あの休日のヘッドスパから数週間。月に一度の『特別なご褒美』の効果は、俺が想像していた以上に絶大だった。
ルドルフのパフォーマンスはターフの上でも、そして山積みになる生徒会の書類仕事においても、これまでにないほどのキレを見せていた。顔色は常に明るく、まさに「肌艶が良い」という言葉がぴったりなほど、内側から溢れるような生命力に満ちている。
トレーナーとしては担当ウマ娘の絶好調な姿を見るのは喜ばしい限りなのだが――その絶好調さが、思わぬ波紋を呼ぶことになろうとは夢にも思っていなかった。
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ある日の放課後。
いつものようにトレーナールームで明日のメニューを組んでいると、ガチャリとドアが開き、ルドルフが入ってきた。だが、その足取りはいつもの威風堂々としたものではなく、どこかコソコソとした、歯切れの悪いものだった。
頭頂部の立派な耳も、心なしか申し訳なさそうに後ろへ倒れている。
「……どうした、ルドルフ。生徒会の予算案でもひっくり返されたか?」
俺がパソコンのモニターから視線を外して尋ねると、ルドルフはソファーに力なく腰を下ろし、深く、それはもう深くため息を吐いた。
「……すまない、トレーナー君。取り返しのつかない失言をしてしまったかもしれない」
「失言? お前が? 珍しいな。誰に何を言ったんだ?」
「エアグルーヴに、だ」
生徒会副会長であり、ルドルフの最も信頼する右腕とも言えるウマ娘の名前が出た。ルドルフはバツの悪そうに視線を泳がせながら、事の顛末を語り始めた。
「今日、生徒会室で作業をしていた時のことだ。最近の私の決裁速度があまりにも異常だったらしくてね。エアグルーヴから『会長。最近、随分と肌艶がよろしいようですが。それにその集中力……何か特別なスキンケアか、コンディショニングでも取り入れたのですか?』と尋ねられたのだ」
「まあ、傍から見てもわかるくらい調子がいいからな、最近のお前は。で、なんて答えたんだ?」
「それが……あまりにも気分良く仕事が進んでいたものだから、つい気が緩んでいてね。『ふふ、実はな。担当トレーナーに極上のヘッドスパをしてもらっていてね。あれは魔法だよ』と……少しばかり自慢げに、口を滑らせてしまったのだ」
「おいバカやめろ」
俺は思わず頭を抱えた。
「あれは俺とお前の間の、秘密のコンディショニングだって言っただろうが」
「わ、わかっている! 重々承知していたのだが、本当に口が滑ったとしか……!」
慌てて弁解するルドルフに、俺はもう一度長いため息をついた。
「……はぁ。それで? その見事な『女帝』殿は、俺が担当ウマ娘を甘やかしていると激怒したか?」
「いや、それが逆でね」
ルドルフは真剣な表情に戻り、身を乗り出してきた。
「あのエアグルーヴが、だぞ? 私の言葉を聞いた途端、ピタッとペンの動きを止めて、『へ、ヘッドスパ……ですか。それは、その……眼精疲労や、慢性的な首の痛みにも……効くのでしょうか……?』と、信じられないくらい食い気味に聞いてきたのだ。無意識のうちに、自分のガチガチに凝り固まった首筋を抑えながらね」
……なるほど。
想像に難くない。エアグルーヴといえば、ルドルフに負けず劣らずの完璧主義者であり、生徒会の実務の多くをその細腕で担っている苦労人だ。彼女の抱えている疲労やストレスも、おそらく常人の比ではないだろう。
「彼女は私の右腕だ。私がこうして万全の状態でいられるのも、彼女が完璧に実務をサポートしてくれているからこそ。……だが、その彼女が疲労の限界を迎えているのに、私だけが君の手で癒されているなど……生徒会長として、いや、共に歩む友として、どうしても見過ごせないのだ」
ルドルフはそこで一度言葉を切り、真っ直ぐに俺の目を見つめてきた。その琥珀色の瞳には、確かな懇願の色が浮かんでいる。
「頼む、トレーナー君。エアグルーヴにも……君のその施術を受けさせてやってはくれないだろうか」
「ちょっと待て」
俺は即座に両手でバツ印を作った。
「気持ちは痛いほどよくわかる。だがな、ルドルフ。よく考えてみろ。彼女は『他のトレーナーの担当ウマ娘』だぞ。しかも、うら若き年頃の女の子だ。そんな他所の担当の子に、俺が気安く触ってマッサージをするなんて、コンプライアンス的にどう考えてもアウトだ。セクハラとか越権行為とか、そういう問題になりかねない」
「そこをなんとか曲げて頼む!」
ルドルフは俺のデスクに両手をつき、頭を下げんばかりの勢いで身を乗り出した。
「もちろん、無理にとは言わない! 彼女の担当トレーナーには、私からしっかりと事情を説明し、コンディショニングの一環としての許可を確実にもぎ取ってくる! 場所も密室にならないよう配慮するし、決して君に迷惑や疑いがかかるような真似はさせない!」
「いや、そういう物理的な問題というより、俺の精神的なハードルがだな……」
「君の腕でなんとか……! あの疲れ切った右腕の背中を、救ってやってはくれないか……!」
耳をぺたりと伏せ、上目遣いで必死に訴えかけてくる皇帝陛下。
公私共に隙のない彼女が、他人のためにここまで必死に頭を下げる姿など、そうそう見られるものではない。彼女がどれほどエアグルーヴという後輩を大切に思い、案じているかが痛いほど伝わってくる。
「……はぁ」
俺は本日三度目の、最も深いため息を天井に向かって吐き出した。担当ウマ娘にここまで頼み込まれて、無下に断れるほど、俺は冷酷な人間ではないらしい。
「……わかったよ。俺の負けだ」
「! トレーナー君、それでは……!」
「ただし、条件がある」
俺は人差し指を立てて、パァッと表情を明るくしたルドルフを制した。
「あくまで、ヘッドスパと肩周りの揉みほぐしだけだ。この前お前にやったような、オイルマッサージなんて絶対にやらないからな。それと、相手が不快に思ったら即座に中止する。あくまで『お試し』だ。……これでいいか?」
「ああ! 十分だ! ありがとう、トレーナー君。君ならそう言ってくれると信じていたよ!」
ピンと耳を立て、心底ホッとしたような笑顔を見せるルドルフ。
こうして俺は、生徒会の誇る『女帝』の強張った筋肉と対峙するという、とんでもないミッションを引き受けることになってしまったのだった。