癒しのヘッドスパ   作:灯火011

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理事長の重圧

 理事長室での『10分間の魔法』からしばらく経ったある日の夕暮れ。

 

 学園の喧騒が遠のき、静寂が忍び込み始めたトレーナールーム。そこには、すっかり俺たちの間の日課として定着した、ルドルフのコンディショニング――もとい、耳周りから首にかけての揉みほぐしの時間が流れていた。

 

「……ふぅ……む……。やはり、一日の終わりに君の手で強張りをリセットしてもらうと、翌日の身体の軽さが全く違うな……」

 

「お前は無意識に根を詰めすぎる癖があるからな。はい、今日はここまで。お疲れ様、ルドルフ」

 

 俺がゆっくりと頭部から手を離すと、ソファに深く腰掛けていたルドルフは、トロンと半分閉じていた琥珀色の瞳をゆっくりと開いた。ペタンと伏せていた耳が、心地よさの余韻を味わうようにパタパタと揺れ、やがて本来の凛とした角度へと立ち上がる。

 

「ありがとう、トレーナー君。今日も完璧な施術だった。これでまた明日も……」

 

 ルドルフが身だしなみを整えようと立ち上がった、その時だった。

 

 コン、コン。

 

 ひときわ控えめな、それでいてどこか周囲を警戒しているような小さなノックの音が響いた。俺とルドルフが顔を見合わせる。こんな夕暮れ時に、しかもこれほど忍び足のような気配で訪ねてくる者など心当たりがない。

 

「……開いてるぞ」

 

 俺が声をかけると、ドアノブがゆっくりと、音を立てないように慎重に回された。

 

 そして、ほんのわずかに開いたドアの隙間から、見慣れたトレードマークの大きな帽子が、ひょっこりと覗いた。

 

「……潜入成功ッ! ……邪魔をするぞ」

 

 声を潜め、周囲をキョロキョロと見回しながら入ってきたのは、他でもないトレセン学園理事長・秋川やよいだった。普段の扇子を片手に大音声で闊歩する姿はどこへやら。今日の彼女は扇子を懐にしまい込み、まるでイタズラが見つかるのを恐れる子供のように、抜き足差し足で部屋の中へと滑り込んできた。

 

「理事長? どうしたんですか、そんなお忍びみたいな格好と態度で」

「しっ! 声が大きいぞ、トレーナー君! ……内密! 今日はたづなの目を盗んで、極秘裏にここへ来たのだ!」

 

 人差し指を口元に当ててシーッという仕草をする理事長。その目元には、隠しきれない色濃い疲労の影が落ちていた。

 

「実は……ここ数日、文科省や各協賛企業との折衝が立て続けに入っていてな。……限界なのだ。私の首から上が、いよいよ悲鳴を上げ始めているのだ。そこで、藁にもすがる思いで君のところへ……」

 

 そこまで言って、理事長はソファの前に立つルドルフの存在に気がついた。

 

「おっと、ルドルフ会長。君の施術中だったか。……邪魔をしてすまない。出直すとしよう」

 

「いえ、お待ちください理事長」

 

 踵を返そうとする小柄な背中を、ルドルフが柔らかな声で引き止めた。

 

「私の本日のコンディショニングは、たった今終了したところです。……それに、理事長のお疲れ具合は、傍目から見ても限界に近いとお見受けします。トレーナー君、というわけで、理事長の疲れを和らげるお手伝いをお願いできないだろうか?」

 

 ルドルフが俺に視線を向ける。その瞳には、学園のトップを案じる確かな気遣いがあった。

 

「俺は構いませんよ。では理事長、せっかくたづなさんの包囲網を突破してきたんです。しっかり解していきましょう。ルドルフが座っていたそこのソファへどうぞ」

 

「……感謝!!」

 

 理事長はパァッと顔を輝かせ、まるでオアシスを見つけた旅人のような勢いでソファへと身を沈めた。

 

 

 理事長は自らバサッと帽子を取り去り、傍らのテーブルへと置く。ふわりと現れた、頭頂部の小ぶりなウマ娘の耳。それは以前執務室で見た時よりもさらに生気を失い、カチカチに固まったまま力なく半立ちの状態で固定されてしまっていた。

 

「では、失礼しますよ」

 

 俺は理事長の背後に立ち、まずはその小さな肩へと両手を添えた。

 

「……っ」

 

 触れた瞬間、指先から伝わってきたのは、やはり尋常ではない筋肉の硬直だった。

 

 以前の10分間の施術でいくらかマシになっていたはずだが、この数日の激務がすべてを元の木阿弥、いやそれ以上に悪化させている。僧帽筋がまるで厚いゴムの板のように張り詰め、関節の動きを完全にロックしてしまっていた。

 

「……やはり、相当張っていますね。まずは首と肩の土台から緩めていきます」

 

 俺は親指の腹と手根部を使い、肩甲骨の縁から首の付け根に向かって、ゆっくりと、しかし体重を乗せた深い圧をかけていく。

 

「……んぐっ……! おぉ……っ」

 

 痛気持ちいいラインのギリギリを攻める圧迫。理事長は小さく呻き声を上げながらも、逃げることなくその刺激を真っ向から受け止めている。

 

 凝り固まった筋肉の束を指で挟み込み、古い老廃物を押し流すように揉み捏ねる。首の横の胸鎖乳突筋を優しく、しかし的確に指の腹で捉え、下へと流す。

 

 数分間、無言で肩と首の強張りと格闘を続けていると、次第に理事長の呼吸が深く、規則的なものへと変わってきた。

 

「……ふぅ……むぅ……。君の指が通った場所から、氷が溶けるように熱が広がっていくのがわかるぞ……」

 

「血流が再開した証拠です。土台は少し動くようになりました。……さて、ここからが本番ですよ」

 

 俺は肩から手を離し、いよいよ理事長の頭部、その小さなウマ娘の耳の根元へと両手を移動させた。

 

 触れてみて、確信する。一番凝っているのは、間違いなくここだ。

 

 常に様々な意見に耳を傾け、情報を処理し、決断を下す。その精神的な重圧が、耳周りの側頭筋と、耳介を動かす筋肉群を異常なまでに収縮させている。まるで、頭蓋骨というヘルメットの上に、さらに強固な筋肉の兜を被っているかのような状態だ。

 

「少し、強い圧をかけますよ」

 

 俺は両手の人差し指と中指、そして親指の腹を使い、理事長の耳の付け根をしっかりと挟み込んだ。そして、ただ揉むのではなく、筋肉の束を捉えたまま、耳の根元から中ほどの軟骨に向かって、ぐーっと持続的な圧を込めながら、引き上げるように解していく。

 

「……っ!?」

 

 理事長の身体が、ビクンと大きく跳ねた。

 

「ぐっ……あ……っ、そこ、は……!」

 

 頭蓋骨にへばりついていた筋膜が、ミリ単位で引き剥がされていく感覚が指に伝わる。つまりこれは、痛みの奥底にある、強烈な弛緩のサインだ。

 

 俺は手を緩めず、さらに深く、じわじわと力を込め続ける。耳周りの筋肉が、俺の指の熱と圧力に耐えきれず、ついに白旗を上げるその瞬間を待つ。

 

「……あぁっ……! ぁ……あ……」

 

 限界まで張り詰めていた理事長の耳の筋肉から、フッと不自然なほどの抵抗が消え去った。それと同時に、理事長の口から、言葉にならない、完全に理性を手放したような甘く長い吐息が漏れた。

 

「……ひゃぅ……ぅ……」

 

 ストン、と。

 

 文字通り、糸が切れた操り人形のように、理事長の小さな身体がソファの背もたれへと崩れ落ちた。完全に昇天している。普段の威厳ある「驚天動地」も「感謝」もない。ただ圧倒的な心地よさの前にすべてを投げ出し、完全に意識を手放した無防備な姿がそこにあった。

 

「……すー……、すー……」

 

 あっという間に寝落ちしてしまった理事長。だが、俺の施術はこれで終わりではない。

 彼女の筋肉は、一度昇天させた程度で完全にほぐれきるほど甘くはなかったからだ。

 

「……本当に、どれだけ無理をしてるんだか」

 

 俺は誰にともなく小さく呟き、眠りに落ちた理事長の頭部へ、再び静かに手を添えた。

 

 意識が完全にオフになり、筋肉が自発的な緊張を解いている今こそが、最も深層の凝りにアプローチできる絶好のチャンスなのだ。

 

 眠りを妨げないよう、先程よりも少しだけ圧を弱めつつ、しかし手数は増やして、耳の裏から後頭部、そして首の付け根にかけての微細な筋肉の強張りを、一つ一つ指先で探り当てては丁寧に解きほぐしていく。

 

 カチカチだった頭皮が、徐々に本来の弾力を取り戻し、指の動きに合わせて滑らかに動くようになってきた。眠っている理事長の顔は、日々の激務による険しさが完全に抜け落ち、まるで幼い子供のように穏やかで安らかなものになっている。

 

 俺が黙々と、時に指の角度を変え、時に手のひら全体で頭部を包み込みながら、癒し手としての作業に没頭していると――。

 

 コトン。

 

 不意に、俺のすぐ脇のデスクの上に、湯気を立てるマグカップが静かに置かれた。

 

「……」

 

 視線を向けると、そこにはいつの間にか給湯スペースに立っていたらしいルドルフが、静かに微笑みを浮かべて立っていた。

 

 彼女の手にも、同じマグカップが握られている。漂ってくるのは、ほのかに甘いココアの香りだ。

 

「……お疲れ様、トレーナー君。少し、休憩にしないか」

 

 ルドルフは眠り続ける理事長を起こさないように、極めて小さな声で囁いた。その瞳には、学園の長を献身的にケアし続ける俺に対する、労いが込められているように見えた。

 

「ああ。ありがとう、ルドルフ」

 

 俺は理事長の頭をそっとクッションに預け直し、ブランケットを肩口までしっかりとかけてから、デスクの上のマグカップを手に取った。

 

 

 温かいココアを一口飲む。程よい甘さとカカオの香りが、集中力で少しだけ張り詰めていた俺自身の神経を、じんわりと解きほぐしてくれた。

 

「……理事長、相当お疲れのようだな」

 

「そうだな。君の指先から、彼女の背負っているものの重さが伝わってくるようだったよ。……君に頼んで、本当に良かった」

 

 ルドルフは自身のココアを両手で包み込みながら、ソファで安らかな寝息を立てる小さな理事長の姿を、まるで慈しむように見つめていた。

 

「これだけガチガチだと、起きた後に少し気怠さが出るかもしれない。たづなさんが探しに来るまでは、このままここで寝かせておいてやろう」

 

「賛成だ。……では、私も、書類仕事の残りをここで片付けさせてもらうとしよう。トレーナー君。静かな空間を、もう少しだけ共有させてほしい」

 

 窓の外はすでに完全な夜の闇に包まれ、トレーナールームを照らすのはデスクのスタンドライトの柔らかな光だけとなっていた。

 

 規則正しい理事長の寝息と、ルドルフが書類にペンを走らせる微かな摩擦音。

 

 そして、部屋を満たすココアの甘い香り。

 

 俺は自分のマグカップを片手に、時折理事長の首の角度やブランケットの乱れを直してやりながら、この何気なくも濃密な、誰にも秘密の癒しの時間を、静かに味わい続けていた。

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