数日後。学園の休日を利用して、俺とルドルフ、そして数人のウマ娘たちは生徒会室の隣にある広めの応接室に集まっていた。
「……本当に、ただのヘッドスパなのだろうな?」
「本当だ、エアグルーヴ。私のトレーナーを信じてくれ。そうだな? トレーナー君」
部屋の中央に置かれた一人がけの革張りソファに、ガチガチに背筋を伸ばして座っているのは、生徒会副会長であるエアグルーヴだ。その顔には明らかな緊張と、ほんの少しの疑心暗鬼が浮かんでいる。頭頂部の耳は警戒を示すようにピンと張り詰め、微かな物音にもビクッと反応していた。
「ああ。ルドルフの言う通り、変なことは一切しない。お前の担当トレーナーも立ち会っているんだ、安心しろ」
俺は苦笑しながら、ソファから少し離れた壁際に立つ人物――エアグルーヴの担当トレーナーへと視線を向けた。
「いやぁ、すみませんね急に。うちのエアグルーヴが、ルドルフ会長から『魔法のようなヘッドスパがある』と聞いてから、どうにも気になって仕事に手がつかない様子でして。……正直、私も『それほどまでにすごいのか?』と興味がありまして、見学させてもらいに来ました」
彼は人懐っこい笑みを浮かべながら、手帳片手に興味津々の様子だ。さらに、部屋の隅の窓辺には、もう一人の予期せぬ見学者がいた。
「ふん。会長があそこまで手放しで褒めちぎる『魔法』とやらが、一体どんなものか……単なる暇つぶしだ。気にせず始めろ」
壁に背を預け、腕を組んでこちらを値踏みするように見つめているのは、ナリタブライアン。彼女もまた、ルドルフの異常なまでの快調ぶりと、それを生み出したという俺の『施術』に、生来の闘争心とは別種の好奇心を刺激されたらしい。
「まあ、会長があそこまで強く勧めるのなら……私も、信じよう。最近は確かに、首から肩にかけての重さが尋常ではなくてな。……頼む」
エアグルーヴは一つ深呼吸をすると、観念したように目を閉じ、少しだけ首を傾けて俺に身を委ねる姿勢をとった。
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「よし、じゃあ失礼するよ。痛かったらすぐに言ってくれ」
俺は彼女の背後に回り、まずは両手を擦り合わせて温めてから、その見事な艶を持つ黒髪の奥、耳の根元へとそっと指を滑らせた。
「……っ」
触れた瞬間、エアグルーヴの肩がビクッと大きく跳ねた。
ウマ娘の耳は極めて敏感だ。特に彼女のように常に周囲に気を配り、完璧を求める性格であれば、その耳周りの筋肉は常に極度の緊張状態にある。
俺は指の腹全体を使い、皮膚をこするのではなく、その下にある筋肉の束を優しく、しかし確かな圧で捉えた。
「うーん……これは。なぁ、エアグルーヴ、かなり力が張ってる。少しずつ解していくから、息をゆっくり吐いてくれ」
指先から伝わってくるのは、まるで硬く結ばれたロープのような筋繊維の塊だった。
「あ……ああ……」
カチカチに強張っていた側頭部から耳の付け根にかけて、円を描くようにじっくりと揉み込んでいく。ルドルフの時にも感じたが、やはり生徒会の中核を担う彼女の疲労も相当なものだ。
数分ほど耳周りと頭皮を揉みほぐしていると、あれほど張り詰めていたエアグルーヴの耳が、徐々に力を失い、へにゃりと横に倒れ始めた。
「……ふぅ……む……」
彼女の口から、無意識の、しかし確かな心地よさを伴った吐息が漏れる。
「頭の緊張は少し取れたな。次は、その重いと言っていた首筋にいくぞ」
俺は両手の親指を、彼女の首の付け根、後頭骨の下にある『風池(ふうち)』のツボへと滑らせた。頭の重さを支え続けることで最も疲労が溜まる場所だ。そこに親指の腹を当て、彼女の頭の重みを利用するように、下から上に向かってぐーっと、深く、静かに圧をかけていく。
「……あ……」
その瞬間だった。エアグルーヴの体から、文字通り『すべての力』が抜け落ちた。
「……すぅ……、……すぅ……」
「え?」
エアグルーヴの担当トレーナーが、間抜けな声を上げた。俺の手の中で、女帝の頭がコクンと前に傾き、そのまま規則正しい寝息が聞こえ始めたのだ。時間にして、首に触れてからわずか数十秒の出来事である。
「う、嘘でしょ……!? あの、気を張ってばかりで昼寝すら滅多にしないエアグルーヴが、秒殺……!?」
担当トレーナーが信じられないものを見る目で、完全に爆睡モードに入った愛バの無防備な寝顔を見つめている。
「どうやら、よっぽど限界が近かったみたいだな。……このまま少し寝かせておいてやろう」
俺は彼女の頭をそっとクッションに預け、首周りにタオルをかけてやった。と、その光景を黙って見ていた窓辺の影が、ゆっくりと動いた。
「……おい。試しに、私にもやってみろ」
声の主はナリタブライアンだった。彼女は面白そうな、それでいて「自分はあんな風に簡単に意識を手放したりはしない」という絶対の自信に満ちた笑みを浮かべて、空いているパイプ椅子を俺の前に引き寄せ、どっかりと腰を下ろした。
「ナリタブライアン? 君までもか? まあ、構わないが……耳とか触るけど、大丈夫か?」
「……エアグルーヴがだらしなく寝落ちするほどのものだ。私の強靭な肉体にどこまで通用するか、試してやろうと思っただけだ。遠慮はいらん、全力で来い」
まるでレース前に宣戦布告をするような鋭い眼光。俺は苦笑しながら、「はいはい」と彼女の後ろに立った。
■
さっそく、ブライアンの耳に触れる。
「おお、これはまた……」
エアグルーヴやルドルフのそれとはまた違う、少し野性味を感じさせる、厚みと力強さを持った耳だった。しかし、ターフの風を切り裂き、背後に迫るライバルの足音を極限の集中力で聞き分ける彼女の耳の根元もまた、ねちっこいグミのような、凄まじい疲労を蓄積していた。
「……ん」
触れられた瞬間、ブライアンは小さく鼻を鳴らしたが、抵抗する様子はない。俺は彼女の耳の付け根の筋肉を、親指と人差し指で挟み込むようにして、じっくりと揉み解し始めた。
「……悪くない」
余裕を見せるブライアン。彼女の首や肩の筋肉はアスリートとして極限まで鍛え上げられており、並の圧では表面を撫でるだけで終わってしまう。俺は少しアプローチを変えることにした。
「少し、変わった動きをするぞ」
「好きにしろ」
俺は両手の手のひらの付け根(手根部)を、ブライアンの左右の耳のすぐ下、顎の関節のあたりにピタリと密着させた。そして、そのまま耳周りの皮膚と筋肉全体を包み込むようにホールドし、頭頂部に向かって『ぐーっ』と、ゆっくり、そして力強く持ち上げるように押し上げた。
これは、頭部の筋膜全体を上方向へ引き上げ、頭蓋骨の締め付けを一気に解放する手技である。
「……っ!?」
ブライアンの体が、ビクンと大きく震えた。
「ぐ……っ、持ち上げ……、あ……」
常に重力に逆らい、歯を食いしばって前へ前へと突き進む彼女の筋肉が、強制的に弛緩させられる感覚。張り詰めていた糸が、プツリと切れる音さえ聞こえた気がした。
「……ひゃぅ……ぁ……、あぅ……」
俺の耳を疑うような、あの孤高の怪物・ナリタブライアンからは絶対に発せられるはずのない、情けなく、そして完全に骨抜きにされたような甘い声が部屋に響いた。
彼女は抵抗を完全に放棄し、白目を剥きかけるほどに瞳をトロンとさせながら、だらしなく口を開けている。ピンと立っていた耳は、完全に力を失って後頭部にへばりつくように垂れ下がっていた。
「そのまま、少しキープするぞ」
「……あぁ……んん……もう、好きに……してくれ……」
完全に昇天しかけている。もはや闘争心の欠片もない、ただ純粋な快感に身を委ねる一匹の無防備な獣がそこにいた。
「いや、これ……」
その一部始終を見ていたエアグルーヴの担当トレーナーが、引き攣った笑いを浮かべながら拍手をした。
「才能とか、そういうレベルじゃないですよ……。ウマ娘の急所を知り尽くしているというか……。これはもう、学園のトレーナーを辞めて、ウマ娘専門の極上ヘッドスパを開業したほうが絶対に儲かりますって。私とエアグルーヴが最初の常連になりますよ」
「ふざけるな。俺はトレーナーとしてウマ娘を導きたいの。これはあくまで、自分の担当のコンディショニングのために少し知識をかじっただけだ。俺は毛の生えた素人だぞ?」
「その素人に、うちの女帝と孤高の怪物が揃いも揃って骨抜きにされてるじゃないですか……。ウマ娘専門のスポーツマッサージ師でもこうはなりませんよ」
「まー、うん。そう言われると悪い気はしないな」
二人して苦笑いをしていると、不意に、少しだけ開いていた応接室のドアの隙間から、パチン、パチンと扇子を打ち鳴らす小さな音が聞こえた。
「……驚天動地! まさか、あの二人があそこまで無防備な姿を晒すとは……!」
廊下からそっと部屋の中を覗き込んでいたのは、他でもない、このトレセン学園の理事長・秋川やよいだった。
「り、理事長!? いつの間に……」
俺が驚いて声をかけると、理事長はコホンと一つ咳払いをして、扇子で口元を隠しながらも、その瞳をキラキラと輝かせてこちらを見た。
「いやなに、通りがかりに少し、物音が気になってな。……羨望! 私も最近、学園の運営書類が山積みで、酷く肩と頭が重くてな……。どうだろう、その『ウマ娘専門・極上ヘッドスパ』とやら……。理事長特権で、少し受けてみたいなぁ……などと、思ったり、思わなかったり……」
チラッ、チラッと、期待に満ちた視線を送ってくる理事長。
俺とエアグルーヴの担当トレーナー、そして様子を見守っていたルドルフは顔を見合わせ、そして、深く、本日何度目かわからないため息を吐いたのだった。
俺の休日の隙間時間が、トレセン学園の重鎮たちの「極秘癒しサロン」として完全にスケジュールを埋め尽くされることになるのは、もはや時間の問題のようだ。