古い童話を調べると現代版との違いに驚くなんて定番ネタですが、人魚姫も例によって驚きの秘話があったりします。
実は「人魚姫」の前身となった「アウネーテと人魚」って、人間♀と人魚♂の恋物語なんですよね……。
「チヨコさーん! こっち! こっちですよー!!」
セイラが、人気のない砂浜でチヨコに向かって両手を大きく振ってきている。
チヨコはセイラを追いかけて走った。
説明だけ聞けば、青春ドラマの1ページのようなシチュエーションである。
何故こうなったかというと、セイラが母親から聞いた幸せシリーズの1つを実践してみたいと言い始めたからだった。
単に「浜辺で追いかけっこをする」というだけならば、水着も要らないし、来月の海開きを待つ必要もない。
そんなこんなで、二人は歩いて30分ちょっとのところにある内海の浜辺へと足を運んだ訳だ。
……だがここで、残酷な問題がチヨコの前に立ちはだかった。
「チヨコさーん! 大丈夫ですかー?」
「ぜぇ、ぜぇ……! ま、まって、コレ、おもってたより、しんどい……!!」
まず単純に、セイラとチヨコの身体スペックが違いすぎた。
犬みたいに楽しそうに浜辺を駆け回るセイラとは対照的に、チヨコは肩で息をしていた……。
足場の悪い浜辺は予想外にチヨコの体力を消耗させたのだ。
ちょっと先から手を振ってチヨコを待っているセイラの声が、なんだか彼岸の先にすら思えた。
まだ6月の気温だというのに、チヨコは滝のように汗をかいていた……。
チヨコとて運動音痴という訳ではないのだが、汗ひとつかいていないセイラは格が違うというか次元が違うというか……。
荒い息を吐きながら、ついにチヨコは膝と両手を砂浜に突いてしまった。
「はぁっ、ふぅっ……なんか、そうぞうしてたのと、ちがうよぉ……!」
チヨコとしては、もっとキャッキャウフフみたいな絵面を想像していたのだが。
実際には既に身体中が汗だくなうえに、喉の奥から苦いものがこみ上げて来てしまっている。
なんとか息を整えながら、チヨコは汗を拭った。
これではラブロマンスじゃなくてスポ根ドラマだ。しかも昭和の。
「そうなんですか……? 私の説明に具体性が足りなかったかもしれないですね……?
もっと詳しく言いますと、母さんは『サメエイガ』なるものの中で、浜辺での追いかけっこを見たと言っていました」
「人間同士って前提自体が間違ってた!? そんなことあるの!!?」
スポ根ドラマですらなかった!!
まさかのB級パニック映画説が急浮上してきた!!
今からチヨコにサメ役をやれとでもいうのか??
逃げる側のフィジカルが強すぎてB級パニック映画としてすら成立する気が全くしないのに??
「なんだか、お労しい感じですね……? 汗をかいた後は水を飲むのが大事と聞いたことがあります。どうぞ!」
チヨコのもとまで歩み寄ってきたセイラが、申し訳なさそうにしながら、大きくて扇状の桜色の貝殻を渡してきた。
綺麗な水が扇状の貝殻の上にきらめいている。
貝殻をコップ代わりにして水を飲むのは、何だかオシャレな気がした。
疲労で朦朧とした頭で、チヨコは何も考えずに貝殻に口をつけて水を飲んだ。
「ごほおっ!!!??」
海水だった。
「ち、チヨコさんっ!? どうしたんですか!? まさか新手の妖精族の攻撃を受けて……!?」
飲む前に「この水どこから持ってきた??」とツッコミを入れるべきだった……。
あやうくゲロを吐くところであったが、チヨコは何とか堪えた……。
口の中に広がった塩気と苦みと生臭さが気持ち悪すぎる。
さすがにこの仕打ちにはイライラっとしたチヨコさんであったが……。
まぁセイラが世間知らずなのは把握している。
セイラに悪気はないはずだ、と何とか怒りを飲み込んだチヨコなのであった。
でも残りの海水は飲み込まずに捨てた。
チヨコは、なんとか吐き気を堪えながら気持ちを落ち着かせようと務めた。
セイラが背中をさすってくれた。
なんだかマッチポンプという言葉の意味が分かった気がした。
結局、セイラに背負ってもらった。
背丈は殆ど一緒のはずなのに、セイラは楽々とチヨコを背負って息一つ乱さなかった。
相変わらず謎のフィジカル強者である。
レモン叔母さんが冗談めかしてワイルドガールと呼ぶ気持ちも分かる気がした。
まぁ年頃の乙女としては、重いと言われるよりはマシではあるのだが……。
「母さんが教えてくれたんですけれども、ボロボロの兎さんを海に浸すと治るんですよね。海って本当に不思議です」
「うんうん、そうだね。古事記にもそう書いてあるねぇ。
……って、ならないでしょ?? 作り話だから、絶対に試しちゃダメだからね??」*1
「えっ!? 作り話なんですか!?」
心から驚いているセイラの声に、チヨコは自然と笑ってしまっていた。
疲労困憊の最中に海水を飲まされるという結構な仕打ちを受けた後なのに、不思議と許してしまっている自分が居て。
セイラの背に身体を預けていると、チヨコは何だか安心してしまっていた。
チヨコ自身でも何と言ったらいいか分からなかったが……不思議と一緒に居て楽しい、というべきか。
世間知らずで、でも心から嬉しそうに笑って、走り回って。
そんなセイラと一緒にいると楽しい、とチヨコも思ってしまうのだ。
ぐいぐいとリードしてくれる感じが心地よいというか。
「~♪ ~~♪」
……そんな、時だった。
どこからか歌声が聞こえたのだ。
チヨコを背負ったまま、セイラは音源の方へと歩いていった。
セイラの歩いた先にあったのは、浜辺の一角に備わった岩場であった。
そこで、チヨコやセイラと同年代と思しき女子が一人で歌っていた。
綺麗な歌声だと思った。
しばらくの間、二人は歌声を聞きながら立ち尽くしていた。
そして、歌のキリの良いところで……その女の子はチヨコたちに気付いた。
歌声が止まった。
おそらく歌声を誰かに聞かれていると思っていなかったのだろう。
女の子は、小さくチヨコたちへと会釈をしてみせた。
「綺麗な歌だったよ。ジャマしてごめんね」
チヨコはセイラの背中に負ぶわれたまま、小さく手を振りながら謝った。
このまま歌声女子から離れる流れだと思った。
ところが。
「何だか、悲しそうに聞こえました。何か力になれることはありませんか?」
セイラが、謎の嗅覚を発揮していた。
チヨコとしては特に歌声に悲しみの要素は感じなかったのだが……。
しかし、よく観察してみたら不穏な要素を発見してしまった。
歌声女子の足元に、平たい石が積み重ねられている。
海辺じゃなくて河原でやる作業のような気もするが、どのみち不穏要素でしかなかった。
とりあえず井上セイラと絆田チヨコが名乗ると、歌声女子は中原アイネと名乗り返してくれた。
「少し前まで、この海岸で友達とよく会っていたの。もうその子は来られなくなっちゃったんだけど、ついここに足が向いちゃって……」
「……もしかして、なんだけど。干からびた変死体で発見された?」
言葉を濁そうとした中原アイネの口ぶりに釣られて、絆田チヨコが質問を追加してみると。
アイネは、驚いた様子だった。
しかし否定の言葉は返ってこない。
チヨコは、その沈黙を肯定と受け取った。
おそらくアイネには、友達の死を悼む気持ちはあっても、妖精族がらみの事件に深入りする気は無いのだろう。
もしくは逆に、チヨコたちに深入りしてほしくないのかもしれない。
――戦略的撤退です!!
チヨコは、胸が苦しくなった。
先日、チヨコは……クロニャンは、赤毛の大猿妖精に手も足も出なかった。
もしあそこで大猿妖精を倒せていたら、目の前の子だって悲しみに暮れることは無かったのでは?
妖精族のせいで親を亡くしている身としては、その悲しみが痛いほどよく分かった。
「どこから来たのか分からない、人魚姫みたいな子だった。
たまにこの海岸で顔を合わせて、なんでもないことで一緒に笑って、お喋りして、歌って、それだけの関係だったの。……名前ぐらい、聞けばよかった」
アイネは楽しげな思い出を振り返りながら、海の方へと言葉を吐き出した。
悲しい、とは言わなかった。
でも悲しそうに見えた。
「にんぎょひめ……?」
「古事記は知ってるけど人魚姫は知らないの、知識の偏り方おかしくない??」
セイラもセイラで大概に不思議な子だ、なんてチヨコは思った。
だが冷静になって考えてみると、チヨコ自身も人魚姫という童話に関して知っていることは少なかった。
人魚が歌声を失った代わりに足を得て、なんやかんやで泡になって消えるんだっけ……ぐらいの認識である。
まぁ中原アイネの方が詳しいだろうから、そちらに話してもらった方が良いだろう。
「異形の6人兄弟の末っ子が人間に憧れて、人間のフリをして地上で暮らす恋物語よ。
人間たちが異形の人魚を愛してくれることなんて無いかもしれない、って覚悟のうえで、それでも人魚姫は好きになった人間と添い遂げようとするの」
チヨコとしては、人魚姫というと美しいお姫様のイメージがあったが……。
なんだか中原アイネの語り口を聞く限りだと、異形の怪物のようなニュアンスである。
「……人魚姫は、その後どうなるんですか?」
なぜだか、セイラが人魚姫の童話に興味を示したようだった。
チヨコとしては、少しばかり意外だった。
どうもセイラには色恋沙汰のイメージが無いし、寺島サトルのコイバナの時も恋愛には疎い様子だったのに。
ただ、セイラの反応はコイバナに浮かれているという雰囲気ではなかった。
緊張が垣間見えるというか、不安がっているというか。
アイネの語り口からバッドエンドの匂いを嗅ぎ取っているのかもしれない。
「人魚姫の恋した人間は、結局人魚姫の献身には気づかなかったわ。偽物のヒロインと結婚してしまうの。
愛を得られなかった人魚姫は、最後は死を選ぶことになるわ」
「……そう、なんですね」
セイラは、なんだか苦しそうに見えた。
本人は無意識にやっているのだろうが、拳を握りしめてしまっている様子だった。
この間はフェンネルたちの怒鳴りあいを前に泣きだしてしまったこともあったし、感受性というか共感性が高い子なのかもしれない。
因幡の白兎の童話を信じてしまっていた様子もあるし、ここはチヨコの方から補足情報を出してやるべきだろう。
その物語はあくまでフィクションなのだ、と。
「セイラちゃん。その人魚姫の話も作り話だから、そんなに真に受けなくて大丈夫だよ。
だいたい、そんな妖精族みたいな化け物が身近に潜んでいたとしても、いつかはバレるに決まってるし」
「…………そう、ですよね」
なんだか、セイラの顔色には不安が浮かび上がっているように見えた。
妖精族の脅威を思い出させてしまったのかもしれない。
自分がセイラを守る、と言いたい気持ちを抑えた。
チヨコの力……クロニャンでも、妖精族と戦い抜くだけの力があるかどうかは怪しかったからだ。
キノコ妖精との闘いは辛勝だったし、赤毛の大猿妖精には完敗しているのだから。
それでもチヨコにとって、セイラは特別な存在だった。
チヨコの頭の中に苦い思い出が蘇った。
7年前に母親がオオカミ妖精に連れ去られたあと、チヨコは周囲にその事件を信じてもらおうとしたのだ。
でも、同年代の子供たちは誰も信じてくれなくて、チヨコは「おかしい子」扱いだった。
父親とレモン叔母さんだけがチヨコの話を信じてくれたが、やはり寂しさと悔しさは今でも胸の奥に巣食ったままだ。
中学に上がってから、チヨコは妖精族の話を周囲にしなくなったし、「普通の子」として振る舞って友人も作るようになった。
それでも……どうせ妖精族の話は信じてくれないんだろうな、という心の壁は残り続けた。
「セイラちゃん。……私、頑張るよ」
妖精族がらみの事件を信じてくれて、一緒に遊んで笑いあってくれるセイラを……失いたくない。
チヨコは、改めて強く決意を固めたのであった。
……どんな妖精族だろうと殺してみせる、と
この小説にとって、「人魚姫」は遠い祖先みたいな存在だったりします。
当作品のモチーフは「ガヴ」なんですけど、実は「ガヴ」のモチーフが「人魚姫」なんですよねぇ。
まわりまわって人魚姫伝説と縁が出来る感じ……こういうのを奇縁って呼ぶのかもしれないですね。