「ああ、うん……なんて?」
電話越しの声に頷く。
普段電話を使わないものだから、こんなにノイズが多いのかあと息を吐く。これで三度目の聞き返しだった。
「潜入はできた?」
「うん、それはできた。少し目立つけど大丈夫そう。対象も決めた」
「了解。気をつけて」
長いようで短い会話も終わって、やっと一息をつく。
久しぶりのナスターシヤさんとの会話だったのに、と思う心もあった。けれどいかんせん疲れるものだった。
「何やってるの?」
ため息を吐いていると、ケーレルさんが後ろから手元を覗いてくる。
「何でもないですよ。ただ帽子が少し曲がってるかなって」
電話は懐にしまい込んでいた。
小さくて良かったものだ。その分ノイズが多いのが玉に瑕だが。
「うーん、なんだか話し声が聞こえた気がしたんだけどな」
「気のせいじゃないですかね。どこか遠くの声を聞いたのかもしれません」
ケーレルさんの目に、大した疑惑は浮かんではなかった。
ただいまだに納得していないという様子が見て取れた。
「ところで今日ってまだ何かありましたっけ。少し記憶に自信がなくって」
今朝に教師がしていた話を、思い出せないというように振る舞う。
ケーレルさんは目を瞑って考える素振りを見せた。
「そういえば、先輩からなんかあったっけ……」
「もうすぐ時間ですよね。部屋の前に戻りますよ」
どうやらもっと通信をする場所を考えないとな、と思う。
物置の近くだったら大丈夫だと思ったのだが、中々思い通りにはいかないものだ。
……そもそも、どうしてケーレルさんはあそこに近づく必要があったのか。
ケーレルさんは軽い足取りだった。
廊下をスキップで進んでいる。
身長の高い彼は、その長めの髪を振り回している。
何か特別な理由があった訳ではない。
しかし、彼にも疑いを向けることを決めた。
反革命分子のなかに、彼のような軽薄さを持った人は多い。
特別汚らしい人達だ。
同志という言葉を知らない反革命の人たちだった。
……部屋の前には、まだ面識のない人も含め分隊員が揃っている。
そのどれもが無表情に私を見ていた。
この視線には不満が隠れていたことを否定はしない。
「遅くなりましたかね」
マルファさんに小さく声をかける。
彼女は首を横に振った。
依然として刺さる不満の視線に、少し溜息を吐きそうになった。
果たして彼らは何のためにここにいるのだろうか……。
ともに国に尽くす同志を、何だと思っているのか。
全く偉大な赤軍に相応しくない。
これらの汚れが沢山あると思うと、やはり嫌気が差す。
「やあ、諸君待ったかな」
演劇めいた言葉に顔をあげる。
バレエでも踊るような調子で現れた男は、とても大きな体格をしている。
その様子が少し滑稽に思われた。バレリーノだとしても、やはり大きい。
「さて諸君、付いてきたまえ」
一貫した滑稽な口調に、困惑している人を見つけた。
ドミトリー・ジェーヴシキン。面識のない分隊員だ。
後を追いながらも、ジェーヴシキンさんの側ににじり寄った。
「ここが諸君らの食堂である」
こんなような説明を聞き流しながらも、観察を続ける。
ジェーヴシキンさんはどうやら未知に弱いようだ。
当惑が長引いていた。今はもう落ち着いた様子であるが、彼が先輩に向けるのは嫌悪の視線だった。
「問題だ。この講義堂はいつできたと思う?」
唐突な問いかけが私たちを襲った。
先輩は興味深そうにこちらを観察すると、ジェーヴシキンさんを指さした。
「ここ数年なのは分かりますが、それ以上は……」
「正解は半年といったところだ。大きく外すと思ったんだがな」
先輩は少し落胆したと言った様子である。
講義堂には大理石の柱なんかが目立つ。
特に革命英雄の銅像も置かれていることなんかを見ると、まるで帝政の名残のようだ。
「よく最近だって分かりましたね」
ジェーヴシキンさんを小さく称賛した。
彼は私を見下ろす。これは物理的な観点からのことであるが、他意が含まれていることもあるかもしれない。
しかし、気難しいものだ。
あんまりにもなら逮捕でもしてやりたいよ。
……まあ、するつもりはないんだけどね。