた。
「そ、そうか……! すまない、私はそこまで考えが及んでいなかった。君に無用な金銭的負担を……! ならば、オイル代は私が……いや、シンボリ家の経費として……!」
「ストップ、ストップ。それは却下だ」
俺は慌てて彼女の言葉を遮った。
「これはあくまで、俺から担当ウマ娘への、日頃の労いとコンディショニングの一環だ。お前にお金を出させるくらいなら、最初からこんなこと引き受けてない。それに、あまり頻繁にやりすぎても、身体が刺激に慣れてしまって効果が薄れるからな。月に一回の『特別なご褒美』くらいが、ちょうどいいんだよ」
俺がそう諭すと、ルドルフは少しだけ名残惜しそうに耳を伏せたが、やがて納得したように小さく息をつき、ふわりと微笑んだ。
「……君の言う通りだな。過ぎたるは猶及ばざるが如し、か。それに、月に一回の『特別なご褒美』があると思えば、日々の激務も苦ではなくなるというものだ」
「そういうこと。だから、明日からはまた、心身ともに万全な『皇帝』として、存分に学園を引っ張っていってくれ」
「ああ、任せておきたまえ。君の施してくれたこの魔法が解けないうちに、溜まった仕事を片付けてしまおう」
立ち上がったルドルフは、すっかり普段の威風堂々とした輝きを取り戻していた。しかし、その瞳の奥には、俺と彼女の間にだけ共有された、確かな親愛と信頼の光が揺蕩っている。
「今日は本当にありがとう、トレーナー君。……来月の予約も、今から入れておいていいかい?」
「ああ。いつでも空けておくよ」
冗談めかして笑い合う。
ラベンダーの残り香が漂う休日の夜。俺たちは、また一つ、誰にも秘密の、ささやかで大切な約束を交わしたのだった。