応接室のドアの隙間からこちらを覗き込み、パチン、と扇子を鳴らした小柄な影。トレセン学園理事長、秋川やよいの唐突なおねだりに、その場にいた全員が一瞬、言葉を失った。
「……はぁ」
沈黙を破ったのは、本日何度目になるかわからないルドルフの深いため息だった。彼女は完全に寝落ちしているエアグルーヴと、だらしなく口を開けてうたた寝を始めたブライアンを交互に見やり、やがて諦めたように肩をすくめた。
「……見られてしまったからには、仕方ありませんね。私としても、日頃から学園のために粉骨砕身されている理事長のお疲れは気になっておりました。……ですが、これはあくまで『極秘』のコンディショニングということで。よろしいですね?」
「快諾! もちろん、私の胸の内にしっかりと留めておこう!」
ルドルフが念を押すと、理事長はパァッと顔を輝かせ、扇子で口元を隠しながらも上機嫌に頷いた。
「では、善は急げだ! ちょうどこの後、少しだけ時間が空いている。私の執務室へ来たまえ!」
そうして俺は、なぜかルドルフを引き連れたまま、トレセン学園の中枢とも言える理事長室へと足を踏み入れることになってしまった。
■
重厚なオーク材の扉を開けると、そこは壁一面の書棚と、膨大な資料が積まれた広大な空間だった。そして、執務デスクの脇で書類の束を整理していた見慣れた人影が、不意の来訪者にピタリと手を止めた。
「あら? 理事長、それに……ルドルフさんに、トレーナーさん? 随分と奇妙な組み合わせですね。次の会議の資料なら、すでに準備が終わっておりますが……」
緑色の帽子を被った理事長秘書、駿川たづなが、不思議そうに小首を傾げる。
理事長はコホンと一つ咳払いをして、事の顛末――俺の『極上ヘッドスパ』の噂と、それをぜひ受けてみたいという自身の要望――を、少しばかり誇張を交えながらたづなさんに説明し始めた。
「極秘のヘッドスパ……ですか」
説明を聞き終えたたづなさんは、呆れたような、それでいてどこか納得したような表情で俺を見た。
「……理事長。先程も申し上げた通り、次の定例会議まで残り15分しかありません。移動の時間を考えれば、実質10分といったところですよ」
「むっ……! 10分、か……」
「ですが」
時間を惜しむように眉を下げる理事長に対し、たづなさんはふっと柔らかな微笑みを浮かべた。
「ここ数日の理事長は、深夜まで書類仕事に追われていらっしゃいましたからね。……10分間だけなら。私の方で、会議の準備は完璧に整えておきます。ですから、その10分間は、どうかご自身の身体を休めることに使ってください」
「感謝! たづな、恩に着る!」
たづなさんの粋な計らいに、理事長は満面の笑みで応え、執務室の奥にある休憩用のパーソナルチェアへと小走りで向かった。
「さあ、トレーナー君! 頼むぞ!」
理事長はどっかりとチェアに深々と腰を下ろすと、両手を頭へ持っていき、自身のトレードマークであるあの大きな帽子を躊躇いなく持ち上げた。
――バサッ。
帽子が外され、ふわりと広がった特徴的な髪。
そして、その頭頂部にピンと鎮座していたのは、見間違えるはずもない、小ぶりでエネルギッシュな『二つの耳』だった。
「……あー」
俺は心の中で、深く、深く納得した。学園内でまことしやかに囁かれていた「理事長は実はウマ娘なのではないか」という都市伝説。俺自身、半信半疑ではあったが、こうして目の前に証拠を突きつけられれば疑う余地はない。
「どうかしたかね?」
「いえ。……そういうことなら、話は早いです」
俺は表情を一切変えず、プロの癒し手としての顔を作って理事長の背後に立った。
ウマ娘の耳と、それに連なる頭部の筋肉構造。それならば、俺が今までルドルフたちに施してきた技術が、そのまま、いや、それ以上の効果をもって適用できる。
「10分間。短い時間ですが、しっかりと解させていただきます。失礼しますよ」
■
両手を温め、理事長の小さな頭部へと手を添える。
親指と人差し指の腹が、その小ぶりな耳の根元に触れた瞬間、俺は指先に伝わってきた感触に思わず息を呑んだ。
―――硬い。
ルドルフのそれも、エアグルーヴのそれも、ブライアンのそれも相当なものだったが、理事長の耳周りの筋肉は、まるで長年圧縮され続けたゴムの塊のように、カチカチに強張っていたのだ。
学園という巨大な組織のトップとして、常に全方位に気を配り、膨大な情報を処理し、決断を下し続ける。その計り知れない重圧と疲労が、この小さな身体の、さらに小さな頭部へとすべて凝縮されているかのようだった。
「……理事長。随分と、無理をなさっているようですね。頭皮が全く動かない」
「む……。自覚は、なかったのだがな。やはり、少し張っているかね?」
「張っているというレベルじゃありませんよ。少し、痛いかもしれませんが……いきます」
俺は指の腹全体を使い、頭蓋骨に張り付いてしまっている筋膜を、ゆっくりと、しかし確実な圧をかけて引き剥がすように揉み解し始めた。
側頭部から耳の付け根にかけて、小さな円を描くように指を動かす。表面の皮膚を擦るのではなく、奥にある筋肉の束を捉えて、ミリ単位でほぐしていく感覚。
「……っ……! おぉ……っ……!」
理事長の口から、感嘆とも呻きともつかない声が漏れた。
「痛いですか?」
「いや……! 痛いが……なんとも言えぬ、この……! 絶頂……! 溜まっていた淀みが、キミの指先から押し出されていくようだ……!」
小柄な身体がビクッと跳ねるが、逃げようとはしない。むしろ、俺の指の圧を迎え入れるように、自ら頭をぐっと後ろに押し付けてくる。
俺はそのまま前頭部から頭頂部へと指を滑らせた。常にフル回転しているであろう脳を覆う筋肉群。ここは特に念入りに、両手の指の腹を使って、リズムよく圧迫と弛緩を繰り返す。
「……ふぅ……むぅ……」
理事長の言葉数が、急激に減り始めた。
ピンと空を突いていた小さな耳が、徐々に重力に負けたようにパタパタと揺れ始め、やがてへにゃりと横に倒れる。
俺は後頭部へと手を回し、首の付け根にある『天柱(てんちゅう)』と『風池(ふうち)』のツボを、親指でゆっくりと押し込んだ。眼精疲労と脳の疲労にダイレクトに効く、最強のスイッチだ。
「……あ……」
ズーン、という深く重い響きが届いたのだろう。理事長の身体からフッと力が抜け、チェアの背もたれに完全に沈み込んだ。
■
時計を見る。マッサージ開始から、まだ5分しか経過していない。
「すー……、すー……」
「……寝ましたね」
俺が小声で呟くと、少し離れた場所で控えていたたづなさんが、目を丸くして口元を手で覆った。
「信じられません……。理事長は、日中どれだけ疲れていても、決して仮眠など取られない方なのに……。たった5分で……」
「限界を超えていたんでしょう。……まだ5分あります。時間が許す限り、やらせてもらいますよ」
俺は眠りに落ちた理事長を起こさないように、それでも確かな効果が出るように、指先の感覚を極限まで研ぎ澄ませた。残りの5分間は、頭部だけでなく、首筋から肩のラインにかけてのアプローチに切り替える。
小さな肩に手を置く。
骨格そのものは華奢だが、そこにある筋肉はやはり並の人間のものではない。だが、その強靭な筋肉が、今は冷えて固まり、悲鳴を上げている。
親指の付け根を使い、僧帽筋の分厚い部分をじっくりと揉み捏ねる。頭部を解したことで血流が良くなっているためか、肩の筋肉も先程よりは柔らかさを取り戻しやすくなっているようだった。
「……んん……」
心地よい夢でも見ているのか、理事長が小さく寝言を漏らし、俺の手のひらにすり寄るように頭を傾けてくる。
その無防備な姿は、学園のトップとしての威厳を完全に脱ぎ捨てた、ただの小さな女の子のそれだった。
この小さな身体で、どれだけの生徒たちの未来を背負い、どれだけの困難に立ち向かってきたのだろうか。俺はただの一介のトレーナーでしかない。彼女の背負う重圧を代わりに背負うことはできない。だからこそ、せめてこの俺の手が触れている間だけでも、一切の重荷を忘れて、深く、安らかな休息を得てほしかった。
無言のまま、静かな執務室に響くのは、規則正しい寝息と、壁掛け時計の秒針の音だけ。たづなさんも、同伴してきたルドルフも、口を挟むことなく、ただ静かにこの癒しの時間を見守ってくれていた。
肩甲骨の縁に指を入れ、癒着した筋肉を引き剥がす。首の横の胸鎖乳突筋を優しく撫で下ろし、最後に再び、耳の根元を包み込むようにして、ぐーっと上へと引き上げた。
「……」
深い、深いため息が一つ。理事長の全身の力が完全に抜けきり、呼吸が最も深い状態へと達したのを確信した。
「……時間ですね」
俺がそっと手を離し、静かに告げると、たづなさんが腕時計を見て一つ頷いた。
「はい。ちょうど10分です。……素晴らしい手際でした、トレーナーさん。理事長のあんなに安らかな寝顔、久しぶりに見ました」
「お役に立てたのなら何よりです。さて……」
俺は眠り続ける理事長を見下ろした。これだけ深く眠ってしまっては、起こすのは少々忍びない気もするが、会議の時間は迫っている。
「理事長。お時間ですよ」
俺が少しだけ声を張って呼びかけると、小さな二つの耳がピクッと動き、ゆっくりと瞳が開かれた。
「……はっ!?」
自分が寝落ちしていたことに気づいた理事長は、ガバッと勢いよく身を起こし、周囲を見渡した。そして、自身の身体の異変――いや、劇的な変化に気づき、ハッとして両手で顔や首筋を触り始めた。
「こ、これは……! 驚愕! 頭を覆っていた重い雲が、嘘のように消え去っている! 目界が……視界が、信じられないほどにクリアだ!」
「お疲れ様でした。少しは楽になりましたか?」
俺が尋ねると、理事長は椅子から立ち上がり、俺に向かって深々と、そして力強く頭を下げた。
「大感謝! まさか、これほどまでの魔法だとは……! たった10分で、丸一日熟睡したかのような回復ぶりだ! トレーナー君、君のその手は我が学園の至宝と言っても過言ではない!」
「褒めすぎですよ。ただの素人マッサージです」
「謙遜! いや、本当に見事だった! ……うむ、これはどうにかして、学園の福利厚生として正式に君を……」
「それは全力で辞退させていただきます」
俺が即座に食い気味で断ると、理事長は「むぅ」と少し残念そうに唇を尖らせたが、すぐに「まぁよい!」とカラッとした笑顔を見せた。
「今日のところは、この素晴らしい体験を胸に、会議へと赴くとしよう! たづな! 行くぞ!」
「はい、理事長。準備はできております」
たづなさんが差し出した大きな帽子を、理事長は再びすっぽりと頭に被り、あの特徴的なウマ耳を隠した。帽子を被り直した彼女は、もはや先程までの無防備な姿ではなく、再びトレセン学園を牽引する力強い『トップ』の顔になっていた。
「トレーナー君! そしてルドルフ会長! 今日は本当に有意義な時間だった! またいずれ、よろしく頼むぞ!」
バタン、と元気よく扉が閉まり、執務室には嵐が去った後のような静けさが戻った。俺は小さく息を吐き、隣に立っていたルドルフを振り返った。
「……さて。とんでもないことになってきたな」
「ふふ……。すまないな、トレーナー君。だが、君の手がそれだけ特別だということの証明でもある。……これからも、私のコンディショニング、いや、私たちの癒し手として、よろしく頼むよ」
ルドルフは悪戯っぽく笑いながら、自身の耳をパタパタと揺らした。
どうやら俺のトレーナー人生は、ターフの上の指導だけでなく、ウマ娘たちの強張った筋肉との終わりのない戦いをも含んだ、想定外の方向へと進んでいくことになりそうだった。